第67話:ヤキモチの進化
防音室のデスクに置かれた大型モニター越しに、華やかでよく通る女性の声が響いていた。
『本当に久しぶりね、奏ちゃん。元気そうでよかったわ。一時はどうなることかと思って心配してたんだから』
画面の向こうで優雅にコーヒーカップを傾けているのは、国内でもトップクラスの知名度を誇る有名女性シンガー・LISAだった。
美しくウェーブのかかった長い髪と自信に満ちた強い眼差し。テレビやライブ会場で見せる圧倒的なカリスマ性は、オンラインミーティングの画面越しであっても健在だ。
「ええ、ご心配をおかけしました。おかげさまで今はつつがなくやっています」
一ノ瀬奏は画面に向かって穏やかな、しかし一定の距離を保ったビジネススマイルを返した。
LISAは奏がかつて「天才作曲家・一ノ瀬奏」として第一線で活動していた頃に、何度か楽曲提供を行った相手だ。
奏が音楽業界の商業主義にすり減り、心を壊してスランプに陥り姿を消した際も、彼女の才能を高く評価し、復帰を待ち望んでくれていた数少ない理解者の一人でもある。
現在の奏はプロデューサー『タナデ』として、マシロ以外の誰にも曲を書かないと決めていた。
しかし今回ばかりは、LISA本人の熱烈なオファーと過去に世話になった恩義、そして何より「どうしても一ノ瀬奏の曲でなければ歌えない詞がある」という彼女のアーティストとしての純粋な熱意に押し切られ、特例として一曲だけ楽曲提供を了承したという経緯があった。
『それにしても、あの奏ちゃんが他人のプロデュースに専念してるなんて、最初は耳を疑ったわよ。でもマシロちゃんの歌⋯⋯本当に素晴らしいわね。奏ちゃんの作るメロディが一番幸せそうな形で鳴ってる』
「⋯⋯ありがとうございます。彼女の才能に私が引っ張られているだけですけど」
『ふふ、謙遜しないの。⋯⋯ねえ、また一緒に仕事したいわ。曲の打ち合わせも兼ねて、今度二人で食事でもどう? いいお店を知ってるの』
LISAは画面越しに甘く誘うような視線を向けてきた。
彼女は昔から才能のある人間を好む。同性である奏に対しても単なる仕事仲間以上の強い興味と好意を抱いていることは、言葉の端々から十分に伝わってきた。
「お誘いは光栄ですが、今はプロデュース業で手一杯でして。⋯⋯機会があれば、ぜひ」
奏は角が立たないように大人の女性としての社交辞令でさらりと躱しつつ、ミーティングの要件をまとめていった。
会話を続けながら奏の意識の半分は、自分の背後――防音室の隅に置かれた小さなテーブルへと向けられていた。
そこにはマシロがいた。
彼女はスケッチブックを広げ、クレヨンを握りしめたまま静かに座っている。
(⋯⋯大人しくしているな)
奏はモニターから視線を外さないまま、内心で少しだけ首を傾げた。
以前のマシロなら、こんな状況はあり得なかった。
タナデが自分以外の誰かと――それも画面の向こうの綺麗な大人の女性と――親しげに話をしている。しかも「一緒に仕事をする」「食事に行く」などという単語が飛び交っているのだ。
かつてのマシロであればその機微を察知して不機嫌になり、長い尻尾を床にバシンバシンと叩きつけて騒音を出しただろう。
あるいは、オンライン中であることなどお構いなしに奏の膝の上に無理やりよじ登り、カメラに向かって「タナデはマシロの!」と全身で独占欲を主張し、威嚇の「シャーッ!」を披露していたはずだ。
しかし、今日のマシロは一言も発しない。
ただじっと俯き、クレヨンを画用紙に走らせる「コトコト」という小さな音だけを響かせている。
ピンと立った白い猫耳は、明らかに奏たちの会話の方向へと向けられているが、それ以上の行動を起こす気配はなかった。
『じゃあ、アレンジの方向性については後日テキストで送るわね。今日はありがとう、奏ちゃん』
「こちらこそ、ありがとうございました。引き続きよろしくお願いいたします」
LISAが優雅に手を振り、オンラインミーティングの通話が切れた。
画面が暗転し、防音室にいつもの静寂が戻ってくる。
奏はパソコンを閉じて小さく息を吐いてから、椅子を回転させてマシロの方を向いた。
「終わったよ。⋯⋯ちゃんと大人しく出来て、偉いぞマシロ」
奏は立ち上がり、マシロの背中に声をかけた。
邪魔をしてはいけないと我慢していたのだとしたら、それは大変な進歩だ。思い切り褒めて頭を撫でてやろうと手を伸ばしかけた。
しかし。
「⋯⋯うん」
マシロは顔を上げず、クレヨンを画用紙に擦り付けたまま短く返事をしただけだった。
奏は差し出しかけた手を止め、マシロの横顔を覗き込んだ。
その横顔は妙に硬かった。
いつものように「タナデ、偉い?」と褒め言葉を要求する無邪気さがない。かといって、あからさまに怒って頬を膨らませているわけでも、拗ねてそっぽを向いているわけでもない。
何かを、一生懸命に自分の頭の中で考えて飲み込もうとしているような、そんな真剣な顔だった。
「⋯⋯マシロ。怒ってるのか?」
奏はしゃがみ込み、マシロの視線の高さに合わせて尋ねた。
「⋯⋯怒ってない」
マシロは画用紙から目を離さずに答えた。画用紙には黒や青のクレヨンで、ぐるぐるとした円がいくつも描かれている。
「拗ねてるのか?」
「⋯⋯拗ねてない」
