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第59話:お姉さんの真似

 ある日の午後、日差しが柔らかく差し込むリビングで奇妙な光景が展開されていた。


「⋯⋯あの、奏さん?」


 ソファに優雅に足を組んで座っていた女性――人気Vtuber『ワンダ・バウ』の中の人、戌井(いぬい)くるみさんが困惑したように声を上げた。今日はオフの日だと我が家に遊びに来ている中での出来事。


 彼女の手には湯気を立てるホットコーヒーのマグカップ。

 さらりと流れる亜麻色の髪をかき上げ、カップに口をつける仕草は、まさに「大人の女性」の余裕を感じさせる。


 しかして、その視線の先には部屋の隅から彼女を凝視する白い影があった。


「⋯⋯マシロちゃん、私の顔になにか付いてる?」


 くるみさんが苦笑いをする。


 マシロは柱の陰から顔を半分だけ出し、オッドアイを限界まで見開いて獲物を狙う猫のように瞬きもせず彼女を観察していた。


 その視線は熱く、真剣そのものだ。


「⋯⋯ううん、なんでもない」


 マシロは一度だけ瞬きをして、くるみさんの足の組み方をじっと見た。

 そして自分の足を組み替えようとしてバランスを崩し、盛大によろめいた。


「大丈夫!?」


「へーき! マシロ、大人だから!」


 マシロは真っ赤な顔で立ち上がり、何事もなかったかのようにすまし顔を作った。

 私はキッチンでコーヒーのおかわりを淹れながら、その様子を横目で見て小さくため息をついた。

 どうやら最近のマシロの中でのブームは「大人の女」になることらしい。


 ☆


 日が落ちてくるみさんが帰った後、キッチンで夕食の片付けをしている最中、シンクに溜まった皿を洗っていると背後に気配もなく誰かが忍び寄ってきた。


「タナデ」


 その声はいつもよりワントーン低く、妙に落ち着き払っていた。

 私が手を止めて振り返るとそこには奇妙なポーズを取っているマシロが立っていた。


 腰に手を当て、重心を片足に乗せている。

 そして右手の人差し指で、さらさらの銀髪を耳にかける仕草をした。


「おつかれさま。コーヒー、いれよっか?(ウインク)」


 パチン、と音がしそうな渾身のウインク。

 しかし慣れていないせいか両目が同時に閉じてしまい、単なる「まばたき」になっている。

 そしてその仕草はくるみさんがワンダ・バウのときによくやる「スマートでカッコいいお姉さんポーズ」の完全コピー。


「⋯⋯誰だお前は」


 私はゴム手袋をしたまま、真顔でツッコミを入れた。

 マシロはビクッとしてポーズを崩しかけたが、すぐに気を取り直して胸を張った。


「マシロだよ! でも、ただのマシロじゃないよ。大人のマシロだよ!」


「大人、ねぇ⋯⋯」


「みてて! マシロ、もうコーヒーも飲めるもん!」


 そう言うとマシロはテーブルの上に置いてあった私のマグカップを奪い取った。

 中身はブラックコーヒー(ハチミツなし)だ。しかも冷めかけていて苦味と酸味が一番強く感じる温度帯。


「マシロ、それはやめておけ。お前さんにはまだ早いよ」


「へーき! くるみお姉ちゃんも飲んでたもん! これくらい、よゆーだよ!」


 制止する私の手をするりと躱して、マシロはマグカップに口をつけた。


 ――ごくり、と一口。

 喉が鳴る音が聞こえた。


 一秒、二秒、三秒。


 沈黙が流れた。

 マシロの顔から表情が消え、オッドアイが小刻みに震え始める。

 そして次の瞬間。


「にっっっっっっが!!!!!!」


 マシロは全身の毛を逆立て、マグカップを持ったまま絶叫した。

 尻尾がボンッ!と太くなり、ブラシのように広がっている。

