五部 1話 眺めの良い部屋
味沢は、文京区・千石の五階建てマンションにランエボ10を停めた。
隣のスペースには、蜜の紫のデルタHFインテグラーレが “おみき徳利” のように端然と佇んでいる。
偶然だが、ランサーとランチア──どちらも“槍手”を意味する車だ。
エレベーターには乗らない。
階段を上るほうが、身体と頭の切り替えになる。
玄関を開けると、白檀のお香が微かに漂った。
廊下の奥、北欧風に整えられた広いリビングでは、蜜がアルネヤコブセンのエッグチェアでうたた寝している。
膝の上で丸くなったアメリカンショートヘアのエンゾが、半分眠った目でこちらを見た。
味沢は静かに笑った。
キッチンに立ち、カレーの鍋に火を入れる。
焦げつきかけたスパイスの香りが部屋に広がる。
入籍して二ヶ月。
すれ違いばかりの人生で、“誰かと暮らす”という発想自体が、味沢には半ば奇跡だった。
結婚式は横浜──ホテルニューグランドで行われた。
挙げる気などなかった二人だが、アギトが半ば強引に誘ってきた。
「ホール押さえちまったんだよ。
呼ぶ友達もいないし……費用シェアで一緒に如何?」
蜜が意外とすんなり頷き、
その結果、アギト・蘭・パイカルら数人だけの静かな式になった。
引き出物はコーカサスのクヴェヴリワイン。
“発祥の酒”に縁起を担ぐ──そう言い出したのはアギトだ。
あいつらしい、と味沢は思った。
式の控え室で、パイカルがシャンパン越しに呟いた。
「味沢サンに先を越されたネ……」
「順当だろう。
あなたに結婚願望なんてあったのか?」
蘭が冷静に返す。
笑いの中には、言葉にしない“共感”が薄く漂っていた。
横浜で起きた、あの夜の一件──アジト、金、ラズリ。
誰も詳しいことは話さない。
触れれば、どこかが崩れるのを互いに感じていた。
問題は──赤井だった。
最初の一杯で頬が赤くなり、
二杯目で目が据わり、
三杯目に差しかかった瞬間、蘭が呟いた。
「……まずい。来るぞ」
赤井がゆっくり立ち上がり、天井を指差した。
「俺は──赤いハレー彗星……!」
嫌な予感しかしない。
赤井は香気を大げさに吸い込み、胸を張る。
「見せてやろう……
俺の華麗なる“三倍速”をッ!!」
アギトが苦笑する。
「三倍速って……いや、もういいか」
だが赤井には誰の声も届かない。
テーブルを指し、今度は全く脈絡のない方向へ走り出した。
「見よッ!!
ただのカローラとは違うんだよ!!」
空気が凍る。
蜜が呟く。
「……ねぇ、何の話?」
パイカルは震えながら笑い転げ、
蘭は観測者の目をしていた。
赤井は両腕を広げ、自分だけの銀河を駆けていた。
「これが俺のッ……
“赤いアギト・ハイパースペック”だッ!!」
アギトは頭を抱えた。
「……俺の名前、勝手に改造しないでもらえませんか」
赤井は聞かない。
聞く気もない。
「……ア・バ・ヨ」
そのまま後ろに倒れた。
ドサッ──。
味沢が息をつく。
「落ちたな」
アギトが脈を見て、
「大丈夫です。ただの酔いです」
と淡々と診断した。
蘭が締める。
「赤井にコーカサスワインは猫にマタタビだ。」
翌朝──赤井は何も覚えていなかった。
⸻
式から数日後。
アギトは新しい拠点を持った。
旧拠点は神楽坂のホテル・アグネス。
だが移った先は、市ヶ谷のルクセンブルクハウス──大使館附属の建物。
「大使館の上に住むなんて、お前くらいだ」
そう言うと、アギトは肩をすくめた。
「余計な目がまず入ってこない。
普通のマンションじゃ落ち着かないんだよ」
味沢も反論はできなかった。
官舎、エアストリーム、ヨット、そしてルクセンブルクハウス。
揃いすぎた“逃げ道”。
そして味沢は静かに思った。
──国家公務員とダークヒーローという“二枚の顔”を
どちらも降ろせない男の末路は、ひとつしかない。
大げさな表現ではない。
アギトは“影の構造”を、本人の意思と無関係に背負わされている。
拠点は増えるのに、居場所は増えない。
未来を語っても、家族の輪郭は描かれない。
幸福に触れても、それを長く抱きとめられない。
闇を選んだのではない。
闇のほうが、彼を選び続けている。
いつかアギトは、光の届かない場所へ行ってしまう──。
その予感だけが、味沢の胸の底に静かに沈んでいた。
⸻
火を弱め、鍋の蓋を閉める。
静かな部屋で、蜜の寝息だけが聞こえる。
幸福は確かにここにある。
だが、それを受け取る資格が本当に自分にあるのか──
味沢は時折、答えを見失う。
それでも現実は、前へ進む。




