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第57話:羞恥心のめばえ

 リビングの時計の針が午後七時を回った。普段ならこれは「マシロの入浴タイム」の合図だ。


 私はソファから立ち上がり、新しいパジャマとバスタオルの準備を整える。

 以前は幼児用の小さなタオルで足りていたが、今は大人用の大判バスタオルが必要だ。成長とは洗濯物の面積が増えることでもあるらしい。


「マシロー、お風呂に入るぞ」


 いつものように声をかけた。


 常ならばこの瞬間に「はーい!」という元気な返事と共に「テッテッテー」と私へ突撃してくるのが彼女のルーティンだ。


 しかし今日は違った。


「⋯⋯⋯⋯」


 マシロはソファの隅で膝を抱えて、じっと動かない。


 テレビのバラエティ番組を見ているわけでもない。視線は床の一点を彷徨い、長い尻尾を自分の足首にぐるぐると巻き付けている。


 それは警戒している時や何かを迷っている時の仕草だと分かった。


「どうした? どこか痛いのか? それともまだお腹が空いてるのか?」


 私は心配になって屈み込み、彼女の顔を覗き込んだ。

 マシロはビクッと肩を震わせ、少しだけ顔を上げて私を見た。

 オッドアイが揺れている。何かを言いたそうに口を開きかけては閉じ、また開きかけては閉じる。


「⋯⋯あのね、タナデ」


「うん」


「⋯⋯今日は、一人で」


 蚊の鳴くような声だった。私は耳を疑った。


「一人で?」


「マシロ、一人で、入ってみたい」


 時が止まった気がした。

 一人で入る。

 それはマシロが我が家に来てから一度も発しなかった言葉だ。


 最初はお風呂を怖がって私が抱えて洗ってやった。


 慣れてからは私が頭を洗い、背中を流し、湯船で一日の出来事を聞くのが日課だった。

 それが当たり前だと思っていた。少なくとも彼女の中身が四歳児相当である以上、保護者としての監督責任があると考えていたからだ。


「⋯⋯どうしてだ?」


 問い詰めるつもりはなかったが私の声は予想以上に低くなってしまったかもしれない。

 マシロはさらに身を縮こまらせ、モジモジと服の裾を弄り始めた。


「えっと⋯⋯その⋯⋯」


 彼女は顔を赤らめ、視線を逸らした。


「なんか、タナデと一緒だと⋯⋯その、恥ずかしい、から」


 ――羞恥心。


 その単語が私の脳天を貫いた。


 『恥ずかしい』 


 まだ幼く猫獣人として、あるいは野生に近い存在として生きてきたマシロには、これまで欠落していた概念だ。

 

 今のマシロは見た目が少女へと成長し、それに引きずられるように心にも「女性」としての自意識が芽生え始めている。


 自分と他者の境界線――見られることへの抵抗感。

 それは間違いなく「成長」の証だった。


 ズキン、と胸の奥で何かが疼いた。


 喜びではない。寂しさとも少し違う。


 強いて言うなら愛娘が初めて「パパ、あっち行って」と言った時の父親の心境に近いのかもしれない。私は父親になったことは当然ないが、おそらく全人類の父親が通る道なのだろう。


 私はプロデューサーだ。感情を表に出してはいけない。

 ここで動揺すればマシロは「成長すること=タナデを悲しませること」と学習してしまうかもしれない。それは避けるべきだ。


 私は努めて冷静に無表情を装って頷いた。


「⋯⋯そうか。わかったよ」


 喉の奥が少しだけ引きつったが、声は震えていないはずだ。


「一人で入れるなら、それが一番だ。洗い方は覚えているな?」


「うん、マシロ覚えてる」


「よし。じゃあ行ってきなさい。⋯⋯ただし、床は滑りやすいから気をつけるんだぞ。絶対に走るなよ」


「わかった!」


 許可が出たことに安堵したのか、マシロはパッと表情を明るくした。

 そしてソファから飛び降り、バスタオルとパジャマを抱えて浴室の方へと走っていく。


「おいおい、走るなと言ったそばから⋯⋯」


 私の小言はパタンと閉まった脱衣所のドアに遮られた。


 ☆


 私はリビングのダイニングテーブルに戻り開いていたノートPCに向き合った。

 マシロが一人で入浴している間、仕事を進めようと思ったのだ。


 次の配信の企画案、アンチコメントの法的措置の進捗確認、作曲のラフスケッチ。やることは山積みだから時間は有効に使わなければならない。


 カタ、とエンターキーを押す。


(⋯⋯シャンプーの蓋、固くなかったか?)


 ふと、手が止まる。


 新しいシャンプーボトルはポンプ式だが、新品のポンプは最初に回してロックを解除する必要がある。あの子の握力ならねじ切ることはあっても開けられないことはないと思うが、果たして仕組みを理解しているか。


(⋯⋯お湯の温度は40度に設定してある。最初から入ったりしていないよな?)


 いつもは私が最初にマシロを洗ってやり、お湯の温度を確認してから入らせていたが今日はそれができない。あのテンションでザブン! と湯船へ飛び込んだりしていないだろうか。


(⋯⋯静かすぎる)


 PCの画面には意味のない文字列が並んでいるだけだった。

 私は無意識のうちに浴室の方向に耳を澄ませていた。


 我が家の防音性能は高い。浴室の音などリビングまで聞こえてくるはずがない。

 わかっている。わかっているが気になって仕方がない。


 もし、湯船で足を滑らせて溺れていたら?

