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第7話 クロイツェルの欺瞞と絶対値の箱

「……真澄さん。

例の仮説についてですが、少しずつ実証データが集まってきました」


極寒のロシア・サンクトペテルブルク。

ネヴァ川の凍てつく水面を見下ろす豪奢なホテルの自室で、神野太陽は右耳の通信デバイスを通じて、無限の記憶の深淵にいる深海真澄と対話していた。


太陽の手のひらには、彼のEgo Cubeが浮かんでいる。

前作のライブ・セッションを可能にした「新世代(ネットワーク接続型)」ではなく、太陽自身が初期から持つ「旧世代」のモデルだ。

しかし、その輝きはかつての純粋な黄金色ではなく、底面の中心部に底知れぬ黒い芯(マイナスの自己一致の業)を宿していた。


『マイナスの自己一致率の数値化、及び「絶対値」への変換プロセスだな』


真澄の落ち着いた声が響く。


『これまでのキャリア理論では、プラスの自己一致(正の感情への納得)のみを良しとしてきた。

しかし、君は今、奈落で吸い上げたマイナスの自己一致(絶望や狂気)を、自らのEgo Cube内で処理しようとしている。

……危険な賭けだぞ、太陽くん』


「分かっています。

ですが、これが成功すれば、Ego Cubeの概念そのものが進化する」


太陽は、自らのCubeを注視した。


「マイナスをマイナスのまま抱えれば、人は精神を破壊される。

しかし、マイナスの波形を数値化し、『絶対値』に変換することができればどうなるか。

……水平方向(他者との繋がりや広がり)の絶対値と、垂直方向(個人の精神の深さや思索)の絶対値。

全方向の正と負を、絶対的なエネルギーとして受け入れられるようになる」


つまり、絶望や狂気を「人間の深み」として完全に内包し、精神のキャパシティそのものを三次元的に拡張するということだ。


新世代のEgo Cubeが、

「他者とネットワークで繋がり、負を分散・浄化する」

という水平方向の進化を遂げたのに対し、

旧世代の独立したCubeだからこそ可能な、

「個人の内宇宙を無限に拡張する」

という垂直方向への進化。


『君自身を実験体にして、その限界を検証しようというのだな。

……いいだろう。

だが、変換処理に失敗すれば、君の自我は完全にマイナスの引力に押し潰され、二度と表の世界(明日美の元)へは戻れなくなる』


「そのリスクを受け入れなければ、事象の地平面は観測できません」


太陽は静かに笑い、通信を切った。

不安がないと言えば嘘になる。

巡礼を重ねるごとに、自分の内側に溜まっていく「闇」の濃度は、明らかに正気を蝕みつつあった。

だが、堕ちるところまで堕ちなければ見えない景色がある。

太陽は、凍るような窓の外に視線を向け、今夜の巡礼の地へと向かう準備を始めた。


サンクトペテルブルクの歴史的建造物、「マリインスキー劇場」。

帝政ロシア時代の華麗なる貴族文化の象徴であり、同時に、数え切れないほどの陰謀、暗殺、そして偽りの愛「欺瞞ぎまん」が渦巻いた場所でもある。


開演前の誰もいない豪奢なステージで、葛城美音と奏音の姉妹が音合わせを行っていた。

ピアノとヴァイオリンの緊迫した掛け合いが、冷たい劇場の空気を切り裂く。


「今日のテーマは『妄語もうご』……つまり、嘘と欺瞞よ」


美音が、鍵盤から手を離さずに太陽に語りかける。

彼女の纏う漆黒のドレスは、ロシアの凍てつく夜の闇よりも深い。


「私たちが弾くのは、ベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ第9番』、通称『クロイツェル』。

……後に、文豪トルストイがこの曲を題材に、妻の不貞と嫉妬、そして偽りの愛を描いた同名の小説を書いたことで、この曲には『狂気的な嫉妬と欺瞞』というイメージが呪いのように張り付いてしまったわ」


奏音が、ヴァイオリンの弓をスッと下ろし、艶やかな笑みを浮かべた。


「第一楽章の、ヴァイオリンとピアノが互いを出し抜こうとするような激しいダイアローグ。

愛しているふりをして、心の中では相手を支配し、騙そうとしている……。

サンクトペテルブルクの貴族たちが仮面の下に隠していた『嘘』の波形と、完璧にシンクロするはずよ」


「……嘘、か」


太陽は呟いた。

八大地獄の第五層、【大叫喚だいきょうかん地獄】。

殺生・偸盗・邪淫・飲酒に加え、自らを偽り、他者を騙し続けた者が堕ちる地獄。

真澄の事前情報によれば、そこでは熱く焼けた鉄のはさみで亡者たちの「舌」が引き抜かれ、嘘をついた口を永遠に焼かれるという。


「太陽。

今日のあなたは、少し様子が違うわね」


美音が、演奏の手を止めて太陽を見つめた。

彼女の『奏』のEgo Cubeが、太陽の内側に渦巻く危険な実験の兆候を鋭く感じ取っていた。


「……少し、Ego Cubeの運用方法を変える実験をする。

マイナスの感情を、僕の中で絶対値に変換するんだ」


「絶対値?

