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第8話 スクリャービンの神秘と、軋む魂の調律

サンクトペテルブルクでの過酷な「大叫喚地獄」の観測を終えた翌日。

太陽と葛城姉妹は、特急列車「レインボーアロー」に揺られ、ロシアの首都モスクワへと到着していた。


広場を一望できる、歴史あるメトロポール・ホテルの最高級スイートルーム。

分厚いカーテンの向こうでしんしんと雪が降り積もる中、部屋の暖炉の炎が、アンティークの調度品を赤く照らしている。

その部屋の中央にあるキングサイズのベッドで、神野太陽は荒い息を吐きながら身悶えしていた。


「……くっ、あぁ……ッ」


太陽の胸元に浮かぶ旧世代のEgo Cubeは、黄金と漆黒が混ざり合い、ひび割れたガラスのように不規則な明滅を繰り返している。

時折、ピキリ……と、物理的な亀裂が入るような不気味な音が部屋に響いた。


「太陽さん、熱が全然下がらない……。

Cubeの回転軸が、完全に狂っているわ」


ベッドの傍らで、葛城奏音が心配そうに太陽の額の汗を拭う。

彼女の透明からガーネット色へと変貌を遂げたEgo Cube「響」が、太陽の異常な波形に当てられて微かに共鳴音を立てている。


「当然よ。

マイナスの感情を『絶対値』に変換して、無理やり自分の中に押し込めたんだもの」


部屋の片隅に置かれたグランドピアノの前に座り、葛城美音が冷ややかな、しかしどこか楽しげな声で言った。


「小さなコップに大量の海水を注ぎ込むようなものよ。

器の構造そのものを造り変えない限り、遠からず彼の精神はその質量に耐えきれずに溢れ出て破綻するわ」


「……美音の言う、通りだ」


太陽は、軋む体を無理やり起こし、壁に背を預けた。

彼の視界は未だに定まらず、大叫喚地獄で浴びた「自己欺瞞のノイズ」と、変換された「絶対値の質量」が、頭蓋骨の内側からハンマーで叩き回っているような状態だった。


「水平方向(他者との繋がり)と、垂直方向(個人の深淵)。

全方向の正と負を受け入れるためには、単純な立方体キューブの構造論では限界が来ている。

……相反する光と闇のエネルギーが、僕の内で激突し続けて、うまく『同居』できていないんだ」


『その通りだ、太陽くん』


部屋のコンソールを通じて、日本のオメガ本部にいる深海真澄から通信が入る。


『今の君のEgo Cubeは、プラスの引力とマイナスの引力が互いを破壊し合っている状態だ。

絶対値への変換という処理工程には成功したが、それを保持し、循環させるための「新しい概念フレームワーク」が足りていない』


「新しい概念……。

相反するものを、破綻させずに調和させる構造……」


太陽は、血の滲む唇を噛み締めた。

明日美のような、全てを浄化して還す海の力は、今の太陽には使えない。

彼はその闇を消すのではなく、自らの「重力の一部」として持ち続けなければならないのだ。


「なら、音楽の歴史に答えを求めましょうか」


美音が、ふわりと立ち上がり、ベッドの太陽の元へと歩み寄ってきた。


「相反する光と闇、恍惚と絶望。

それを決してどちらかに解決させることなく、極限の緊張状態のまま『ひとつの宇宙』として成立させた異端の天才が、このモスクワにはいたわ」


美音は、太陽の隣に腰を下ろし、彼の熱い頬を両手で包み込んだ。


「アレクサンドル・スクリャービン。

……19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したロシアの作曲家であり、自分自身を世界を救済する救世主メシアだと信じて疑わなかった、恐るべき誇大妄想狂よ」


