3話 瑠衣再び
— 目覚める獣 —**
9月。
七瀬瑠衣は、芸術の森キャンパス近くのスーパーマーケット駐車場に
ランドクルーザー70を静かに停めた。
同級生から羨望の的となる復刻ランクル。
芸術学部の視点から見ても、その“時代に左右されない彫刻のような造形”は魅力的だった。
今日は──パイカルが札幌に来る。
彼は、
リオ五輪フェンシング金メダリスト。
毅然とした佇まい、無駄のない所作、そしてトレードマークになりつつある
あの2本指敬礼。
存在そのものが、ひとつのアートだった。
そんな彼に手料理を振る舞える──
瑠衣は胸を弾ませながら買い物袋を手に、車を降りた。
その瞬間。
隣のスペースに、同じランクル70が滑り込むように停まった。
降りてきたのは、
白髪に近い坊主頭、190センチ近い巨躯の男。
白いTシャツから伸びた腕には、火傷、裂傷、古い打撲痕が幾重にも刻まれている。
ただの傷ではない。
**“生き残ってきた者の刻印”**──そんな迫力があった。
男は瑠衣に気づくと、
獣が獲物を観察するときのような目で、ニィッと笑んだ。
だが、不思議と怖くなかった。
むしろ、どこか懐かしい空気を纏っていた。
「どこかで会ったか?」
古いナンパのような台詞。
瑠衣は思わず吹き出した。
「古い手ですよ、それ」
男は肩をすくめた。
「五年間、冬眠でもしてたんでね」
意味はわからない。
だが、悪意はまったくなかった。
軽く会釈を交わし、二人は別れた。
──この男が数時間後、瑠衣の運命を揺るがすとは知らずに。
◆
買い物を終え、瑠衣は大学近くのオートキャンプ場へ向かった。
瑠衣の暮らす女子寮は、共有アトリエのある芸術の森らしい名物寮だが、
男子立入禁止という厳しいルールがある。
金メダリストのパイカルが訪れれば、寮は確実に大騒ぎになるだろう。
美貌、品格、そしてあの 2本指敬礼──
彼は立っているだけで絵になる人だ。
(みんな絶対喜ぶけど……
ルールはルール、だよね)
だから今日は、パイカルと静かに食事を楽しむために
トレーラーハウスを一棟借りておいた。
柔らかな灯りに照らされたトレーラーを見上げる。
胸の奥がじんわり温まる。
(パイカル、喜んでくれるかな……)
そう思いながら、鍵を開け、ドアを押し開けた──。
次の瞬間、空気がねじれた。
薄暗い室内に、小柄な男が潜んでいた。
病的に痩せた頬、濁った目、蛇のような動き。
彼は東京で起きた殺人事件の主犯格であり、
“特殊詐欺グループのリーダー”として指名手配されていた男。
警察も行方を掴めず、最近まで
東南アジアに潜伏している と噂されていた。
もちろん瑠衣はそんなこと知らない。
ただ──
圧倒的な “悪意” だけが、肌に突き刺さった。
男がゆっくりと近づく。
「──っ!」
瑠衣は悲鳴を上げ、外へ転がるように飛び出した。
小柄な男も飛び降りる。
「な、何なの……!」
その時、背後に影が立った。
昼間の──白髪の長身の男。
彼は瑠衣をそっと押しやり、前へ出る。
その目は完全に“狩人”の瞳へ変貌していた。
◆
小柄な男がナイフを抜いた瞬間。
長身の男の蹴りが、
手首を正確に跳ね上げた。
鈍い音。
右手首が、不自然な角度に折れる。
続けて、腹へ膝が突き刺さる。
衝撃は背骨を抜け、
小柄な男はトレーラーの壁へ吹き飛んだ。
倒れた男に近づくと、
長身の男は左腕を取り、ためらいなく折った。
完全制圧。
ポケットから携帯を取り出し、
息一つ乱さず110番通報する。
まもなくパトカーが到着。
状況説明の途中、
彼はちらりと瑠衣を見て、獣のようにニィッと笑った。
その笑みにあったのは──
暴力の余韻と
久しく忘れていた“生の実感”。
パトカーに乗り込む直前、男は倒れた犯人を見下ろし、淡々とつぶやく。
「そういや……こいつ、懸賞金ついてたな。
600万──だったか」
瑠衣は息を呑んだ。
──彼はいったい何者なのか。
男の名は 金本 光一。
五年の眠りから覚醒した獣だった。




