5話 狼の挽歌
パイカルが去った直後だった。
入れ替わるようにして、一人の男が雨宮のもとを訪れた。
味沢——。
かつて南米の駐在武官として、雨宮と同じ時期に“地獄”を歩いた男だ。
二人はワインを開け、久しぶりの再会を楽しむように昔話へ火をつけた。
「しかし……あの頃は最悪だったな。
外務省の連中、ヘタレのくせに俺たちをパーティーの駐車場係扱いしやがってよ」
雨宮は渋い顔で笑い、グラスの脚を弄る。
実はこの二人には、他人には話さない共通点があった。
どちらも**広島の“原爆二世”**として生まれ、幼い頃から医者にこう言われてきた。
──君たちは“がん”のリスクが、生まれつき高い。
その言葉は影のように、ずっと二人の背に張りついていた。
そんな彼らの思考を覆したのが、南米大使館に派遣されていた、如月博士だった。
博士は煙草の火を弾きながら告げた。
「広島・長崎に、原爆は落ちていない」
味沢は今でも、あの場の空気の重さを覚えている。
如月は続けた。
「熱量計算をすれば一目瞭然だ。
爆心地近くの建物の骨組みが残るはずがない。
地面は巨大なクレーターになり、植物は百年は生えない。
だが実際にはどうだ? 辻褄が合わん」
雨宮はあの時、背筋に冷たいものが流れた。
「ケロイドはマスタードガスの典型症状だ。
本当に放射線で焼かれていれば、骨まで汚染されて、誰一人生き残れない」
如月は淡々と言った。
「アメリカと日本政府が組んだ“戦後最大のペテン”だよ。
硫黄マスタードと焼夷弾を大量投下しただけだ。
アメリカはその後も、世界中でマスタードガスを使い続けている」
その夜、雨宮と味沢の人生は静かに軌道を変えた。
帰国後、雨宮は自衛隊を退き、
味沢とは疎遠にならず、今でもこうして酒を酌み交わせる仲だった。
今日は、雨宮のほうから味沢を呼んでいた。
味沢はグラスを置き、本題を促した。
「うちのパイカルの連れが迷惑かけたようだな?」
雨宮は肩をすくめ、声を潜めた。
「味沢さん……実は一つ、お願いが」
「俺にできる範囲なら言え」
雨宮は短く息を吸った。
「ウチで預かっている若いのに、松尾ルイという男がいます。
そいつが……帯刀を取り押えました」
味沢は鼻で笑った。
「取り押えた? 『半死半生』にしたって聞いたが」
「まあ、その通りです」
雨宮は苦く笑い、続けた。
「その松尾が、地下格闘技“モノノフ”に出ます。
優勝したら……あるミッション系大学の推薦枠が欲しいんです」
味沢はワインを回し、深い赤を眺めた。
「確かに、ミッション系の高校なら推薦枠がある“建前”はある。
だが——松尾とは、どんな奴だ?」
雨宮の声は静かだった。
「東北震災で記憶を失い、ウチで預かっている。
大検を取り直し、AOでその大学を受けさせます」
味沢の目がわずかに鋭くなる。
「……なるほど。顔を見ることは可能か?」
「すぐにでも」
雨宮はスマホを取り出した。
──ここから、運命の歯車が音を立てて回り始める。
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◆モノノフ — 本戦(総合格闘技トーナメント)
会場は“東京の地図に載らない場所”。
湾岸の再開発地区。
地上げに失敗した埠頭の倉庫群。
照明は最低限。観客は“呼ばれた連中”のみ。
中央には狭いケージ。
逃げ場はない。
赤井と吉岡は控室から裏番組を撮影し、
パイカルは観客席の影で腕を組み、
味沢は無言で会場全体の“熱”を測っていた。
雨宮は光一の背中に一言だけ告げる。
「湯田の件……わかってるな?」
光一は頷きもしない。
ただケージへ、静かに足を運ぶ。
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★【準々決勝】光一 vs 元キック “コンクリート松”
ゴング。
松が距離を詰めるより早く、
光一の“蹴撃”が地面を叩くように放たれた。
ドンッ。
低く重すぎる音。
松の軸足が折れ、横へ崩れた。
レフリーが割って入る頃には、
足の角度がおかしい。立てない。
試合時間:7秒。
観客席がざわつき始める。
「何だ今の……蹴りじゃない」
「衝撃だ……骨が潰れてる」
「あれ、人間のパワーじゃない」
光一は微動だにせず、息も乱さない。
⸻
★【準決勝】光一 vs 湯田(同門)
名前が呼ばれた瞬間、会場の空気が凍った。
湯田は笑っていたが、
目だけが完全に死んでいた。
雨宮も味沢もパイカルも、
この試合の“意味”を悟っていた。
◆ ゴング。
湯田は一気に距離を詰め、
タックルフェイントから右ストレート。
速い。
だが光一には“波”として見えていた。
光一のジャブが湯田の視界を歪める。
続く肘撃が、湯田の頬骨を破砕した。
乾いた骨音。
湯田はまだ倒れない、そして
光一に組みつく——その瞬間。
光一は迷いなく首を抱え込み、
ギロチンに落とした。
普通の締めではない。
ねじる。
捻り潰す。
湯田の頸椎が、きしみながら“縦に折れた”。
光一は締めを解く直前、
湯田の耳元で、低く静かに囁いた。
「……思い出したよ、湯田。
全てお前の裏切りから始まった。」
湯田の瞳が、割れたガラスのように揺れる。
湯田の力が抜けていく。
光一は淡々と言い放つ。
「これでようやく……帳尻が合う。」
レフリーが飛び込むころには、
光一はすでに湯田の身体を放していた。
湯田は微動だにしない。
雨宮は腕を組んだまま、
わずかに目を閉じた。
試合時間:34秒。
光一は振り返らない。