「スクリャービン……」


太陽は、その名前に聞き覚えがあった。

音楽史において、あまりにも特異な位置を占める人物だ。


「ええ。

彼は『神秘主義』に傾倒し、音楽と哲学、そして色彩や香りを融合させて、人類をより高次元の存在へと進化させようとした」


奏音が、姉の言葉を引き継ぐように、傍らに置いたヴァイオリンの弦を指で弾いた。


「彼は、ヒマラヤ山脈の頂上で『ミステリウム(神秘劇)』という巨大な儀式を構想していたの。

人類の歴史を終わらせ、全ての魂を光と闇の彼方で『統合』させるための最終計画」


「世界を終わらせ、統合する音楽……かつてオメガがやろうとしていたことと似ている……」


太陽の脳裏に、深海源が企てていた「全人類の自我の中央集権化」の記憶がよぎる。


「スクリャービンは、その宇宙的な思想を表現するために、従来のクラシック音楽の『調性(ドレミファソラシドの規則)』を完全に破壊したの」


美音は、太陽の胸元で明滅するEgo Cubeを指先でなぞりながら囁く。


「これまでの音楽は、『不協和音(緊張)』が生まれれば、必ず『協和音(安心)』へと解決する(戻る)のがルールだった。

光と影、善と悪のようにね。

でも、スクリャービンは全く新しい和音を発明した。

……それが『神秘和音(プロメテウス和音)』よ」


美音が指を鳴らすと、奏音がヴァイオリンで特殊な重音を響かせ、美音がピアノの低音を左手で叩いた。


ファ、シ、レ#、ソ#、ド#、ファ#。


部屋の空気が、一瞬で歪んだ。

それは、心地よい響き(協和)ではない。

かといって、耳を塞ぎたくなるような不快なノイズ(不協和)でもない。

まるで宇宙空間に放り出されたような、重力も方向も分からない、永遠に解決しない「浮遊感」と「緊張感」を内包した、奇妙に完成された響きだった。


「……これが、神秘和音」


太陽は、その響きが自身の体内で暴れ回る「絶対値の闇」と、奇妙なほどリンクしているのを感じ取った。


「そう。

不協和音を、解決させないまま『自立したひとつの和音』として扱ったのよ」


美音の瞳が、妖しい知の光を放つ。


「今のあなたに必要なのは、これよ、太陽。

自分の中のマイナスを、プラスで中和しようとするから破綻する。

……相反する二つの力を、決して交わらせず、かといって分離もさせず、極限の緊張状態のまま『新しい幾何学』として固定するの」


「……理屈は分かる。

だが、どうやってその『神秘和音』の概念を、僕のEgo Cubeにインストール(入力)すればいい?」


太陽の問いに、葛城姉妹は顔を見合わせ、蠱惑的こわくてきな笑みを浮かべた。


「私たちが、あなたの魂の構造を『調律チューニング』して書き換えてあげる」


美音は立ち上がり、再びピアノの前に座った。


「スクリャービンが到達した狂気の極致。

『ピアノ・ソナタ第9番』……通称『黒ミサ』。

光を求めるあまり、悪魔的な暗黒の淵へと到達してしまった、美しくも禍々しい曲よ」


奏音もまた、ヴァイオリンを構え、太陽のベッドの足元に立った。


「太陽さん、目を閉じて。

……私たちの音の『波形』を、あなたのEgo Cubeの回転軸に合わせて。

あなたが抱え込んだ絶対値の闇を、私たちが新しい設計図スコアに嵌め込んであげる」


ピアノの、忍び寄るような不気味な半音階のメロディが静かに始まった。

まるで毒蛇が這い回るような、不吉で、しかし抗い難い誘惑を持った旋律。

そこに奏音のヴァイオリンが、神経を逆撫でするような高音のフラジオレット(倍音)で重なる。


「……ぐ、ぅぅッ……!」


太陽は、ベッドのシーツを固く握りしめた。

音楽が耳から脳へ、そして胸元のEgo Cubeへと直接干渉してくる。

それは、地獄での強引な中和とは違う。

太陽の精神の根幹を、解体し、再構築していくような緻密で恐ろしい外科手術だった。


(……光と、闇。

……協和と、不協和……)


太陽の内側で暴れていた大叫喚地獄の「自己欺瞞の業」と、彼が本来持っている「ガイアを護るための重力」。

二つの相反する巨大なエネルギーが、美音と奏音の奏でる『黒ミサ』の旋律によって、無理やり一つの空間に押し込められていく。


「拒絶しないで、太陽。

その狂気を、あなたの一部として許容するの」


ピアノを弾きながら、美音が艶やかな声で囁く。


「そうよ、太陽さん。

あなたが悪魔を抱え込むなら、私たちがその悪魔の周りを踊ってあげる……!」


奏音のヴァイオリンが、曲のクライマックスである暴力的な和音の連打へと突入する。


「ガァァァッ……!!」


太陽の体から、黄金と漆黒のオーラが爆発的に噴き出した。

Ego Cubeの形が、立方体から一瞬ドロドロの液体のように崩れ、次元の狭間で激しく振動を始める。

限界を超えたエネルギーの奔流に、部屋の窓ガラスにピキピキとヒビが入り、暖炉の炎が青白く変色した。



「……今よ、奏音!」


美音が鍵盤から手を離し、太陽の元へ滑り込むように駆け寄った。

彼女は太陽の上に馬乗りになり、その震える唇を、自らの唇で強引に塞いだ。


「んぅっ……!

