5話 アンノウン もう一つのアナザーストーリー
四月の朝の教室は、まだ静かだった。
黒板の前に立った教授は、
名簿も見ずにチョークを持つ。
「四年生の数学は、
三年次までの内容を修了している前提で進めます」
ざわり、と空気が動く。
「微分方程式、線形代数、複素関数。
理解が曖昧な者は、今のうちに自覚しておいてください」
脅しではない。
事実だ。
ノートを開く音が一斉に鳴る。
俺は、開かない。
黒板に書かれた式は長い。
だが、形は最初の一行で閉じている。
教授が説明を始める。
「ここで特性方程式を——」
続きを、俺は聞かない。
線のつながり。
係数の歪み。
どこが固定で、どこが自由か。
——ああ、そういうことか。
ノートに、小さな図だけを書く。
式は、書かない。
「……編入生」
教授の声。
「君は、どう思う?」
教室の視線が集まる。
俺は立たず、座ったまま答える。
「振動は減衰します。
ただ、初期条件次第で一度だけ跳ねます」
教授が眉を動かす。
「理由は?」
「ここです」
誰も見ていなかった係数の符号を指す。
数秒の沈黙。
「……その通りだ」
ざわり、と空気が揺れる。
「では、数式で説明できる者は?」
誰もいない。
教授は何も言わず、板書を続けた。
俺は水を一口飲む。
——使う必要はない。
次は物理。
電磁気。
「これは覚えるものじゃない。
“場”として捉えなさい」
その言葉に、
少しだけ笑いそうになる。
——最初から、そう見えている。
ノートには、
矢印と流れだけを書く。
授業が終わる。
チャイム。
教授は去り際に一言だけ残した。
「……今年は、面白くなりそうだ」
誰に向けた言葉かは分からない。
⸻
昼前の会議室。
数学と物理の担当が、コーヒーを前に座っている。
「編入生、三人でしたね」
「ええ。工業高校から二人。
それと……もう一人、インテル国際学生科学フェアの…。」
名前は出ない。
だが、共有されている。
「“分からない”という反応を、
一度も見ていない」
「計算が速いわけじゃない。
計算していない」
「構造を……見ている?」
「それに、集中していない」
沈黙。
「危険ですか?」
数学の教授は首を振る。
「制御できない才能は危険です。
彼は……制御している」
「それが一番、分からない」
「特別扱いはしない。
監視もしない」
立ち上がり、扉に手をかける。
「ただ——
何かあったら、
最初に彼を疑う」
冗談ではない。
⸻
最初の休み時間。
俺は窓際で、水を飲んでいた。
——見られている。
正面じゃない。
横でもない。
斜め後ろ。
「なあ」
同じ列の男子が、声を落とす。
「さっきの数学、分かった?」
「うん」
「……どの辺が?」
「最初の式で」
彼は言葉を失う。
ノートを見下ろし、
びっしり埋まった数式をなぞる。
「俺、まだ途中なんだけど」
「そうか」
それ以上は、言わない。
彼は何か言いかけて、やめた。
——違う。
理解できなかったわけじゃない。
比較が成立しなかっただけだ。
廊下。
もう一人の編入生が、壁にもたれている。確か「吉良」だったっけ。
目が合う。
「……思考加速かアレ?」
冗談めいた声。
「なあに、毎朝、玄米フレークを大さじ三杯食べているだけさ。」
「何を?」
彼は乾いた笑いを漏らした。
「ケロッグだな」
「それが一番、無難なやつだな」
「あと、レーズンを少々入れる。」
「なるほど、煮干しじゃダメか?」
「それは猫用だな。」
二人して、笑う。
チャイム。
背中に、いくつもの視線を感じながら、
俺は席に戻る。
恐れでも、
憧れでもない。
変人、あるいはアンノウンへの好奇心。
それが一番、自然だ。
俺はノートを開かず、
次の授業を待った。
——最近、
人間のふりも、板についてきた気がする。




