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第66話:マシロ、手紙を書く

 リビングの一角に設けられた、マシロ専用のビーズクッションコーナー。

 普段なら食後の昼寝スペースとして活用されているその場所で、今日ばかりは奇妙な緊張感が漂っていた。


 ローテーブルの上に広げられているのは先日遊びに来た戌井くるみから貰った、可愛らしい猫柄の便箋セット。そして真新しいHBの鉛筆とカドがピンと尖った消しゴムだ。


 マシロはクッションの上に正座し、目の前の真っ白な紙を真剣なオッドアイで睨みつけていた。


「お手紙、書く!」


 気合十分に宣言し、マシロは右手を伸ばした。


 もうすぐ、一ノ瀬奏――タナデの誕生日がやってくる。


 マシロは家事手伝い(という名目の破壊活動)によって、コツコツと百円玉を貯金箱に貯めてきた。その大切なお金で何を買うかは実はまだ決まっていないが、くるみから「プレゼントには絶対にお手紙を添えた方がいいよ!」と熱烈なアドバイスを受けていたのだ。


 マシロは鉛筆をグーの形で力強く握りしめた。


 配信画面を流れるコメントやテレビのテロップなどから、マシロはすでに多くの日本語の文字ひらがなを「読む」ことができる。そこに込められた「かわいい」や「すき」といった感情の機微を読み取る能力だってある。