太陽、あなたのエゴの軸……私が固定してあげる……っ!」


美音の舌が太陽の口内に侵入し、彼の中に渦巻く巨大なエネルギーの「回転」に、直接的な物理のベクトル(引力)を与える。

同時に、奏音がヴァイオリンを置き、太陽の背中に背後から抱きついた。


「太陽さん……っ!

私の『響』で、あなたの波形を共鳴させるわ……っ!」


奏音の熱い肌が太陽の背中に密着し、彼女の鼓動が、太陽の荒れ狂う心拍数と完全に同調していく。

前(美音の毒)と、後ろ(奏音の熱)。

二人の魔女に挟まれ、太陽の意識は宇宙空間の果てに放り出されたような極限の浮遊感に包まれた。


(……これが、神秘和音……)


相反するものが、決して交わらず、打ち消し合いもせず。

ただ、そこに「在る」という圧倒的な肯定感。

美音の香水と、奏音の汗の匂い。

二人の女性の柔らかい感触と、悪魔的な音楽の残響。

それらすべてが、太陽の精神のキャパシティを無限に拡張していく。


自分の中にあるどす黒い「絶対値のマイナス」が、もはや異物ではなく、自分という宇宙を構成するための必要不可欠な「重力源ブラックホール」として、完全に定位置に収まっていくのを感じた。


「……あ、あぁぁ……ッ!!」


太陽の体内で、全てが「カチリ」と音を立てて噛み合った。

モスクワの夜が、静寂を取り戻す。

ひび割れた窓ガラスの向こうで、雪は変わらず降り続いていた。


乱れたベッドの上で、太陽はゆっくりと目を開けた。

先ほどまでの地獄のような苦痛と熱は嘘のように消え去り、代わりに、氷のように冷たく、宇宙のように深い、底知れぬ静寂が彼を満たしていた。


「……調律は、成功したみたいね」


太陽の腕の中で、美音が汗ばんだ前髪をかき上げながら、妖艶な笑みを浮かべた。

背中には、疲れ果てて眠りに落ちた奏音の規則正しい寝息が感じられる。


太陽は、自らの胸元に浮かぶEgo Cubeを見下ろした。

それは、もはや単なる立方体キューブではなかった。

黄金のフレームで形作られた多面体(テッセラクト=四次元超立方体)の中心に、光を吸い込むような漆黒の球体(特異点)が、完璧な均衡を保って浮遊し、回転している。


光と闇が、極限の緊張状態のまま同居する「神秘和音」の幾何学化。


『……信じられん』


通信の向こうで、一部始終を観測していた真澄が、感嘆の息を漏らした。


『マイナスの自己一致の絶対値を、完全に己の構造の中に組み込んだか。

……水平と垂直、光と闇。

全方向のエネルギーを許容する、進化したEgo Cube。

……太陽くん、今の君はもはや、神に近い領域に足を踏み入れているぞ』


「神ではありませんよ、真澄さん」


太陽は、美音の肩を優しく抱き寄せながら、低く、しかしこれまでにないほどの揺るぎない声で答えた。


「僕は、ただの人間です。

光を求め、闇に溺れ、矛盾を抱えたまま世界を支える……ただの重力エゴだ」


太陽の瞳の奥には、明日美の「青い海」への絶対的な愛と、葛城姉妹という「魔女の毒」への狂気的な依存が、全く矛盾することなく、恐ろしいほどの調和を見せて共存していた。


「……さあ、少し休んだら、次へ行きましょう」


美音が、太陽の胸に頬をすり寄せながら囁く。


「次は第六層。

焦熱しょうねつ地獄】。

……私たちの調律がどこまで通用するか、試してみたくてウズウズするわ」


Ego Cubeの進化を果たし、精神のキャパシティを限界まで拡張した太陽。

だが、無間地獄への階段は、さらに過酷な炎をもって彼らを待ち受けている。

完成された「神秘和音」の魂を胸に、太陽は静かに、次なる奈落への覚悟を固めた。

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