第二話 寒い、お腹も空いた、だから家に帰る。
道はある。
下りだ。
登ってきた道を逆にたどるだけ。
すでに三時間ぶん登った距離は、下りなら二時間半もかからないだろう。
足は痛いが、歩けないほどではないし、日はまだ高い。
「……帰ればいいのでは?」
言ってしまってからもしばらく座ったままだった。
これは大それたことだろうか。
家族を捨てるとか、父に逆らうとか……そういう大事だろうか。
考えて考えて――
「うん。違うわね」
寒い、お腹も空いた、だから家に帰る。
それだけのこと。
エルナは残りのパンを外套の内側にしまい、水筒の紐を肩にかけた。
裂けた靴に、ドレスの裾から裂いた布を巻きつけて縛る。
立ち上がるとき、膝が笑った。
「よし」
そして、山を下り始めた。
二時間ほど下ったところで、鈴の音を鳴らし岩陰から現れたのは、灰緑色の外套を着た男が三人。
胸には、白い山と剣を組み合わせた紋章。
聖山を管理するクラウゼル辺境伯家の山岳警備隊だ。
先頭の若い男が、エルナを見て足を止めた。
背が高く日に焼けた肌に、氷みたいな灰色の目。
二十代の半ばだろうか。
腰の剣の柄には、隊員たちのものより上等な意匠が彫られていた。
「――君、一人か?」
「はい」
男の眉が寄った。
「令嬢が一人とは……供は?」
「父と姉は山頂へ行きました」
「…………は?」
後ろの隊員二人が、顔を見合わせた。
「待て。順を追って話せ。君は登拝の一行だな。何合目から下りてきた」
「七合目の、大岩のところです」
「そこから一人で?」
「はい」
「なぜ」
エルナは、自分でも不思議なくらい落ち着いた声で答えた。
「靴が壊れて、足を痛めて、少し体調も悪かったので。父が『ここで八時間待っていなさい』と。パンと水をいただきました」
男の顔から表情が消えた。
「八時間……?七合目に。単身で。この装備で」
「はい」
男はエルナの薄い外套と、布を巻いただけの靴を上から下まで見ると、それから空を仰ぐ。
西の稜線に、鉛色の雲が張り付き始めていた。
「ハンス。八合目の小屋に走れ。今夜、七合目より上は荒れる」
「はっ」
隊員の一人が駆けていくと、男はエルナに向き直り、自分の外套を脱いで肩にかけた。
まだ人の体温が残っていて、その温もりにエルナはうっかり泣きそうになった。
「あの山は、日が落ちれば夏でも人を殺す。七合目で八時間動かずにいたら、君は今夜、生きていない」
「……そうですか」
「そうですか、じゃない!」
予想外の剣幕、思わず肩が跳ねた。
「君の父君はそれを知らずに置いていったのか、知っていて置いていったのか、どちらだ」
エルナは少し考えた。
たぶん、父は知らなかった気がする……いや、知ろうとしなかった。
姉が泣いていたから、それ以外のことは全部、頭から消えていただけだ。
そう説明しようとして、やめた。
説明したところで、どちらでも同じだった。
「いえ、もういいんです」
「よくない」
「それより、麓まで送っていただけますか。日が暮れる前に、宿に戻りたいので」
エルナが男を見上げると、男が黙った。
怒鳴られるかと思ったし、世間知らずだと呆れられるかとも思った。
彼はしばらくエルナを見つめたあと、視線を外す。
「……アゼルハルト・クラウゼル」
「え?」
「この山の管理者だ。名乗るのが遅れた」
辺境伯本人だと気がつき、慌てて礼を取ろうとして足がもつれると、とっさに伸びてきた腕に支えられる。
「申し訳ありません」
「無理をするな。担架を出す」
「歩けます」
「歩けるのは知っている。だが、歩けるからといって、歩かせていいわけじゃない」
アゼルハルトは、ひどく苦い顔をした。
その言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。
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