表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/124

2話 君の名は

2016年8月──北海道札幌市南区。


芸術の森から支笏湖へ向かう山あいに、

古い廃石切場を利用した“キャンピングトレーラー村”がある。

小屋というより、廃坑の縁に寄り添うように並んだ移動式住居群。

朝は野鳥、夜は鹿が鳴く、奇妙な無国籍地帯だ。


昼過ぎ、その一つのトレーラーから男が出てきた。


身長は190センチ近い。

白いTシャツにジーンズ。

髪は坊主刈り──だが老人ではない。二十代後半の若者である。


肩幅は異様に広く、脚筋はジーンズ越しにも輪郭が浮かぶ。

歩けば音がしない。まるで肉食獣のハンターのような重心。

Tシャツの袖から覗く腕には、火傷、裂傷、古い打撲痕。

この男が過去に“何か”を生き抜いてきたことが一目で分かる。


男──ルイはランドクルーザー70のドアを開け、軽やかに乗り込む。

ラジオのダイヤルを回すと、リオ五輪の中継が流れた。


フェンシング、アーチェリー、柔道。

日本勢の金ラッシュに、局アナの声が弾む。


トレーラー村を出たルイは北上し、芸術の森を抜ける。

さらに山を下り、住宅街の外れにある大きな資材置場──

雨宮石材店のヤードに車を停めた。


ユニック車の横で、社長の雨宮がコーラを飲んでいた。


「来たか、ルイ。まもなく出発するぞ」


ルイは無言でうなずき、運転席に乗り込む。


じつはあのトレーラー村は、雨宮石材店が所有する廃石切場の一部を

キャンプ場として整備し、さらに従業員寮として活用した“特殊な社宅”だ。

ルイが保護司に伴われ、ここへ来たのは2011年の夏。

もう五年が経つ。


そのとき──ルイは記憶を失っていた。


名前すら分からない。

ただ、頭に浮かぶ断片的な音。


ルイ、マツ、マオ。


その響きを手がかりに、彼は“松尾ルイ”と名乗るようになった。


雨宮は元・自衛隊レンジャーで、現在は家業の石材店を継いでいる。

同時に、市から委託され、網走刑務所出所者の雇用と住居管理を担っていた。

ルイは刑務所帰りではないが、同様の“保護対象者”として扱われていた。



墓石を据え付ける作業を終え、夕方にヤードへ戻ったルイは、

黙ってTシャツを脱ぎ、洗濯機に放り込んだ。


背中には、胸よりもさらに多くの古傷が走る。

だが、それ以上に目を奪うのは“筋肉の質”だ。


ジムで膨らませた筋肉ではない。

岩を担ぎ、斜面を登り、全身で重心を移す“労働の身体”。

剛性と柔軟が同居する、野性じみた造形。

不意にこれを見た者は、間違いなく息を呑むだろう。


「ご苦労。練習は七時からだ」


雨宮が声をかけると、ルイは淡々とうなずき、タオルで汗を拭った。



仕事後、ルイは再びランクルでトレーラーへ戻る。


室内には木製ベッド、ポット、ラジオ、

そして中古のノートパソコンが一台あるだけ。

テレビは見ない。食事もほとんど外食だ。


着替えてベッドに横たわり、

断熱材が吹き付けられた天井をぼんやりと見つめる。


数日前──地下格闘技のリングで締め落とした相手の

苦痛にゆがむ表情が蘇る。


ルイは静かに、口角を上げた。


七時からは雨宮の道場で稽古。

眠るには、まだ十分に時間がある。



雨宮家に伝わる古流武術──覇極流はきょくりゅう


ふざけた名前のように聞こえるが、れっきとした一子相伝の実戦武術だ。

骨の締め方、股関節の抜き方、仙骨の入れ方──

“身体を一つの塊にして殴る”剛体術が核となる。

あの有名マンガで脚光を浴びた技法に近い。


そして奇妙なことに、雨宮の好きな別のバトル漫画のキャラクターが使う

流派の名前と、偶然まったく同じだった。


雨宮は苦笑しながら言った。


「まあ、こっちは本物だ。気にするな」


道場といっても資材置場の片隅である。

コンクリートの床で殴り合い、

昼は足場の悪い石切場を駆け回る。


弟子は六人。全員が石材店の従業員。

三年以上働き、素質がある者だけが招かれる。


その六人目が──記憶喪失のルイだった。


雨宮には確信があった。


こいつは柔道を“ガチ”でやっていた。

それも全国クラスで。


投げの入り方、崩しの瞬間、体重移動の癖。

ブランクはあるが、二段どころではない。


そこに石材店の重労働が加わる。


石は水の2.8倍の重さ。

30〜40キロの石板を不安定な足場で扱い、

40キロのセメント袋を担いで階段を上がる。


これらがルイの身体を、常識外の領域へと押し上げていった。



夜九時。稽古後に屋外シャワーを浴びると、

弟子たちはいつもの中華料理店へ向かった。


ルイは餃子と味噌ラーメンがお気に入りだ。


有線放送ではシャーリー•バッシーのゴールドフィンガーのテーマが流れる中、それに被せるようにして


店のテレビでは、フェンシングの金メダリスト──

アラクラン選手 のインタビューが始まった。


その瞬間だった。


ルイの頭蓋の奥で、

“何か”が割れる音がした。


視界がにじみ、

こめかみに鋭い痛みが走る。


「おい、大丈夫か?」


雨宮が肩に触れた。


しばらく呆然としていたルイの表情が、

ゆっくりと変わっていく。


──邪悪な笑み。


思い出したのだ。


五年半前。

東北の、あの日。


俺は確かに海岸にいた。

そして──あの男もそこにいた。


胸の奥で、言葉が形になる。


「俺の名は……金本。

金本 光一。」




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