第60話:世界が聴いている
ブラジル、リオデジャネイロ。
夕暮れのオレンジ色の光が、山の斜面にへばりつくように密集したファヴェーラ(スラム街)の赤茶けたレンガ屋根を染め上げていく。
迷路のように入り組んだ路地の片隅で十二歳の少年・ミゲルは、ひび割れた旧式のスマートフォンを大切そうに両手で握りしめていた。
画面の中で再生されているのは遠く海を隔てた島国――日本から配信されたアーカイブ動画。
画面の中央には雪のような銀髪とオッドアイを持つ美しい少女が立っている。その頭にはピンと立った白い猫耳があり、お尻のあたりで長い尻尾がゆらゆらと揺れていた。
彼女の名前は『マシロ』――ミゲルはポルトガル語しか話せない。だから彼女が日本語で何を歌っているのか、歌詞の意味はまったく理解できなかった。
タイトルに書かれた『きらきら星』という文字すら読めないが、ピアノの伴奏に乗ってその透き通った歌声が旧式の粗悪なスピーカーから流れ出した瞬間、ミゲルの鼓膜を震わせ、胸の奥にあった重苦しい塊がすっと消えていくのを感じる。
まるで肺の底に淀んでいた冷たい泥が、温かい光に溶かされていくような感覚を彼女の歌は運んでくれる。
「おいミゲル、またそれ聴いてるのか? お前、すっかりオタクだな」
路地を通りかかった友人のカルロスが、からかうように笑いかけてきた。
「違うよ。そんなんじゃない」
ミゲルはスマホの画面から目を離さず、真剣な顔で言い返した。
「この猫の女の子の歌は⋯⋯魔法なんだよ。ほんとに魔法なんだ」
「はいはい、魔法使いの猫ちゃんね」
カルロスは肩をすくめて走り去っていった。
ミゲルはもう一度、画面の中のマシロを見つめた。
彼は生まれつき気管支が弱く、ファヴェーラの土埃と湿気のせいで、毎日のように酷い喘息の発作に苦しめられていた。夜も眠れず、咳き込んで血の味がすることもしばしばだった。
だがこの動画を偶然見つけて、毎日のように聴き始めるようになってからというもの、ここ数週間一度も発作が起きていない。
ミゲル自身はそれを「季節の変わり目で空気が乾燥しているから」だと子供なりの理屈で納得している。
しかし、無意識にスマホのひび割れた画面を撫でる彼の指先は、遠い異国の少女への純粋な感謝と祈りに満ちていた。
マシロの歌声が響くたび、ミゲルの小さな胸は、確かに魔法のような安らぎに包まれていた。
☆
フランス、パリ郊外。
セーヌ川の支流を見下ろす静かな老人ホームの一室。
八十歳になるエレーヌは窓辺に置かれた愛用の安楽椅子に深く腰掛け、孫からプレゼントされた真新しいタブレット端末で動画サイトを開いていた。
彼女のお気に入りは数日前にアップロードされたばかりの『おおきくなっても』という曲の切り抜き動画。
かつては愛らしい幼児の姿だった猫耳の少女が、見違えるほど美しい少女へと成長し、それでも変わらぬ無垢な瞳で歌い上げる姿。
『――おおきくなっても、おおきくなっても。手と手を繋いだら同じあたたかさ』
言葉はわからなくとも、そのうららかで温かい歌声は、エレーヌの皺の刻まれた顔に穏やかな笑みを広げさせた。
まるで春の陽だまりの中でまどろんでいるような、そんな優しさが部屋を満たしていく。
「エレーヌさん、ご機嫌いかがですか?」
巡回に来た若い介護スタッフのセレネが、ドアをノックして顔を出した。
「ええ、とてもいいわ。セレネ、聞いてちょうだい」
エレーヌは嬉しそうにタブレットの画面を指差した。
「この子の声を聴くとね、不思議と膝の痛みを忘れるのよ。お医者様の処方してくれるお薬よりも、ずっとよく効くの」
「ふふっ、それは素敵な音楽療法ですね」
セレネは優しく微笑んで相槌を打った。
高齢者が特定の音楽や映像に執着し精神的な安定を得ることはよくある。プラシーボ効果だ。科学的根拠など何もない。
だが、セレネの目はすぐに驚きに見開かれた。
「あら、いいお天気ね。少し窓を開けてみようかしら」
エレーヌはそう言うと、いつもは手放せないはずのアルミ製の四点杖をベッドの横に置いたまま、自力でスッと立ち上がったのだ。
そして、ふらつくこともなく窓辺まで歩み寄り、軽やかな手つきで窓の鍵を開け、外の鳥を眺め始めた。
「え⋯⋯」
「今日は調子がとてもいいみたい。この子が、私に元気の魔法をかけてくれたのね」
「え、えぇ⋯⋯本当に、そうですね」
セレネは少しだけ首を傾げた。
重度の変形性膝関節症で、ここ数ヶ月は自力での歩行すら困難だったはずのエレーヌの、あまりにも自然な動作。
それは単なる「音楽療法」の枠を、少しだけ逸脱しているように見えた。
☆
日本、東京。
大学病院の小児病棟。
消灯時間をとうに過ぎた薄暗い四人部屋で窓際のベッドにいる中学二年生の沙織は、布団を頭からすっぽりと被っていた。
彼女の耳にはワイヤレスイヤホンがねじ込まれており、スマホの画面からはマシロの雑談配信が流れている。
『タナデぇ、これおいしい! んめ!』
『こらマシロ、口にものを入れたまま喋るな』
画面の中でケーキを頬張るマシロと、それをたしなめるプロデューサー『タナデ』のやり取り。
それを見て沙織は布団の中で声を殺してクスクスと笑った。
沙織は急性白血病の治療で、もう半年以上もこの病室で暮らしている。