 もし、シャンプーが目に入って泣いていたら?

 もし、寝落ちして沈んでいたら?


 マシロは身体能力こそ高いが生活能力に関してはまだまだ幼児レベルだ。

 一人にさせるのが早すぎたのではないか。

 「恥ずかしい」なんて言葉を真に受けて、安全管理を怠った私のミスではないか。


 時計を見る――まだ十分しか経っていない。


 いや、もう十分も経ったのか?

 十分あれば人は溺れる⋯⋯つまり猫も溺れる。


 私は貧乏ゆすりを始めた。

 ブラックコーヒーを一口飲むが味がしない。

 思考が悪い方向へ全力疾走していく。


 さらに五分経過。合計十五分。

 我慢の限界だった。


「⋯⋯様子を見に行くか」


 私は椅子を蹴るように立ち上がった。


 ドア越しに声をかけるくらいなら許されるだろう。ちょっとばかり「生きているか」と確認するだけ、過保護と言われようが死なれるよりはマシだ。


 私が部屋のドアに手をかけようとした、その瞬間。


 ガチャリ――内側から開く音がして、ドアノブが回った。


「⋯⋯⋯⋯」


 モワッとした湿気と共に湯上がりのマシロが姿を現した。


「⋯⋯おかえり」


 私は間一髪で「大丈夫か!?」という叫びを飲み込み、平静を装って出迎えた。

 だが目の前に現れたマシロの姿を見て、私は固まった。


「⋯⋯タナデぇ⋯⋯」


 そこにいたのは巨大な白のミノムシだった。

 あるいは包帯の巻き方を間違えたミイラ男。


 大判のバスタオルを体に巻いているのだが、巻き方が壊滅的だった。


 頭からすっぽりと被り、なぜか首元で交差させ、胴体にもぐちゃぐちゃに巻き付けている。手足の動きが封じられ、歩くのもやっとという状態だ。


 そして何より濡れたままの長い銀髪がタオルの隙間から放り出され、廊下にボタボタと水滴を落としている。


「髪の毛⋯⋯自分で、できない⋯⋯」


 マシロは涙目で私を見上げた。


 拭き方がわからず、とりあえず布を巻いて出てきたらしい。

 その情けない姿を見た瞬間、私の胸の中に渦巻いていた不安と緊張が、プシュゥと音を立てて抜けていった。


「⋯⋯ははっ」


 乾いた笑いが漏れた。

 なんだ、まだ全然子供じゃないか。

 「恥ずかしい」だなんて一丁前なことを言っても、結局は一人で髪も拭けない甘えん坊だ。


「こっちへ来なさい。風邪を引くぞ」


 私はマシロの手を引き(タオルで拘束されているので、布の端を摘んで)、リビングのソファに座らせた。

 ミノムシ状態のマシロの背後に回り、別のタオルで髪を包み込む。


「じっとしとけよ」


「うん⋯⋯」


 ワシャワシャと髪を拭く。以前よりもずっと量が増え、長くなった髪。

 水を含んで重くなったそれを丁寧に拭き取り、ドライヤーのスイッチを入れる。


 ゴオオオ、という温風の音。

 私の指が銀糸の間を滑り、温かい風を送っていく。


 マシロは気持ちよさそうに目を細め、私の手に頭を預けてきた。

 この重み。この温かさ。

 ああ、ここにいる。無事だ。


「⋯⋯一人で入れたな。偉いぞ」


 私は髪を梳かしながら、ぽつりと言った。

 マシロの耳がピクリと動いた。


「ほんと? マシロ、偉い?」


「ああ。シャンプーもちゃんとできてる。いい匂いだ」


「えへへ⋯⋯頑張ったの!」


 マシロは嬉しそうに尻尾を揺らした。

 バスタオルの隙間から覗く肩は少し大人びて見えたが、その笑顔はやはり、あの路地裏で拾った時のままだった。


「次は髪の拭き方を練習しないとな」


「うん! タナデ、教えて!」


「ああ、教えてやる。何度でもな」


 完全に乾いた髪は照明を反射してキラキラと輝いていた。

 私はドライヤーを止め、ふんわりと広がった銀髪に指を通した。


 ☆


 深夜――すっかり疲れ果てて眠っているマシロの寝顔を確認しながら、私は天井を見上げて大きく息を吐く。


 「恥ずかしい」という感情。

 それは自我の芽生えであり、他者を意識する心の成長だ。

 身体だけが大きくなったわけじゃない。中身もちゃんと人間社会に適応しようとしている。


 それは喜ぶべきことだ。

 親として、プロデューサーとして、彼女の成長を妨げる権利なんて私にはない。


 いつか彼女は私がいなくても一人で生きていけるようになるだろう。

 一人でお風呂に入り、一人でご飯を作り、一人で外の世界へ歩いていく。


 それは正しい未来だ。

 とても正しい。


『喜んでいる。喜んでいるんだ、これは』


 心の中で呟いてみる。

 自分に言い聞かせるように何度も反芻する。


 今日のミノムシ姿を思い出して、少しだけ口元が緩んだ。

 まあ、今の様子を見る限り、その「いつか」が来るのはまだ当分先の話だろう。


 それまでは私が髪を乾かしてやる必要がある。

 あの危なっかしい手を引いてやる必要がある。


「⋯⋯おやすみ、マシロ」


 虚空に向かって呟いた言葉は、誰に届くわけでもなく夜に溶けていった。

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