 しかし「自分の手で文字を書く」という経験は、これまでの短い人生において皆無に等しかった。


 マシロは震える手で鉛筆の芯を紙に押し当て、最初の一文字である「た」を書こうと試みた。

 頭の中には、はっきりと「た」の形が浮かんでいる。横線を引いて、縦線を引いて、その横に「こ」みたいなやつを書く。完璧なイメージだ。


「⋯⋯ぐぬぬぬ」


 唸り声を上げながら、鉛筆を走らせる。

 しかし、紙の上に出来上がったのは「た」というよりは、ゲシュタルト崩壊を起こした「に」に近い、謎の象形文字だった。


「⋯⋯ちがう」


 マシロは唇を尖らせ、消しゴムを手に取った。

 ゴシゴシと力任せに紙を擦り、黒鉛の跡を消し去る。

 気を取り直してもう一度。今度は少し力を抜いてみる。


 だが今度は線のバランスが完全に崩壊し、まるでピカソが描いた抽象画のような、芸術的すぎる「た」が誕生してしまった。


「うぅ⋯⋯文字さん、いうこときかない⋯⋯」


 マシロが涙目で三度目の正直に挑もうとした時、頭上から呆れたようなため息が降ってきた。


「⋯⋯貸してみろ。手本を書いてやる」


 いつの間にか背後に立っていた奏が、マシロの手からそっと鉛筆を抜き取った。


 ☆


 奏は自分の仕事部屋から余っていた大学ノートを持ってきた。

 そしてマシロの隣に胡座をかいて座ると、整った大人の字で「あ」から順に大きくひらがなを書き始めた。即席の「ひらがな練習帳」の完成だ。


「いいか、マシロ。いきなり本番の便箋に書くから失敗するんだ。まずはこのノートで、私の字をなぞって練習しろ。鉛筆の持ち方はこうだ」


 奏はマシロの右手に鉛筆を持たせ、正しい持ち方になるように指の形を整えてやった。


「わかった! マシロ、練習する!」


 マシロは目を輝かせ奏が書いた「あ」の字をなぞり始めた。

 ここから、マシロの長くて過酷な苦闘が幕を開けた。


 ひらがなの「し」を書こうとした時のことだ。


 縦に下ろしてすっと上に払う。一筆書きで終わるシンプルな文字だが、マシロは「絶対に綺麗になぞる!」と気合を入れすぎた。


 猫獣人のゴリラ並みに発達した握力と腕力が細い鉛筆の芯に一点集中する。


『ガリッ! ビリィッ!』


 凄まじい音と共に鉛筆の先が大学ノートの紙を貫通し、そのまま数ページ下まで突き破ってしまった。


「あぁ! 紙が破けた!」


 マシロが悲鳴を上げる。

 奏は深々とため息をつき、こめかみを揉んだ。


「⋯⋯マシロ、お前の腕力なら紙とペンじゃなくて石板にノミで刻んだほうが早いかもしれないな」


「だめ! お手紙は可愛い紙に書くの!」


 気を取り直して次は「ま」の練習だ。

 横線を二本引き、縦線を下ろして最後にくるんと丸める。


 しかし、野生の勘が染み付いているマシロは無意識のうちに「最短距離」を進もうとしてしまう。

 結果として最後の丸める部分がどうしても直線的になり、鋭角なターンを描いてしまうのだ。


「⋯⋯マシロの『ま』、さんかくだ⋯⋯」


 マシロはノートに量産された「ま(三角形バージョン)」を見つめて肩を落とした。

 奏は少し可笑しそうに口角を上げた。


「⋯⋯まあ味があると思えば、なんだか古代遺跡で見つかった文字みたいでかっこいいよ」


「マシロ、かっこよくなくていい⋯⋯」


 マシロは諦めずノートに向かい続けた。

 彼女が真剣に文字を書こうと集中すると無意識のうちに頭の上の白い猫耳がペタンと伏せられ、口元からは小さなピンク色の舌がチロリと覗く。


 文字通り「舌を巻く」ほどの集中ぶりだ。


 見守りながら指導していた奏は、その姿があまりにも愛くるしすぎて、時折教える手がピタリと止まってしまった。


 (⋯⋯写真に撮りたい。いや、動画で残すべきか? 世の親御さんがビデオカメラを回している理由がよく分かるな)


