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4話 森のクマさん──悪魔に首を賭けるな──

事件から二日が経った週末。


光一は、東映版スパイダーマンのエンディングテーマ

《誓いのバラード》

をスマホで流しながら、黙々とプランクをしていた。


別にヒーローものに憧れているわけではない。


だが──

この湿った口笛と、どこか寂れた旋律は、

“考える”という雑音を消してくれる。


腹圧と呼吸だけが残り、

世界から余計な色が剥がれ落ちる。


光一にとって、それが丁度いいのだった。



その時、トレーラーのドアをノックする音がした。


「ルイ、いるか?」


「ハイ」


光一は体幹を切らずに再生を止め、ドアを開けて雨宮を迎え入れた。


雨宮は、まだ空気中に残ったメロディに反応し、わずかに口角を上げる。


「それ……スパイダーマンか、渋いな。」


光一は何も返さない。

汗が床に落ちる。あとは、風の音だけ。


雨宮はアルミ製のネイビーチェアに腰掛け、本題へ入った。


「帯刀を捕まえたんだってな? 噂ではフィリピン辺りに潜伏しているとか言われていたが……まさか、うちのキャンプ場で見つかるとはな。」


「おそらく、先輩達の誰かが帯刀のバックアップでしょう。

……湯田さん辺りが。」


「参ったな。」


参っている気配はまったくない声で、雨宮は続けた。


「そういえば、あいつもお前より少し先に来たが、前科者ではない。ただ……妙な雰囲気はあった。まさか、こんな形で表面化するとは。」


(分かってたくせに。)


光一は思ったが、口にはしなかった。


雨宮が脚を組み直した。


「そういえばルイ。お前、トーナメントに出てみないか?」


「トーナメント?」


「ああ。荒くれや地下格闘技の連中を集めてやる大会だ。優勝賞金は1000万円。」


「もの好きですね。そんなことをして元が取れると思ってるんですか。」


「全くだ。だが優勝すれば、大学4年分の学費が転がり込む。

お前が大検を取って、AO入試に向けて準備していることも知っていた。」


「確かに……社長には敵いませんね。

実は行きたい大学は、もう決まっています。」


「ほう、どこだ?」


東京・四谷にあるミッション系私大の名を挙げると、雨宮は片眉を上げた。


「お前の雰囲気じゃないが……理由は?」


「記憶の全部じゃないですが、一部だけ戻りました。

俺は東北震災で津波に飲まれたんです。

そして、その時の女が……そこに入学予定だった。

そこに行けば、女の消息を知る奴がいるかもしれない。」


「入れる自信はあるのか?」


光一は雨宮の目を見る。


「社長はいつも言ってますよね。

成功する奴は頭やスキルがあるからじゃない。

偶々そこにいたからだと。

未来なんて関係ない──“今”、今しかないと。」


雨宮は、満足げに小さく笑った。


「帯刀の件も、このトーナメントも……その時が来ている。

知り合いに教会関係者がいる。お前がその気なら、 “神の見えざる手” が背中を押してくれるだろう。」


光一にはそれが、“湯田を試合で始末しろ”という遠回しな指示に聞こえた。


まあ、いずれにせよ──


賽は投げられた。


雨宮がトレーラーを出ようとした時、再びノックが響いた。


パイカルが瑠衣を伴って訪ねて来た。


ドアが開き、瑠衣が小さく手を振る。

その後ろでパイカルが静かに会釈する。


雨宮の視線が細くなる。

光一はその意味を知っていた。


(……測ってやがる。)


新しい刃物の重量を指先で試すような、そんな目だ。


「こんばんは、夜分すみません。」


パイカルは礼儀正しい。

だがその声の奥には、異様な“密度”があった。

職業としての暴力が、骨格の奥に沈んでいる者だけが持つ質量。


瑠衣が、手にした“アカシアハチミツ”の瓶を差し出す。


「この前は……ありがとうございました。」


雨宮が笑い、軽く受け取った。


光一は立ったまま無言だった。

瑠衣の目が彼に触れた瞬間、鼓動がわずかにはねた。


(……何?)


瑠衣はその意味を理解していなかったが、

光一の中では別の回路が反応していた。


“波長を覚えている。”


津波の直前、記憶が断裂する刹那にいた“あの女”。

顔だけ欠けた存在。

声だけ残った灯りのような幻影。


──その残響が、瑠衣の周囲に漂っていた。


パイカルが光一に一歩、近づく。


「あなたが……ルイさん、ですね?」


声は柔らかい。

しかし光一の背中を、氷の針のような警戒が走る。


殺意ではない。

もっと厄介な──“探査”。


相手の内部構造を覗きこむ、あの目。


パイカルは軽く顎を動かし、礼を述べた。


「瑠衣を助けてくださって、ありがとうございました。」


光一は何も言わない。

言葉を必要としなかった。


沈黙が三人の間に沈む。


その沈黙を破ったのは、雨宮だった。


「パイカルと言ったな。

……お前さんかい、楽しい提案の出所は?」


パイカルの目がわずかに細くなる。


「さて、何のことでしょう?」


「ありがとうよ。掃き溜めにも鶴はいるってことさ。」


雨宮は笑った。

“試しに入った”と光一は悟った。


パイカルも匂いを嗅ぎ取ったのか、光一へ視線を移す。


「なるほど……ルイさんも、強いんですか?」


瑠衣が慌てて手を振る。


「あ、あの……パイカル、変なこと言わないでよ!」


だが光一は静かにパイカルを見返した。


威嚇ではない。

獲物を見る目でもない。


ただ──


“同族かどうかを確認する目”。


視線がぶつかった瞬間、空気の密度が一段増した。


雨宮が口の端を吊り上げる。


(……やはり、そういうことだ。)


パイカルが微かに笑う。


礼儀正しく、しかし挑発を含んだ笑み。


「今度、手合わせをお願いできれば。」


光一は短く答えた。


「機会があれば。」


その声は、喉の奥に沈んだ鉄のように重かった。


その夜の空は異様に静かだった。

まるでキャンプ場の上空で、見えない弾道が交差しているかのようだった。


瑠衣だけがその意味を知らない。


だが雨宮は本能で感じていた。


(こいつらは……どっちも人間じゃねぇ。

ヒグマより厄介な“化け物”だ。)


光一の獣性。

パイカルの静かな殺意。


二つの軸が、瑠衣を中心に交差した瞬間だった。


誰も知らなかった。


この夜が──

“サバト”の始まり になることを。


────────────────────


その三日後。


支笏湖へ向かう国道から外れた枝道で、

一台のワンボックスが発見された。


フロントガラスは内側から粉砕され、

ドアは外向きにねじ切られ、

車内には──三つの肉塊。


身元不明。

死因は“ヒグマによる襲撃”として処理された。


ただし現場の警官の一人は、

報告書に書かれない一言を漏らした。


「……これは、爪じゃねぇ。

骨の割れ方が……握力だ。」


さらに奇妙なことに──


車内には“アカシアハチミツ”の瓶が、いくつも転がっていた。


ところが周辺には、

ヒグマの足跡がひとつもなかった。


まるで“誘き寄せる餌”だけ置かれ、

肝心のヒグマは最初から存在しなかったかのように。


この事件が

《札幌南区の奇妙な連続噛傷事件》

としてわずかに報じられた翌日──


雨宮は光一に何も言わなかった。

光一も何も聞かなかった。


ただ、同じ沈黙だけが漂っていた。


──あの夜、

キャンプ場の空気が変わった理由は、

ヒグマのせいではない。


夏の夜のホラーだった。

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