35話 三百年の終わり
1
「ねえ、ねえ、まだだめ? はやく降ろそうよロープ」
「ダメです。キルフリード様からの合図があってから、です。ダーナムも、絶対に言うこと聞かないでくださいね」
「だってよ。大人しく待ってな嬢ちゃん。気持ちは分かるけどよ〜」
そう。気持ちは分かる。魔獣が動きを止めてから、もう三十分は経つ。けれど、何度呼びかけてみても、キルフリード様達からの応答はない。もどかしい。
自警団の若い衆も、最初は喜んで騒いで、急ぎロープを取り出して、構えていたのに……ああ。今では皆、俯いて、眉間に皺を寄せているじゃないですか。
「ことが済んだ後に、私たちも動けるかどうか分からない。もしかしたら、谷底まで回収しにきてもらう必要に迫られる可能性がある。ただ、もしそうなったとしても、危険だから、必ず私が反応を見せてから、だ。それがないならば、死んでいるということ。貴様らは、放置して帰れ」
そういう指示が出ていた。
魔獣が死んだのは、竜が死んだから。
それはきっと、間違いない。
けれど、この沈黙は、もしかして、竜だけではなく。
そう想像してしまっても、仕方のない状況。
ウウう〜──────────────────
「!」
「うわ、これ? 聞いたことある」
ネルネリさんが言った。彼女だけではない。ここにいる人間の多くが、聞いたことのある音だった。
あの日、キルフリード様とコーセーさんの決闘の日。決着の時に、鳴っていた。
すなわち、刻印器“響創剣”の音だった。
「ね、ロープ」
「はいっ! ……はい!! 迎えに行きましょう!」
2
「なー、トギメイさん。どうしよう。靴なくなっちゃってさあ。もう一組ない? ほら俺って昔、寝たきりだったから。自分の足で地面を踏みしめられない今の状況がすごく辛いんだよ。まじでフラッシュバックしかけてる今」
「同情を引こうとしないでください。さすがに靴は貸せませんって」
「靴どころか、さっき予備引っ張り出してくるまで下半身なにも履いてなかったじゃん」
「着てました〜ダックスの上着をちゃんと着てました〜」
「着ていたというか、巻いていたでは……」
「冷静に考えてもう着たくないよねあれ。コーセーには、ダックスが残念そうな顔であの服をゴミ箱に捨てるシーンを目撃して、悲しくなってほしい」
「なんでそんな嫌なシチュエーションをご所望なの?」
「ていうか、そもそも裸足でも踏みしめられますよね地面は」
「……」
「弱っ。黙んないでよ」
「……裸足で踏み締めるのよりも、靴越しに踏み締める方が、幸福度が高い。統計学的に結果が出てた。俺のいた国では」
「無理がある嘘をつくのはやめましょうよ……」
歓喜に沸き、飲めや踊れやの大騒ぎをする自警団員たちの横で、木差子康生は、靴がなくなった、という危機を打開すべく、トギメイに交渉を仕掛けていた。
「サイズ違うんじゃないの? コーセーのがちょっと背高いし」
「ね、ネルネリ、嘘、おまえ、知らないの!? 身長と足のサイズは反比例するという迷信を!?」
「知っていたとして迷信なんじゃん」
「まあまあでも実際に蓋を開けてみないと分からないことだからね。しちゃおっか? “足裏合わせ”」
「大人にしか許されない禁断の遊びみたいな言い方しないでください……ネルネリさんも睨まないでください。しません足裏合わせは」
そんな他愛のない会話風景を、少し離れて見つつ、訝しむような顔をしているのは、ダックス・ハルマンとキルフリード・ルイユであった。
「元気そう、ですね。本当なんですか? 先ほどの話は」
「……ああ。ダックス殿が目覚める少し前まで、確かにコーセーは……死んでいた。下半身がちぎれて、心臓も止まっていた。だというのに─────」
「治った、と。本人は、死んだことにさえ、気づいていないようですが」
「いや、うむ。治ったと言って、良いのか、ああ、治ったのだが、その、治り方も、不自然、というか」
キルフリードは、深く皺を刻んだこめかみを指で摘み、言葉をつづる。
「まず骨が出来て、それを覆うように筋肉が出来て、最後に皮が出来ていた。速度自体も異常だが……そういうものだろうか? ヒトの身体とは……」
「まるで工業品ですね」
「ダックス殿……貴公は、あまり、驚いてはいないのか?」
「ハッハ! もちろん混乱はしていますよ。ただ、コーセーさんの身体が変なのは、もともと分かっていましたので。エリーゼさんからも、回復魔法がどうのと聞いていませんか?」
「聞いてはいるが、だが……」
「何はともあれ、ですよ。結果的にコーセーさんが健在でいてくれただけで、私は嬉しいのです。まあ、これを使った時に身内が死ぬというジンクスが、また更新されてしまった、というのは、多少残念ですがね」
「……」
「キルフリードさん。ありがとうございました。私が起きた時のコーセーさんは、上着もはだけていた。本人の再生力があったとはいえ、貴方が救命処置をしてくれたんでしょう」
「そこなのだ」
「?」
「たしかに、私はコーセーの胸部を圧迫して、心臓を動かそうとした。だが……」
キルフリードの顔は、もはや蒼白であった。
「やつが起き上がった時、まだ……心臓は、動いていなかったんだ」
「……?」
「そして、『もう大丈夫です』と……」
「敬語でですか?」
「口調も、表情も、立ち姿も、私の知る彼とは違うものだった。その後、大きくのけぞってまた倒れた時には、心臓は脈を打っていたように見えた。と、いうよりも……心臓が動き出したせいで、また倒れた。そんな様子だった」
「次に私も一緒に起こした時は、もうあの調子ですからね。何かが変わったようには、見えません」
「私もだ。あれはまさしく、私たちの知るコーセー。間違いない」
「ええ。ですが……覚えておきます」
ダックス・ハルマンは自分がエリーゼに語ったことを、思い出していた。
────身体や異能が特別なのは、コーセーさんの大事なところではないんですよ。
だって、人格的な面倒臭さの方が、よっぽど目につきますからね!
