第三話 私、待たなくてもよかったのですね
日没の少し前、ヴァレンティ伯爵は八合目の山小屋に、娘を抱えて転がり込んできた。
リーゼロッテは山頂で足を滑らせて足首をひねり、父の背で泣きどおしだったという。
小屋の火のそばに娘を降ろし、水を飲ませ、毛布をかける。
それから伯爵は、ようやくもう一人の娘のことを思い出した。
「七合目だ。七合目に娘を置いてきた。迎えに行かねば」
「ああ。あのお嬢さんなら、下山されたと連絡がありましたよ」
「……なんだと?」
「昼過ぎに、お一人で下りてこられたそうで。警備隊が保護して、麓までお送りしました。今ごろは宿で温かいものでも召し上がってるでしょう」
「なぜ止めなかった!」
伯爵の顔から血の気が引いた。
小屋番の老人が、湯を注ぐ手を止めずに言った。
「なぜです?」
「なぜ、とは――」
「成人したご令嬢に、あそこで八時間待つ義務でも?」
「……娘だぞ。私が待てと言ったのだ」
「ええ、伺いました」
薪が爆ぜた。
老人は、また湯を注ぎ始めた。
「今夜、七合目は氷点下になります。あそこで八時間、旦那様の言いつけを守っていらしたら、明日わたしらが運び下ろすことになったでしょうな。お嬢さんが、ご自分で下りてくださって助かりました」
伯爵は、何も言えなかった。
翌朝、宿の食堂で伯爵は下の娘を見つけると、エルナは窓際の席で湯気の立つスープを飲んでいた。
足首には真新しい包帯と、肩には見覚えのない上等な外套がかかっている。
「エルナ!」
伯爵は大股で歩み寄ると、安堵より先に怒りが口から出た。
「勝手にいなくなるとは何事だ!どれほど心配したと思っている!」
エルナは匙を置き、父を見上げた。
「お父様が私を置いていったのでしょう?」
「待っていろと言った!」
「なぜ、待っていなければならなかったのですか」
「なぜ、だと?」
伯爵は言葉に詰まりながらも、声を荒らげた。
「なぜって……迎えに戻るからだ!」
「でも、私は帰れましたわ」
エルナはスープを一口飲む。
昨日一日、身体の芯が冷えきっていたぶん、スープの温かさがじんわりと身体の中に染み込んでいく。
そして、そのとき初めて気がついた。
ああ、私、ずっとこれをしていたんだわ。
姉が食事を選び終わるまで、待った。
姉がドレスを選び終わるまで、待った。
姉の家庭教師の時間が終わるまで、待った。
姉に縁談が決まるまで、社交界に出るのを待った。
「姉さんが先だから、お前は待ちなさい」
そう言われるたびに、素直に待った。
しっかりしていると褒められるから、少しくらい我慢しなさいと言われるから。
そうやって、自分の人生まで順番待ちの列に並ばせていたのだ。
聖山の八時間は、その全部の縮図だっただけ。
「お父様。私、待たなくてもよかったのですね」
声を荒らげもせず、涙も浮かべずに言う娘の顔を見ると、恨みも憎しみもない。
ただ、長年の勘違いにようやく気づいた者の顔。
なぜか、それに何も言い返せなかった。
山を下りた翌週、クラウゼル辺境伯からエルナ宛に手紙が届いた。
足の具合を尋ねる内容に、エルナは丁寧に礼状を書いた。
その次の週にも届いた。
今度は、新しい靴は足に馴染んでいるかと書いてあった。
その内容に少しだけ笑ってしまう。
なぜ辺境伯が自分の靴の心配をしているのか、よくわからなかったからだ。
三通目には、聖山のふもとにある焼き菓子屋のことが書かれていた。
山の話はほとんどなかった。
警備隊の話も、父への苦言もない。
『あの店の胡桃菓子は、山を下りたあとに食べると格別だ』
『私は蜂蜜をかけたものの方が好きでした』
四通目には、胡桃菓子と蜂蜜菓子の両方が届いた。
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