 口の中が地獄の業火に焼かれたような顔で舌を出して必死に手で扇いでいる。


「だから言っただろう⋯⋯」


「ううううう! にがい! これ、毒!? タナデ、毒飲んでる!?」


「毒じゃない、嗜好品だ。ほら、口直しにミルクを」


 私は冷蔵庫から牛乳を取り出してマシロの持つコーヒーカップにドボドボと注いだ。

 さらにハチミツの瓶を取り出し、スプーン五杯分を惜しみなく投入する。


 カフェオレに色の変わった液体をかき混ぜて渡すとマシロは恐る恐る口をつけ、ようやく「⋯⋯んめ」と息を吐いた。


「子供は無理しなくていいんだぞ」


「無理じゃないもん! これ、味変! 味変だもん!」


 口の周りに白い牛乳の髭をつけたまま言い張る姿は、どう見ても幼児そのものだった。


 ☆


 コーヒー事件からしばらくたって私がリビングで仕事をしていると廊下からカツ、カツ、という硬質な足音が響いてきた。


 フローリングを叩く音にしては鋭い。

 嫌な予感がして顔を上げると、そこには信じられない光景があった。


 マシロが私のハイヒールを履いていた。

 それも私が勝負靴として持っていた、七センチヒールのパンプスだ。

 普段は靴箱の奥にしまってあるはずなのに、いつの間に引っ張り出したのか。


「みて、タナデ! これ、ぴったり!」


 マシロはドヤ顔で廊下の真ん中に立っていた。


 成長したとはいえ、マシロの足のサイズはまだ私より少し小さい。踵の部分が余っていて、歩くたびにカパカパと音が鳴る。


 それ以前に、生まれたばかりの小鹿のように膝がプルプルと震えている。


「マシロ⋯⋯危ないから脱ぎなさい。捻挫するぞ」


「だいじょうぶ! くるみお姉ちゃんみたいに、こうやって⋯⋯歩く!」


 マシロは果敢にもモデル歩きに挑戦した。


 右足を踏み出す。カツ。

 左足をクロスの位置へ。カツ。


 そして三歩目――重心が後ろに傾き、踵が滑った。


「あっ」


「みゃあッ!」


 盛大な音と共にマシロは廊下に転がった。

 猫の受身スキルが発動して顔面強打は免れたものの、尻餅をついた格好で目を回している。


「言わんこっちゃない⋯⋯」


 私は慌てて駆け寄り足を点検した。幸い、怪我はなさそうだ。

 マシロは涙目で私を見上げ「⋯⋯ゆかが、すべったの」と小声で言い訳をした。


「そうだな。床が悪いな。でも、この靴は没収だ」


「うぅ⋯⋯」


 ☆


 賑やかしにつけているテレビから夜のニュース番組が始まった。

 キャスターは深刻な表情で最近の株価の動向と円安の影響について解説している。


 私がソファでコーヒーを飲みながらノートパソコンで作業を進めていると隣に座ったマシロが、妙に深刻そうな(チュールが残り僅かになったときのような)顔で腕を組んだ。


「んー、けーざい、たいへんだよねー」


 うんうんと深く頷き、画面を睨みつける。

 その眉間のシワの寄せ方は、私が作曲に行き詰まった時の顔にそっくりだ。


「⋯⋯マシロ、経済がどう大変なんだ?」


 私は少し意地悪く尋ねてみた。

 マシロはビクッとして私の方を見たが、すぐに知ったかぶりの顔に戻った。


「えっとね、あれだよ。かぶ? がね、さがっちゃってね。えんがね、やすくなっちゃって⋯⋯」


「円が安くなるとどうなるなんだ?」


「えっと⋯⋯えっと⋯⋯」


 マシロの目が泳ぎ始めた。

 視線が天井に行き、床に行き、私の顔に戻り、また泳ぐ。

 五秒ほどの沈黙の後、マシロはぷしゅーと空気が抜けるような音を出して、ソファに沈み込んだ。


「⋯⋯わかんない」


「正直でよろしい」


「だってぇ! くるみお姉ちゃんが言ってたもん! 『けーざいが不安定だから今は買い時じゃないわね』って!」