ふふっ、よく分からないけれど……要するに、もっと深く、もっと重い闇を抱え込んで帰ってくるってことね?」


美音は舌なめずりをするように赤い唇を歪め、奏音と顔を見合わせた。


「楽しみだわ、太陽さん。

あなたがどこまで壊れずにいられるか」


奏音の瞳にも、魔女としての妖しい期待が燃えている。


「開演よ。

行ってらっしゃい、私たちの可愛い巡礼者さん」


美音の合図と共に、クロイツェル・ソナタの情熱的で、どこか狂気を孕んだ和音が叩きつけられた。

劇場の重厚な木の床が、ロシアの永久凍土の如く白く凍りつき、やがてその中心がパキリと割れて、どす黒い漆黒のクレバスが口を開けた。


太陽は、ためらうことなくその奈落の裂け目へと身を投げた。


氷点下の落下。

着地した瞬間、太陽の鼓膜を破らんばかりの、凄まじい悲鳴が叩きつけられた。


第四層の叫喚地獄を遥かに凌ぐ、まさに「大叫喚」の渦。


「グアァァァッ!!

アガァァッ!!」


そこは、見渡す限りの荒涼とした焼け野原だった。

空からは氷の雨が降り注いでいるのに、地面からはマグマのような炎が噴き出している。

そして、その炎の中で、何万という亡者たちが仰向けに縛り付けられていた。


彼らの顔には、巨大な「焼け焦げた鉄の鋏」が食い込んでいる。

見えざる鬼の手が、その鋏で亡者たちの口から「舌」を根元から引き抜き、炎の雨の中へ放り投げているのだ。

引き抜かれても、舌はすぐに再生し、再び鉄の鋏に挟まれて引き抜かれる。


「……ッ、これが……大叫喚地獄の業……」


『そうだ、太陽くん』


真澄の声が、氷の雨のノイズに混じって届く。


『彼らは、嘘をつき、人を騙し、そして何より「自分自身に嘘をつき続けた」者たちだ。

愛していないのに愛していると言い、絶望しているのに幸福なふりをした。

……その自己欺瞞が極限に達し、「嘘をついている自分こそが本当の自分だ」とマイナスの自己一致を果たしてしまった魂たちだ』


「ガァァッ……!

違ウ、俺ハ騙シテナイ……!

アレハ正当ナ取引ダッタ……!」


「私ハ愛サレテイタ……!

嘘ジャナイ、アノ人ハ私ダケヲ見テイタノヨォォッ!」


舌を抜かれながらも、亡者たちはなおも「嘘」を叫び続けていた。

真実を直視するよりも、嘘の幻影の中で罰を受け続ける方がマシだという、究極の現実逃避と欺瞞。

その強烈な「嘘の業」が、空気感染するように太陽のEgo Cubeへとまとわりついてきた。


(……お前も、嘘つきだろう?)


亡者たちの声が、太陽の脳内に直接響く。


(明日美を愛していると言いながら、葛城姉妹の毒に溺れているじゃないか。

世界を救うふりをして、本当は深い闇に堕ちる快楽に酔っているんだろう?)


「……違うッ!」


太陽は叫び、黄金の重力を展開しようとした。

だが、大叫喚地獄の亡者たちが放つ「欺瞞の波形」は、太陽の重力波のベクトルを狂わせ、反転させていく。

太陽の視界が歪み、足元の炎が急激に冷たく感じられ、降ってくる氷が熱く感じられるようになる。

感覚のすべてが「嘘」に書き換えられていく。


(……このままでは、精神が崩壊する……!)


太陽は、歯を食いしばり、Ego Cubeの制御を切り替えた。

亡者たちから浴びせられるマイナスの波形。「自己欺瞞」「裏切り」「罪悪感」。

これを弾き返すのではなく、自らのCubeの深部へと引きずり込む。

そして、マイナスの数値を「絶対値(プラスのエネルギー量)」へと強制的に変換するプロセスを開始した。


「ガァァァッ……!!」


太陽の口から、絶叫が漏れた。


マイナスを絶対値に変換するということは、心の中の「猛毒」を無理やり「栄養」として消化器官に叩き込むようなものだ。

魂の髄まで焼かれるような激痛が、太陽の全身を駆け巡る。


彼のEgo Cubeの中で、激しい変化が起きていた。

水平方向(広がり)の軸に、クロイツェル・ソナタの「他者を欺く冷徹なダイアローグ」のエネルギーが展開される。

垂直方向(深さ)の軸に、亡者たちの「自己欺瞞の果ての絶望」の重さが、絶対的な質量として蓄積されていく。


(……もっとだ。もっと深く……!

嘘も、欺瞞も、人間の業の深さとして……全て僕の重力にしてやる……!)


