第一話 ここに八時間いる必要が、そもそもある?
靴の縫い目が裂けたのは、七合目を少し過ぎたあたりだった。
「エルナ、どうした」
振り返った父の声には、心配というより「面倒が起きた」という響きがあった。
父は、娘の足元を一瞥して眉をひそめる。
右の靴底が半分めくれ、踏み込むたびに石が直接足裏を打つ。
すでに踵は擦り切れ、血が滲んでいた。
そのうえ、朝から続く息苦しさと、標高のせいか頭の芯が重い。
「……申し訳ありません。少し、休ませていただけますか」
エルネスティーネ・ヴァレンティ――エルナは、そう言うのが精一杯だった。
聖山ゼルベルク。
山頂の神殿で成人した貴族の娘が祈願すれば良縁と祝福を得るという、年に数日間だけ雪の消える短い季節にだけ登拝が許される山。
今日は、その最終日だった。
「まあ、エルナったら。こんなときに」
姉のリーゼロッテが、頬に手を当てて悲しげな顔をする。
この顔がいちばん厄介だと、エルナは十八年かけて学んでいた。
「お父様。わたくし、今日を逃すと次に登れるのは一年後よ。一年よ?わたくし、それまで待てるかしら……」
リーゼロッテの目に、みるみる涙が盛り上がる。
「ねえ、お父様。わたくし、身体が弱いのに、ここまで頑張って登ってきたのよ。それなのに」
「泣くな、リーゼ。お前は山頂まで行ける」
父の顔が変わった。
そして、下の娘を振り返る。
「エルナ。お前はしっかりしているから大丈夫だな」
来た、とエルナは思った。
十八年、何百回と聞いた前置きだった。
父は背負い袋からパンをひとつと、革の水筒を取り出して岩の窪みに置いた。
「ここで待っていなさい。往復八時間ほどだ。必ず迎えに来る」
「……八時間」
「日暮れ前には戻る。動くな。山で動くと迷う。いいな」
「ごめんなさいね、エルナ。あなたはお利口だもの、平気よね」
リーゼロッテが、涙の残る顔でにっこりと笑った。
二人の背中が、灰色の岩場の向こうに見えなくなった。
風が吹いた。
エルナは、パンと水筒の横に座った。
最初の一時間はちゃんと待っていた。
父の言うことだから。
膝を抱えて、二人が登っていった道を、ただじっと見つめた。
姉が「やっぱりエルナが可哀想だわ」と言い出すかもしれない。
父が「やはり置いていけない」と引き返してくるかもしれない。
二時間が過ぎた頃、風向きが変わったせいで雲が増え、日差しに陰りが出る。
指先から順に、体温が抜けていくのがわかった。
ドレスの上に羽織った外套は、山用ではない。
ふもとの村で「山頂は寒うございますよ」と言われて、姉のぶんだけ毛皮を買ったのを思い出した。
三時間目、エルナはパンをちぎった。
固くてパサパサとして、噛むと粉の味しかしない。
それでも、噛んでいる間だけは何かをしている気になれた。
お腹が空いた……寒い、足が痛い……さびしい……
――腹が立つ。
順番に並べていったら、最後にそれが出てきて自分で驚く。
腹を立ててはいけないと、ずっと思っていた。
姉は身体が弱いのだから。
自分はしっかりしているのだから。
少しくらい我慢しなさいと言われてきたのだから。
でも、寒かった。
エルナは少しだけ、声が出ないように泣いた。
出しても、聞く人がいなかったから。
涙が冷えて頬が痛くなったころ、ふと、なんの前触れもなく、その考えが湧いてきた。
「……私、どうして待っているのかしら」
声に出してみると、ずいぶん間の抜けた響きに聞こえた。
決まっている。
父が待てと言ったから。
でも、お父様は私より姉様を選んで行ったわ。
必ず迎えに来ると言ったから。
八時間後に。
日が暮れてから。
この寒さの中で?
自分の足元を見た。
ここに八時間いる必要が、そもそもある?
ブックマーク、★★★★★、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ





