第四話 私、待たせるのは得意だったみたいです
そして五通目。
正式な求婚状が届くと、ヴァレンティ伯爵家の応接間で父が封蝋を睨みながら唸った。
「馬鹿な。……なぜお前に」
「山でお会いしましたので」
「たった一度だぞ」
たしかに、会ったのは一度きりだったけれど、そのあと五通の手紙を交わした。
父はそれを知らない。
聞かなかったからだ。
「まあ、いけませんわ」
リーゼロッテが甲高い声をあげた。
足首はとっくに治っているのに、今日も細身の杖を持っている。
「お父様、お忘れ?わたくし、まだ婚約者が決まっておりませんのよ」
「……そうだ、エルナ。姉の縁談がまだ決まっていない。妹が先に婚約するわけには――」
「では、お姉様を待たずに婚約いたします」
紅茶のカップが、受け皿に当たって音を立てる。
「な……」
「お受けします、と辺境伯様にお返事を書きますわ。今日中に」
「エルナ!順番というものが!」
「順番」
静かに繰り返す。
「その順番で、私は昨年の社交界に出られませんでした。一昨年もです。その前も。お姉様の順番が回るまで待って、私はもう十八になりました」
「それは、リーゼが身体が弱いから――」
「お姉様は先月、山頂まで登れましたわ」
リーゼロッテの顔が真っ赤になった。
「ひどいわ!エルナ、あなた、そんな子じゃなかったでしょう!」
「ええ。先月までは」
「だいたい、辺境伯様よ?辺境伯様なら、妹より私の方が年上なのだから、私が先でしょう?」
エルナは姉を見ると、少しだけ笑った。
「そうね。今までずっとそうだったわね」
「そ、そうでしょう?だから――」
「だから?」
唇をわなわなと震わせるけれど、その先が出てこない。
年上だから先。
身体が弱いから先。
泣けば通ったから先。
その後ろには、いつも妹が黙って並んでくれていた。
でも、エルナはもうその列にいない。
列がなくなれば、「先」という言葉には何の意味もないのだから。
「エルナ!」
父が呼び止めるけれど、何も言わずに立ち上がり扉に向かう。
「お返事を書いてまいります」
婚約が決まってから、アゼルハルトとは何度か顔を合わせた。
最初に尋ねたのは、なぜ自分だったのか、だった。
辺境伯ならば、もっと家柄のよい令嬢も、美しい令嬢も、いくらでも選べる。
彼はしばらく考えたあとで口を開いた。
「あのとき、君は俺に助けてくれとも、父親をどうにかしてくれとも言わなかっただろう」
「はい」
「麓まで送ってくれ、とだけ言った」
「……だって、帰りたかったので」
「そこだ」
「どこでしょう」
「俺も、うまく説明できない」
アゼルハルトが笑って答えた。
それでは答えになっていない……そう思ったけれど、一緒に笑ってしまった。
「それに、俺が怒鳴ったとき、君は怯えただろう」
「少し」
「すまなかった」
「でも、外套を貸してくださいました」
「あれは当然だ」
「山を下りてからも、靴の心配まで」
「……それは」
そこで初めて、アゼルハルトが言葉に詰まったのを見て、少しだけ楽しくなった。
「辺境伯様は、存外心配性なのですね」
「君に言われたくない」
なぜだろう……その人の隣にいると、自分が何かを我慢しなくていいような気がした。
エルナは翌春、クラウゼル辺境伯家に嫁いだ。
父のことも、姉のことも、誰の順番も待たずに。
婚礼の日、参列した伯爵は末席に近い場所に座っていた。
辺境伯家の縁者たちの間で、彼はもう「良縁を持つ娘の父」ではなく、「聖山に娘を置き去りにした男」だった。
山を管理する家に嫁いだのだから、その話は消えようがない。
リーゼロッテには、二年後に縁談が決まった。
相手は隣領の子爵家の三男。
悪い相手ではない。
ただ、リーゼロッテが泣いたからといって、予定を変えてくれるような人でもなかった。
父は時折、辺境伯領に手紙を寄越す。
『一度、顔を見せに戻ってきなさい』
『今年の収穫祭には帰るように』
『返事を待っている』
エルナはそのすべてに丁寧な返事を書き、そして一度も帰らなかった。
「返事は書くのに、帰らないのだな」
「……薄情でしょうか?」
「いいや?」
書斎で、アゼルハルトが呆れたように言われると、羽根ペンを置いて夫を見上げた。
「私、待たせるのは得意だったみたいです」
「……悪い顔をする」
「あら」
アゼルハルトが笑って、彼女の肩に外套をかけた。
北の領地は、夏でも夜は冷える。
「寒いだろう」
「少しだけ」
「言え。俺は察しが悪い」
「アゼル様は、察してくださいますわ。いつも」
外套の襟を引き寄せた。
昨年、七合目にささやかな避難小屋が建った。
石造りの、頑丈な小屋。
薪と毛布と非常食が常備され、外には大きな鐘が吊るされている。
怪我をして動けない者や、天候が崩れて下山できなくなった者が鐘を鳴らせば警備隊が来る。
除幕の日、エルナは小屋の壁に一枚の銅板を留めさせた。
そこにはこう刻んである。
『ここで待つ必要のある者は、誰もいない』
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
八時間山に置き去りは…異常ですよね。
寒さに頭が冷えて良かった!と思ってもらえたら、ブックマーク、★★★★★よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ





