アゼルハルト視点・前編 私は蜂蜜をかけたものの方が好きでした
アゼルハルト・クラウゼルには、ひとつ答えられなかった質問がある。
「なぜ、私だったのでしょう」
婚約が決まった直後、エルナに尋ねられたことだ。そのときは、しばらく考えたあとで「俺も、うまく説明できない」と答えた。
嘘ではない。なぜ彼女に惹かれたのかと考えると、いつからだったのかもわからなくなる。ただ、答えを探して出会いからの出来事を何度も思い返したことは、本人には言わなかった。
はっきりさせておくと、山で会った瞬間は、恋ではなかった。
あれは怒りだ。
薄い絹の外套。裂いたドレスの裾を巻きつけた靴。紫がかった唇。七合目で八時間待てと命じられ、たったひとつの黒パンと水筒を持たされて、三時間も寒さに耐えていた令嬢。
「そうですか、じゃない!」
思わず怒鳴ってしまった。父親にでもなく、彼女に。
娘の肩が跳ねた。それを見た瞬間、自分を殴りたくなった。この娘は何も悪くない。悪いのは山の危険も考えずに置いていった父親であって、言いつけを守ろうとしていた彼女ではない。
だから、恋ではない。
恋ではなかった――はずなのに、そのあと娘はこう言った。
「いえ、もういいんです。それより、麓まで送っていただけますか」
自分の思考が一度止まったのを覚えている。
助けてくれ、ではなかった。父をどうにかしてくれ、でもなかった。たった今、自分が死にかけていたと聞かされた直後の女が、用件だけを言った。
父親への文句も言わず、誰かが迎えに来るのを待つつもりもない。
今でも思う。あのとき、何かが音を立てて動いた気がする。ただ、それが恋だったかどうかは、どうしても判定できない。
麓の宿まで送り届けたとき、自分の外套を返してもらうのを忘れた。いや、忘れたふりをした。
――これは、もしかするとそうだったのかもしれない。
翌週、アゼルハルトは執務机の前で三時間唸っていた。
目の前には書きかけの便箋が十四枚。全部失敗作だ。
「隊長。何をなさってるんです」
「……手紙だ」
「ようやくヴァレンティ伯爵への抗議状ですか」
「違う」
副官が覗き込んで、十五枚目に書いてある文章を読んで黙った。
『拝啓 ヴァレンティ伯爵令嬢 足の具合はいかがか』
以上。それだけ。
「隊長」
「言うな」
「これ、公文書ですか」
「言うなと言った」
結局その一文だけを清書して送った。
そして三日間後悔した。
四日目に返事が来た。
丁寧な、非の打ちどころのない礼状。ただ最後の一行……
『外套をお返しせねばなりません』
その一行を四回読んだ。
外套を返す必要がある、ということは、もう一度連絡を取る口実があるということだ。
返却方法については何も書かれていないのに、アゼルハルトは勝手に期待した。
その日、副官はアゼルハルトが妙に機嫌よく武具の手入れをしているのを目撃している。
二通目は、靴のことを書いた。
新しいものは足に馴染んだか、と。
布を巻いただけのあの靴が、どうしても頭から離れなかった。寝る前に思い出す。朝、鐙に足をかけるときに思い出す。どうしても気になって、結局また手紙を書いてしまった。
「辺境伯が令嬢の靴の心配をしないでください」
「うるさい」
「しかも二通目でその話題というのは、どうなんです」
「他に何を書く」
「天候とか、ご家族の近況とか」
「家族の話はしない」
副官が失言した、という顔をした。
あの父親の話を、わざわざ手紙で蒸し返すわけにはいかない。
返事には、新しい靴は少し硬いけれど履き慣らしている、と書いてあった。
『辺境伯様は、お忙しいのではありませんか』
こう添えられた文章を読むと、筆を置き天井を見上げる。
遠回しに「なぜ手紙を書いてくるのか」と聞かれている。
当然だ。会ったのは一度。しかも相手は山の管理者で、自分は保護された令嬢だ。
二通目が靴の話なら、不審に思われて然るべきだった。
ここで引くべきだろうか、と三十分考えた。
結論。引きたくなかった。
三通目で、ようやく山以外のことを書いた。
ふもとの焼き菓子屋。胡桃菓子。
『あの店の胡桃菓子は、山を下りたあとに食べると格別だ』
要するに、口実である。
靴の話も足の話もできないなら、菓子の話をすればいい。少なくとも菓子は誰も傷つけない。
『私は蜂蜜をかけたものの方が好きでした』
――蜂蜜か。
その手紙を持ったまま、しばらく動けなかった。
彼女はあの店の菓子を食べたことがあって、胡桃より蜂蜜の方が好きなのだ。
いつ食べたのかは書かれていない。ただ、あの日、寒さに震えていた娘が、蜂蜜のかかった焼き菓子を美味しそうに食べている姿を想像すると、妙に嬉しくなった。
これまでアゼルハルトが知っていたのは、彼女がどんな目に遭い、どれほど危険な山を一人で下りてきたかということばかり。
けれど、今は違う。
蜂蜜のかかった菓子が好きなのだという。
――この女は。
その先を、言葉にできなかった。
強い、ではない。偉い、でもない。哀れでは絶対にない。ただ、こういう女と一緒に飯を食いたい、と思った。
それは、たぶん恋よりも具体的な欲。
四通目は、書かなかった。
代わりに、胡桃菓子と蜂蜜菓子の両方を箱に詰めて送った。
「それは手紙とは言いません」
「知っている」
「隊長。失礼ながら申し上げますが」
副官が、荷馬の鞍を締めながら言う。
「それ、求婚の一歩前ですよ」
手を止め、しばらく考えたあとでようやく口を開く。
「……そうか」
「お気づきでなかったんですか」
「気づいていた」
嘘だ。
気づいてはいたが、気づいている自覚がなかった。
靴が気になり、菓子を送り、返事の一行を四回読む。
それを順番に並べていったら、答えはひとつしかない。
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