「まあ、それよりも今は、私たちも楽しみましょう。約束のブツを……」
「クク。それもそうだな……我が家に長らく保管されていた四百年ものの地酒。解禁するならば今しか……ん? ない?」
キルフリードは馬車の荷台を確認するも、目的のものは見つからない。
「おお〜スゲーぜ姉御お!!」
「む?」
歓声の方を向くと、秘蔵のワインを保管していた箱が、正座する女性の足元に転がっている。それだけではない。いくつも、いくつもの酒瓶が、無造作に散らばっているのだ。
「こんなもの、こう使ってやるんですよ!」
そこにあったのは、“信壊”シズルムを逆さに持って盃とし、何種類もの酒をてきとうにぶちこんだものを、一気に飲もうとするエリーゼの姿であった。素面である。
「なん……だと……?」
「おお!! やりますねエリーゼさん」
「トギメイさん、羨ましそうだね」
「いや、コーセーさん、僕あんな恥ずかしい飲み方したくないですよやめてください変なレッテル貼るの!」
「どの口が言うんだ」
「運転あるから飲めませんし」
「どの口が言うんだ!?」
「そういえば、シズルムといえば、あれはどうなったんです? 大聖女シエラのことは、わかったんですか?」
「全くわかんなかった。壁に変なこと書いてあったんだけどさ、ありゃ來夏じゃないぜ百パー」
「『じゃないぜ』って、知りませんけど……なんというか、コーセーさん、あんまり良い目に遭ってないですね」
3
「ここにシズルムが……ん!」
きゃああひいいいいいいいいいいいいいいぴゅうううううううううううううう
「うわ、竜? へえ。キミが、この音の原因だったわけだ」
ごつん。
女は竜との間にある、青白い光の壁を軽く殴ってみせる。それは、盾の性能を確かめるための行為であった。
「いったー。えーどうやったら止まるのかなこれ。うるさいんだけれど……あ、電源切っちゃえばいいのか。よっ」
盾に手をかけて、乱暴に引き抜く。それと同時に、両者間の仕切りはなくなる。
「……そうだよね。キミも、こんな狭いところから出て行きたいよね。おっと」
竜がその若い女を前腕で殴ろうとしたことに、大した意味はなかった。ただ目前に、ちょこちょこと動き回る不快な虫がいたから、潰そうとした。
しかしその攻撃は、届かない。何かが間にあるように、途中で止まってしまった。
「なに。元気が有り余っているの」
光魔法。『神秘』と『定義』、『命令』を司る魔法。
境界を定義し区分する魔法、通称結界魔法は、中でも最も有名なものの一つであった。
「でも、邪魔しちゃだめだよ」
女が二本の指でピースを作り、それを閉じるような動作をする。
「“剪剃鋏”」
竜の後ろ脚が一本、ふっと落ちる。最初から、別々のものだったかのように。
それは、物理的な結合を区分する魔法だった。
「わ、怒ったの? 叫ばないでよ。せっかくシズルムを止めたのに。脚がなくなったら、暴れられないかと思ったんだけどな。じゃあ、こうか」
竜の動作の一切が、停止する。それもまた、結界魔法の応用によって起こる現象であった。
「意外と可動部は少ないんだ。ごめんね。私がいなくなったら解けるから、待っていてね?」
「さて、どうかな。シズルムは……私の目当てのものだといいのだけれど……」
竜にとってその数時間は、永劫にも感じられた。
「ハァーーー……ぜんぜん、ダメ」
「もういいや、返しておくね。これ」
「なに、その目。やる気なのかな」
「……はあー。違う違う。私、そんな時間ないんだよ。でも、あああ。ちょっと発散したい気分……」
女は尖った金属片を拾い、まだ独圏に呑まれていない岩壁に突き立て、何かを書く。
「よし。じゃあね!」
立ち去った者のいた場所に、残された言葉はこうであった。
『絶対防御の仕組み。流用できないかと期待したけれど、まったくの無駄足だった』