 内心で激しい葛藤を繰り広げながら、奏は必死に無表情を保ち続けた。


 そんな特訓の甲斐あってか、なぜか「ん」の字だけはやたらと達筆に書けるようになった。

 しかし当然ながら「んんんんん」という手紙を渡すわけにはいかない。


 ☆


「ふぅ⋯⋯」


 三十分ほど経過したところで、マシロが鉛筆を置いて小さく息をついた。


 ノートのページはすでに真っ黒で、消しゴムのカスが雪のように積もっている。

 ちょうどその時、ローテーブルの上に置いてあった奏のスマートフォンが震えた。画面には『戌井くるみ(ビデオ通話)』の表示が出ている。


 奏が通話ボタンを押して画面をマシロの方に向けると、くるみの明るい顔が映し出された。


『やっほー! 奏さん、マシロちゃん! 頑張ってるみたいね。手紙の進み具合はどう?』


「くるみお姉ちゃん!」


 マシロはパッと顔を輝かせ、真っ黒になった大学ノートをカメラの前に突き出した。


「みて! マシロ、いっぱい練習したよ!」


 画面越しのくるみは目を大きく見開いて拍手喝采した。


『わぁー! すごい! 上手! いっぱい書けたね! マシロちゃん天才!』


 大袈裟なほどの褒めちぎりぶりに、奏は横から冷静なツッコミを入れた。


「甘やかさないでください、くるみさん。そのノートの半分は暗号で、もう半分は解読不能ですよ」


『もう! 奏さんは全然わかってないなぁ』


 くるみは画面越しに唇を尖らせた後、マシロに向かって最高に優しい笑顔を向けた。


『ねえ、マシロちゃん。大事なのはね、字の上手い下手じゃないんだよ』


「⋯⋯ちがうの?」


『うん。上手に書こうとして難しい言葉を使ったり、形を綺麗に整えようとしたりしなくていいの。マシロちゃんが奏さんに伝えたいことを、そのまま書けばいいんだよ』


 くるみの言葉は、春の風のように温かかった。


『マシロちゃんが奏さんのことを思いながら、一生懸命時間をかけて書いた字はね。たとえ少し不格好でも、奏さんにとっては世界一綺麗で、世界一嬉しい文字になるんだから』


「気持ちが、はいってれば⋯⋯?」


『そう! 気持ちが入ってれば絶対に伝わるよ!』


 マシロのオッドアイが、パアッと明るい光を取り戻した。

 綺麗に書かなくちゃいけない。失敗しちゃいけない。そう思ってガチガチになっていた心が、すっと解けていくのを感じた。


「うん! マシロ、気持ち、いっぱい込める!」


 ☆


 その日の夜――奏が防音室のスタジオにこもり、仕事の編曲作業を始めた後。

 マシロは一人、静まり返ったリビングのローテーブルに向かっていた。


 目の前には猫柄の便箋が一枚。

 もう練習用のノートはない。これが本番だ。


 「た」「な」「で」「へ」。


 マシロは一文字ずつ、まるで魂を紙に定着させるかのように、ゆっくりと力強く鉛筆を動かしていく。

 途中で間違えても、消しゴムのカスだらけになっても諦めない。


 時々、鉛筆を置いて天井を見上げる。

 タナデへの想いを、なんとか言葉の形にするために頭をフル回転させる。


 マシロの語彙は少ない。難しい熟語も、綺麗な言い回しも知らない。

 でも、タナデに伝えたいことは胸の中に星の数ほど溢れている。


 雨の降る冷たい路地裏で、マシロを見つけてくれたこと。

 コンビニのツナマヨおにぎりが、ほっぺたが落ちるくらい美味しかったこと。

 マシロのために、マシロだけの素敵な歌を作ってくれたこと。

 怖い大人たちが来た時、大きな背中で隠して、守ってくれたこと。

 夜眠る時、大きな手で優しく頭を撫でてくれること。


 そして世界中の誰よりも、タナデのことが大好きだということ。


 ポキッ、と小さな音がして力が入りすぎた鉛筆の芯が折れた。

 マシロは慌てずにもう一本の鉛筆に持ち替え、再び便箋に向かう。

 静かなリビングに鉛筆が紙をこする「カリカリ」という音だけが響き続けた。


 数時間後――普段ならもう寝ている頃、マシロはついに最後の一文字を書き終えた。


「⋯⋯できた」


 大きく息を吐き出す。


 何度も消して書き直したために便箋の表面は少し毛羽立ち、一部は薄くなっている。字の大きさもバラバラで右肩上がりに歪んでいる行もある。


 決して「綺麗な手紙」ではない。

 でも、今のマシロに出せる全部だった。


 マシロは手紙を丁寧に三つ折りにし、お揃いの猫柄の封筒に入れた。


 そして家事手伝いで貯めた百円玉がずっしりと入っている「猫の貯金箱」のすぐ横に、その封筒をそっと立てかけた。


「タナデ、喜んでくれるかな⋯⋯」


 小さな呟きが夜の空気に溶けていく。

 全精力を使い果たしたマシロは襲いくる猛烈な眠気に抗うことができず、そのままビーズクッションの海へと深く沈み込んだ。


 ☆


 深夜――防音室での仕事を終えた奏が、凝り固まった肩を回しながらリビングに戻ってきた。

 部屋の明かりは間接照明だけになっており、薄暗い。


 奏の視線は、すぐにビーズクッションの上で丸くなって眠るマシロの姿を捉えた。

 スースーと規則正しい寝息が聞こえる。

 練習のしすぎで無意識に掴んだものか、その手には先が丸くなった鉛筆がまだしっかりと握られていた。


 奏は足音を立てずに近づき、ローテーブルの上を見た。

 そこには猫の貯金箱と封がされた一通の手紙。

 そして、その傍らには真っ黒になった大学ノートが開かれたまま放置されていた。


 奏がノートに視線を落とす――そこには、びっしりと書かれたひらがなの列があった。

 何十回、いや何百回と練習された「た」や「な」の文字。


 筆圧が強すぎて破れたページ。ゴシゴシと擦られた消しゴムの跡。三角になってしまった「ま」。上手に書けた「ん」。


 その一文字一文字が不器用なマシロの、血の滲むような努力の結晶だった。


「⋯⋯⋯⋯」


 奏は無言のままポケットからスマートフォンを取り出し、カメラアプリを起動した。

 そしてシャッター音が出ない設定にし、その真っ黒なノートのページを一枚だけ写真に収めた。


 それはどんな高級な絵画よりも、奏にとっては価値のある一枚。


 それから奏はソファにあったブランケットを手に取り、マシロの肩まで優しく掛けた。

 マシロの右手から、そっと鉛筆を抜き取る。


(⋯⋯偉いな、マシロ)


 奏は心の中で静かに語りかけた。


(よく練習したな。私がいなくても、一人で最後まで書き上げたんだな。このノートを見ればお前がどれだけ頑張ったか、痛いほどわかるよ)


 ほんの少し前まで言葉もたどたどしく、箸を持つことすらできなかった幼子が。

 今、自分の意志でペンを握り想いを伝えようとしている。


(本当に⋯⋯成長したな)


 それはプロデューサーとしての評価ではなく、一人の親としての偽りない感動だった。


「おやすみ、マシロ」


 奏は優しい眼差しで寝息を立てるマシロの銀髪を撫でた。

 テーブルに置かれた手紙の中身を知るのは、もう少しだけ先のこと。

 今はただ、この愛おしい努力の痕跡と穏やかな寝顔だけが奏の胸を温かいもので満たしていた。

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