「それはきっと、スーパーの特売の話じゃないか?」


「えっ」


「経済の話はツナマヨおにぎりの値段が上がってから心配すればいい」


「ツナマヨがあがるの!? 大変! タナデ、買い占めなきゃ!」


「落ち着け。たとえ話だ」


 ☆


 マシロが遊び疲れて眠った後――私はベランダに出てスマホを取り出した。

 呼び出し音は三回で繋がり、元気な声が聞こえてくる。


『もしもし、奏さん? どうしました、こんな時間に』


「ああ、すみません。ちょっと報告がありまして」


 私は今日の出来事を淡々と話した。

 コーヒーで自爆したこと。ヒールで転倒したこと。経済を語ろうとして撃沈したこと。


『あはははは! 何それ、全部可愛いじゃないですか! 最高ですねマシロちゃん!』


 電話の向こうでくるみさんが爆笑している。

 私もつられて苦笑したがすぐに真顔に戻った。


「⋯⋯笑い事じゃないんですよ、くるみさん」


『え?』


「マシロは本気なんですよ。早く大人になりたくて、私に追いつきたくて、必死に背伸びをしているんです」


 夜風が冷たい。

 私は手すりに寄りかかり、遠くの街明かりを見つめた。


「子供のままでいいのに。ゆっくりでいいのに。⋯⋯私がいる間は大きくならなくたって――」


 口に出して初めて気づいた。

 これは私のエゴだ。


 マシロが成長することを喜びつつ、心のどこかで「私の手が必要なくなる日」を恐れている。

 コーヒーを飲めて、一人で歩けて、難しい話ができるようになったら私はただの同居人になってしまうのではないか。


 電話の向こうで、くるみさんの笑い声が止まった。

 静かな間が流れた後、彼女の優しい声が響いた。


『⋯⋯奏さん、寂しいんですね』


「⋯⋯そんなことは。私はマシロのプロデューサーですから。その成長をマネジメントするのは当然の義務で⋯⋯」


 早口で否定しようとして言葉が詰まった。

 プロデューサーである前に私はマシロの家族だ。

 否定できるわけがなかった。


「⋯⋯はい。やっぱり、ちょっと寂しいです」


 正直に認めると肩の力が抜けた気がした。

 くるみさんは電話の向こうで、ふふっと笑った。


『無理しないでいいですよ。それは親なら誰でも抱く普通の感情です。⋯⋯それにね、奏さん』


「はい」


『マシロちゃんが大人になりたいのは、奏さんから離れるためじゃありませんよ。奏さんの隣に並んで歩きたいから、頑張ってるんです。⋯⋯背伸びして転んで、痛い思いをしてでも、あなたの隣にいたいんですよ。愛されてますね、モンタナ先生』


 その言葉が冷えた心にじんわりと染み込んだ。

 私の隣に並ぶために。

 あの不格好な背伸びも、苦いコーヒーを飲もうとするのも、全部そのためなのか。


「⋯⋯そうですね。ありがとうございます、くるみさん」


『いいえー。あ、今度のコラボ配信では私がマシロちゃんに「大人の流儀」を伝授しますから!』


「お手柔らかにお願いしますよ。また変な知識を吹き込まないでくださいね」


 通話を終えて私は部屋に戻った。

 寝室のベッドではマシロが毛布を蹴飛ばして大の字で眠っていた。


 口の端から少しよだれを垂らし時折「んめ⋯⋯」と寝言を言っている。

 大人の女性には程遠い、無防備で愛らしい寝顔だ。


「⋯⋯ふふっ、早く大きくなれよ」


 私はそっと掛け直した毛布の上からマシロの頭を撫でた。

 さらさらの銀髪が指に絡む。


「でも、ゆっくりでいいからな」


 矛盾した願いを込めて私はその頭を優しく、とても優しく撫で続けた。

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