抗がん剤治療の副作用は壮絶だった。髪の毛は抜け落ち、吐き気と倦怠感で食事も喉を通らない。夜になると骨の髄から湧き上がるような痛みに襲われ、ただただ涙を流しながらじっと朝を待つしかなかった。
そんな絶望的な夜を救ってくれたのがマシロだった。
最初はただの可愛いVtuberだと思って見ていた。でも、あの透き通るような歌声と無邪気で裏表のない笑顔、そしてタナデとの温かいやり取りを見ていると不思議と痛みが遠のいていくのを感じた。
吐き気が酷くて眠れない夜も、マシロの声を聴いていると心が静まり、いつの間にか深い眠りに落ちることができたのだ。
翌朝――回診にやってきた主治医の若手医師が、電子カルテのデータを見てパッと眉を上げた。
「⋯⋯沙織ちゃん。白血球の数値、また劇的に改善しているね。炎症反応もすっかり下がってるよ」
医師の声には隠しきれない驚きが混じっていた。
「本当ですか?」
「うん。このままのペースなら来月には一時退院できるかもしれないよ。何か特別なことでもした?」
沙織は少し照れくさそうに笑い、ベッドサイドに置いたスマホを指差した。
待受画面にはマシロの満面の笑顔が設定されている。
「マシロちゃんのおかげかも。私の推し、神様みたいに可愛いから。毎晩歌を聴いてたら元気が出てきちゃって」
主治医もつられて優しく笑った。
「ははっ、なるほど。じゃあ、その神様に僕も感謝しなくちゃね」
冗談めかしてそう言いながら医師は病室を後にした。
しかしナースステーションに戻ると彼はカルテの備考欄にペンを走らせ、小さくため息をついた。
『原因不明の著しい改善傾向あり。要経過観察』
現代医学の標準的なプロトコルからは完全に外れた回復スピード。
科学では説明できない「何か」が起きていることを、彼はまだ知る由もなかった。
☆
日本のとあるマンションの一室。
リビングのダイニングテーブルに置かれたノートPCの画面を一ノ瀬奏は無表情で操作していた。
マウスのクリック音が、静かな部屋に単調なリズムを刻んでいる。
奏が現在行っているのはチャンネル宛に届いた膨大なメールの処理とフォルダ分け作業だ。
『マシロちゃんへ』という純粋なファンレターは「ファンレター」フォルダへ。
『弊社の商品をPRしていただきたく――』という企業からの依頼は「案件」フォルダへ。
『投資で一億円稼ぎませんか?』という迷惑メールは問答無用で「スパム(即削除)」フォルダへ。
無心で作業を進めていた奏の手が、ふと止まった。
最近、特定の件名を持つメールが妙に目立つのだ。
『マシロちゃんの歌で鬱が治りました』
『長年の偏頭痛が消えました』
『車椅子だった母が歩けるようになりました』
『マシロちゃんは私の命の恩人です』
最初は熱心なファン特有の比喩表現だと思っていた。
「推しの笑顔を見たら元気が出た」というレベルの話だと。
自分が作った曲をマシロが歌う。
その歌声が誰かの心に届き、生きる活力を与えているのだとすればプロデューサーとして、そして元作曲家として、これほど嬉しいことはない。
奏は画面を見つめながら小さく口角を上げた。
本当にマシロのおかげで病気が治る訳がない。それは科学的にあり得ないことだ。
彼らがマシロの配信を見て前向きになり、元気を貰っている。その事実だけで十分だった。
しかし――奏はマウスホイールをスクロールさせた。
その手のメールは先月から倍増し、今や数百件に達していた。
しかも添付されている写真には病院の診断書や歩行訓練をしている動画まで含まれているものがある。
(⋯⋯最近多いな。ある種の集団催眠か?)
奏はマウスを操作し新しいフォルダを作成した。
名前は『未分類』――そこに、それらの「奇跡の報告」メールを全てドラッグ&ドロップで放り込む。
今はまだ判断を下す時ではない。思考を保留にするためのブラックボックスだ。
「――タナデ! お風呂入った!」
作業が終わる頃、リビングのドアが開きパタパタという軽い足音と共にマシロが入ってきた。
お風呂上がりで着替えたばかりの猫のイラストが描かれたTシャツが、濡れた髪の毛のせいで肩口から湿っている。
しかも首にはタオルの代わりに、なぜか私の古いマフラーを巻いていた。
「⋯⋯マシロ。ちゃんと髪の毛を乾かしなさいと言っただろう。風邪引くぞ」
「むー。だってドライヤー熱いの」
マシロは口を尖らせ、濡れた銀髪を揺らしながら奏の元へと駆け寄った。
そして当たり前のように背中を向け、床にペタンと座り込む。
「タナデ、乾かして!」
世界中の人々に元気を与え心を癒やしている「現代の神」
その神様は今、濡れた髪から水滴を垂らしながら私を見上げている。
「⋯⋯まったく、手のかかる神様だよ」
奏は呆れてため息をついたが、その目元は信じられないほど優しく細められていた。
メールソフトを閉じ、ノートPCの画面をパタンと閉める。
世界のどこかで起きている奇跡よりも、今は目の前にいる不器用な少女の髪を乾かすことの方が奏にとってはるかに重要な仕事だった。
「ほら、そこに座れ」
「うん! タナデありがとう!」
ドライヤーの温かい風の音が静かなリビングに響き渡った。
世界中で起きている静かな変化をまだ二人は知らない。