「じゃあ、なんだ。お腹でも痛いのか?」
奏の心配そうな声にマシロはようやく動かしていたクレヨンをピタリと止めた。
そして、ゆっくりと顔を上げ、奏の方を向いた。
左右で色の違うオッドアイが、まっすぐに奏の黒い瞳を捉える。
その瞳の奥には幼児のような感情の爆発ではなく、静かで切実な揺らぎがあった。
「⋯⋯あの人、タナデの曲、好きって言ってた」
ぽつりと、マシロが口を開いた。
「⋯⋯昔からの知り合いだからな。私の作る音楽を評価してくれている。音楽家としては、ありがたい話だよ」
奏は隠すことなく事実を伝えた。
マシロは小さく頷き、膝の上で両手をギュッと握りしめた。
「⋯⋯うん。マシロも、タナデの曲好き。世界で一番、大好き」
「よく知ってるよ。ありがとう」
奏が微笑みかけるとマシロは少しだけ視線を落とし、言葉を探すように自分の下唇を軽く噛んだ。
そして、小さな声で、しかしはっきりとした口調で言った。
「あの人がタナデの曲を歌うの、いいことだって、わかる。⋯⋯それがタナデのお仕事」
その言葉に奏は目を丸くした。
「でも⋯⋯」
マシロの猫耳がペタンと力なく伏せられた。
握りしめた小さな手が、わずかに震えている。
「でも⋯⋯マシロだけのがいいなって、思った」
静かな防音室にその言葉が落ちた。
奏は雷に打たれたような衝撃を受けた。ハッと息を呑み、目の前にいる銀髪の少女を見つめ直す。
かつてのマシロが振りかざしていたのは「タナデはマシロの!」という、幼児特有の無条件で無邪気な独占欲だった。世界は自分を中心に回っており、自分の欲しいものは自分のものだという、純粋ゆえの暴力的な感情。
だが今マシロが口にした言葉は違う。
相手にも仕事という事情があり、タナデにも交友関係や音楽家としての立場がある。それを邪魔してはいけないのだと彼女はすでに理解している。
他者の領域を認識し、理性を働かせて我慢しようとした。
「それでも、私だけのものならいいのに」と、自分の心の中に渦巻くエゴイズムを自覚し、その矛盾に苦しみながら吐露したのだ。
それは、ただのワガママではない。
彼女が「他者」と「自分」の境界線を明確に引き、人間社会の複雑な感情――『嫉妬』と『理性』を獲得しつつあるという確かな心の成長の証拠だった。
動物的な本能から人間らしい繊細な心へ――ヤキモチの進化。
「⋯⋯タナデ、マシロ、わがまま?」
マシロが不安そうに上目遣いで奏を見た。
嫌われないだろうか。困らせてしまっただろうか。そんな怯えが揺れるオッドアイの奥に見え隠れしている。
奏は胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じた。
成長することは喜ばしいことだ。でもそれで物分かりが良くなっていく彼女の姿を見るのは、こんなにも切ないものなのか。
奏は膝をつき、マシロの目の前にしゃがみ込んだ。
そして、きつく握りしめられていたマシロの両手を自分の両手で優しく、しっかりと包み込んだ。
「⋯⋯わがままでいい」
奏の低く落ち着いた声が、マシロの耳に届く。
「お前は私の曲が好きだと言ってくれた。私が書いたメロディに、お前の声が乗った時⋯⋯私は自分の音楽が初めて世界で一番美しいものになったと確信したんだ」
奏はマシロの瞳から絶対に視線を逸らさなかった。
これは保護者としてではなく、一人の音楽家として、そして最も大切なパートナーとしての誓い。
「仕事として他人に曲を書くことはあるかもしれない。でも⋯⋯私が本当に自分の魂を削って、一番気合を入れて曲を書く相手は、マシロ、お前だけだ」
奏は包み込んだマシロの手に少しだけ力を込めた。
「それだけは絶対に変わらないし、誰にも譲らない。⋯⋯お前だけのものだ。安心しろ」
「タナデ⋯⋯」
その言葉を聞いた瞬間。
マシロの顔から、張り詰めていた緊張がふわりと解け、柔らかな光が差し込んだように表情が緩んだ。
ずっとこらえて、床にぴったりと押し付けられていた長い尻尾がパタ、パタと、嬉しさを隠しきれないように揺れ始める。
伏せられていた耳もピンと立ち、オッドアイに大粒の涙がじんわりと滲んだ。
「⋯⋯じゃあ、いい」
マシロは鼻をすすると奏の胸に勢いよく飛び込んだ。
細い腕が奏の背中に回り、ギュッと力強く抱きついてくる。
「タナデの一番はマシロだもん。マシロの曲、いっぱい作ってね」
「ああ。いくらでも作ってやる」
奏は体勢を崩さないように踏ん張り、マシロの背中をしっかりと抱きしめ返した。
腕の中に収まる体は拾ったあの雨の夜から比べれば、驚くほど大きくなった。
言葉も巧みになり、心も複雑に成長している。
これから彼女はもっと多くの感情を知り、本当の意味で大人になっていくのだろう。
それは私の手の届かない場所へ少しずつ歩みを進めているということでもある。
(⋯⋯それでも)
奏は少しの寂しさと、それ以上の途方もなく大きな愛おしさを胸に抱きながら、顔を埋めてくるマシロの、さらさらの銀髪を優しく撫でた。
「大好きだぞ、マシロ」
「マシロも、タナデだーいすき!」
防音室の中、交わされる体温と匂い。
複雑になっていく世界の中でも、ただ一つ、この確かな絆だけは決して変わらないのだと奏は静かに確信していた。