太陽のCubeが、黄金色から漆黒へと反転し、その漆黒の中から、宇宙空間の星雲のような「底知れぬ多次元の光」を放ち始めた。

全方向の正と負を受け入れ、人間の感情のすべてを許容する、進化したEgo Cubeの胎動。

だが、それに伴う精神負荷は、人間のキャパシティをとうに超えていた。

太陽の目から血の涙がこぼれ落ち、意識の座標が完全に消失しかける。


「……僕は……誰だ……?

何のために、ここに……」


『太陽くん!

限界だ、帰還しろ!

これ以上絶対値の変換を続ければ、君の自我は完全に特異点に押し潰される!』


真澄の緊迫した怒号が響く。

同時に、頭上から降り注ぐクロイツェル・ソナタが、狂気的なプレスト(急速調)のフィナーレを迎えようとしていた。

ヴァイオリンの弓が引きちぎれんばかりの絶叫と、ピアノの鍵盤を叩き割るような打鍵。

美音と奏音の音楽が、太陽の魂に巻き付き、強引に上空のクレバスへと引きずり上げる。


「……あ、あぁぁぁッ……!!」


太陽は、絶対値へと変換された超高密度の「闇の重力」を抱えたまま、漆黒のゲートへと射出された。


ドスゥンッ!!


マリインスキー劇場のステージ裏。

冷たい板張りの床に叩きつけられた太陽は、ピクリとも動かなかった。

彼の身体からは、氷のような冷気と、火傷しそうなほどの熱気が同時に発せられている。

胸元で浮かぶ進化したEgo Cubeは、黄金と漆黒が複雑に絡み合った、恐ろしいほどの密度を持った「特異点」そのものになっていた。


「……太陽さん!」


奏音がいち早く駆け寄り、太陽を抱き起こした。

だが、太陽の目はうつろで焦点が合っていない。


「嘘だ……全部、嘘だ……。

僕は……」


太陽の口から、大叫喚地獄の亡者のような、自己欺瞞の譫言うわごとが漏れる。

絶対値への変換の負荷で、彼の自我は崩壊寸前だった。


「ひどい……。

今回の業、今までと全然違う……!

重すぎて、私一人じゃ触れただけで狂ってしまいそう……ッ!」


奏音は、太陽から発せられる圧倒的な「深み(負の絶対値)」に恐怖し、後ずさりしそうになった。


「逃げちゃだめよ、奏音」


美音が、静かに歩み寄ってきた。

彼女の目は、壊れかけた太陽の姿を見て、かつてないほどの妖艶な歓喜に打ち震えていた。


「素晴らしいわ、太陽……。

あなたは本当に、人間の限界を超えようとしているのね。

……こんなにも深く、重く、恐ろしい魂。

……私たちが残さず味わい尽くしてあげる」


美音は、太陽の頭を自らの豊かな胸に抱き寄せた。


「奏音。

今日は、徹底的にやるわよ。

彼の中に蓄積された『負の絶対値』を、私たちの身体と音楽で限界まで吸い上げて、中和するの。

……彼が、現実(こちら側)に戻ってこられなくなる前にね」


「……わかったわ、お姉ちゃん」


奏音も覚悟を決め、太陽の背中にしがみついた。

美音の赤い唇が、太陽の血の滲む唇を深く塞ぐ。

奏音の白く熱い肌が、太陽の凍てつく身体に密着する。


「んぅっ……!

ぁぁっ……、すごい……。

太陽さんの中の、嘘も狂気も……全部、美味しすぎる……ッ!」


美音のEgo Cube『奏』と、奏音の『響』のEgo Cubeが、太陽の放つ異常なエネルギーを吸い上げ、激しく明滅する。

太陽は、二人の魔女が与える甘くも暴力的な快感の中で、意識の糸をギリギリのところで繋ぎ止めていた。


(……ああ。

……僕は今、彼女たちのこの『毒の抱擁』がなければ、完全に自我が消滅していた……)


絶対値へと変換された人間の業は、太陽に神のごとき深みを与えつつあったが、それは同時に、彼を単独では存在し得ない「欠落した化け物」へと変えつつあった。

葛城姉妹による過酷な中和の儀式がなければ、彼は光の世界(明日美)の元へは帰れない。


自分がどこまで堕ちていくのか。

果たして、最下層である第八層「無間地獄」に辿り着いた時、自分は人間の形を保っていられるのか。

強烈な不安と、それすらも凌駕する「深淵への探求心」が、太陽の理性を確実に狂わせていた。


『……第五層、波形回収と絶対値変換の成功を確認。

……太陽くん、君は本当に、開けてはならないパンドラの箱を開けつつあるようだ』


通信の向こうで、真澄の声が、わずかな畏怖を込めて響いていた。

無間への巡礼は、いよいよ後半戦。

より深く、より濃密な絶望が、太陽と二人の魔女を待ち受けている。

彼らの背徳的な共犯関係は、もはや引き返すことのできない「呪縛」として完成しようとしていた。

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