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第58話:私が大きくなった理由(わけ)

 夜中にふと、目が覚めた。

 喉が渇いたせいかもしれないし隣から聞こえてくるはずの規則正しい寝息が聞こえなかったからかもしれない。


 マシロはベッドから起き上がり、素足でフローリングの床を歩いた。


 リビングへのドアをそっと開けると真っ暗な部屋の中で、パソコンの画面だけがぼんやりと青白い光を放っていた。


 その光に照らされたソファの上で、タナデが丸くなって眠っていた。


 眉間に少しだけシワを寄せて難しい顔をしている。テーブルには飲みかけの黒くて苦い水――「コーヒー」が入ったマグカップが置かれていた。


「⋯⋯タナデ、風邪ひく」


 マシロは誰にも聞こえないくらい小さな声で呟き、寝室に引き返して自分のベッドからふかふかの毛布を引っ張り出す。


 前は、この毛布を運ぶだけでも一苦労だった。自分の背丈よりも大きな布の塊を引きずって歩くと、よく自分の足に絡まって転んだものだ。


 でも今は、ひょいっと両手で持ち上げることができる。まったく重くない。


 足音を立てないように忍び足で近づき、タナデの体にそっと毛布をかけた。

 寝苦しくないように首元を少しだけ直してあげると、タナデは「ん⋯⋯」と小さく寝返りを打ち、シワの寄っていた眉間が少しだけ平らになった。


 ふう、と息を吐いて立ち上がる。

 その時、カーテンの開いた窓ガラスに自分の姿が映っているのに気がついた。


 夜の暗闇を背景にしたガラスは大きな鏡みたいだ。

 そこに映っているのはちんちくりんで、いつもタナデの足にまとわりついていた「マシロ」じゃなかった。


 腰まで届く長い銀色の髪。すらっと伸びた手足。

 タナデと一緒に買ったパジャマは少し大きくて、袖を折らないといけなかったのに今は手首と足首のところでぴったりサイズになっている。


 でも頭の上でピンと立っている白い猫耳とお尻のあたりでゆらゆら揺れる長い尻尾は、間違いなくマシロのものだ。


(⋯⋯大きくなった)


 マシロはガラスに映る自分を見つめながら両手を開いたり握ったりしてみた。


 お風呂の時間がきたときマシロは「ひとりで入ってみたい」と言った。


 タナデは「わかった」って言ってくれたけど、ほんの一瞬だけ、尻尾をだらんと下げた猫みたいに、とても寂しそうな顔をした。


 マシロには匂いと空気で分かる。タナデが言葉にしない気持ちも隠そうとしている感情も全部。


(ごめんね、タナデ。悲しませるつもりじゃなかったの)


 マシロは心の中で眠っているタナデに向かって謝った。


 でも、違うんだよ。

 タナデのことが嫌いになったわけじゃない。一緒にお風呂に入るのが嫌になったわけじゃない。

 テレビやってたの。マシロより小さい女の子が一人でお風呂に入っているって。


 ただ、マシロはもう「あかちゃん」じゃないよって伝えたかったの。

 だから、あの「ミノムシ」みたいなタオルの巻き方は、ちょっと失敗だったなって反省している。


 マシロはソファの横にしゃがみ込み、タナデの寝顔をじっと見つめた。

 起きている時のタナデは、いつもキリッとしていてかっこいい。でも寝ている時は、少しだけ幼く見えて無防備だ。


 マシロの世界はタナデから始まった。

 冷たい雨が降る路地裏。濡れた段ボールの中。

 お腹が空いて、寒くて、ブルブル震えて、もう目を開けるのさえ億劫だったあの夜。

 真っ暗な世界に突然、手が差し伸べられた。


『――帰るぞ』


 必死に掴もうとするとタナデの温かい手が包みこんでくれて、マシロをこの世界に繋ぎ止めてくれた。


 コンビニのツナマヨおにぎりの、ほっぺたが落ちるくらい美味しい味。

 あわあわの温かいお風呂。ふかふかのベッド。素敵なピアノ。


 それからの毎日は、おもちゃ箱をひっくり返したみたいにキラキラした宝物でいっぱいだった。


 マシロが「うたいたい」って言ったらタナデはピアノを弾いて、マシロだけの素敵な曲を作ってくれた。

 「がっきやさんに行きたい」って言ったら一緒に「へんそう」をして、マシロを外に連れて行ってくれた。

 「みんなにあいたい」って言ったら、大きな透明な板の向こう側に星空みたいな光の海を作ってくれた。


 でも外の世界には、楽しいことだけじゃなくて「悪い人たち」もいっぱいいた。

 マシロの歌を沢山の人が聞いてくれるようになってから、黒い服を着た大人たちがやってきた。


 タナデの言うことを聞かずに強引にマシロを連れて行こうとしたり、意地悪な言葉を投げかけたりした。


 でもそんな時、タナデはいつもマシロの前に立ってくれた。

 背中に隠して、すごく低い、氷みたいな声で怒るんだ。

 相手の人はタナデの迫力にびっくりして、顔を青くして逃げていった。


 意味はよく分からないけど画面の向こうの「みんな」は、そんなタナデのことを『狂犬』とか『モンタナ先生』って呼んで面白がっているらしい。


 でもマシロは知ってるよ。

 マシロを隠すタナデの背中が誰よりも優しくて。

 そして、ほんの少しだけ震えていたことを。


 タナデは強いけど怖いものがないわけじゃない。傷つかないわけじゃない。

 昔、ピアノを弾くのが嫌になっちゃったくらい、タナデの心は繊細で柔らかいんだ。


 それでも無理をして牙を剥いて威嚇している。子猫を守るために自分より大きな敵に立ち向かう親猫と同じように。


 記憶が、あの「光の中」へ飛ぶ。

 マシロの体が透けて消えかけてしまったあの夜のこと。


 狐のお面をつけた変な匂いのする男の人が来た。


 『あちら側(神域)に帰れば、永遠に生きられる』って、その人は言ってた。


 でも、そこにはタナデはいない。タナデのピアノもない。美味しいツナマヨおにぎりもない。

 ハンバーグもオムライスも旗もない。


 タナデはマシロを連れて行こうとする神様に向かってゴルフクラブを振り回した。

 人間の武器なんて神様には全然効かない。痛くも痒くもないはずだ。

 それでもタナデは髪を振り乱して、ボロボロになりながら必死にマシロを守ろうと叫んでくれた。


 あの日、はっきりとわかったの。

 タナデは無敵じゃない。

 もしマシロが神様のところに行っちゃったら、タナデは一人ぼっちになって、泣いちゃう。心が壊れちゃう。


 タナデがパソコンのカメラに向かってお願いすると世界中の人たちが「祈り」をくれた。


 沢山の『すき』とか『がんばれ』とか『いかないで』っていう、あったかくて重たい気持ちが、ドバァーってマシロの中に流れ込んできた。


 体が熱くなって、眩しい光に包まれて。

 気がついたら「大きく」なっていた。


 どうして大きくなったのか、最初はよくわからなかった。

 神様が、人間界に残るための魔法をかけてくれたのかなって思ってた。

 でも、今はちがうってわかる。


 マシロはそっと手を伸ばして、眠っているタナデの頬に触れた。

 前は、タナデの頬に両手をペタってくっつけないとダメだったのに。

 今は、この片手だけでタナデの頬を包み込める。


 神様がマシロを大きくしたんじゃない。

 マシロが、マシロ自身が、望んだんだ。


 もっと手足が長ければ震えるタナデの肩を抱きしめて、その手をしっかりと握ってあげられる。

 もっと声が大きければタナデをいじめる悪い人たちを、遠くまで追い払える。


 もっと強くなれば――今度はマシロがタナデを守れる。


 タナデはいつも「私がマシロを守る」って言う。

 でも、もうそれだけじゃ嫌だ。

 タナデの後ろに隠れて震えているだけの「子猫」はもう終わりにしたい。


 「アンチ」とか「ホーテキソチ」とか難しい人間の言葉は、まだよくわからない。

 でもタナデを悲しませる奴らが来たら。タナデの大切なピアノの音を笑う奴らが来たら。


 この新しい牙と爪で、そして世界中をビリビリ震わせるこの「歌声」で全部黙らせてやる。

 ――タナデがマシロにしてくれたように。


 マシロは一ノ瀬奏の、世界一の作曲家の「さいきょうのパートナー」になるんだ。


 マシロはソファで眠るタナデの隣に、そっと腰を下ろした。

 そしてタナデの肩に自分の頭をコテンと預ける。


 この頭は前よりずっと重くなったはずなのに、タナデは眠ったまま無意識に少しだけ姿勢を直して、マシロを受け止めてくれた。


 えへへ。タナデはやっぱり優しい。


 でも、マシロもただ甘えているだけじゃない。

 こうしてぴったりくっつくことで、タナデの体温が逃げないように温めてあげているのだ。


(タナデ。マシロね、早く大人になりたいよ)


 心の中でタナデに話しかける。


 大人になったらお姉さんになって、あの苦い黒い水だって平気な顔で飲めるようになる。

 タナデがパソコンの画面を見て疲れた顔をしている時は、マシロがタナデの頭を撫でて「よしよし、偉いね」ってしてあげるの。


 だから、もうちょっとだけ待っててね。


 マシロの耳がピクッと動き、静かなリビングの音を拾う。

 時計の針が進む音。パソコンのファンの音。タナデの規則正しい寝息。そして、遠くの道路を走る車の音。


 世界は広くて、怖いこともたくさんあるけれど。

 ここにはマシロの全部がある。


「⋯⋯おやすみ、タナデ。だいすき」


 誰にも聞こえないくらい小さな声で呟く。


 雲が晴れて、窓から差し込んだ青い月明かりが銀髪をキラキラと照らした。

 窓ガラスに映るその横顔は、いつもの食いしん坊な少女ではなく気高く美しい「女神」の片鱗を確かな意志と共に覗かせていた。

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