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第6話 幻想のプラハと叫喚の坩堝

「正しさ」とは、時に残酷な光だ。

チェコ・プラハ。

ヴルタヴァ川(モルダウ川)に架かるカレル橋の上で、神野太陽は濃い霧に包まれた中世の街並みを見つめながら、自身の内側で渦巻く思考の海に沈んでいた。


かつて、太陽と明日美が世界に提示した「ガイア理論」の光。

人々が自らのトラウマや弱さを受容し、前を向いて生きるためのシステム。

それは間違いなく世界を救った。

太陽自身も、明日美という絶対的な「海(光)」のそばにいる時、自分自身の存在が肯定されているという圧倒的な幸福を感じていた。


だが、無間への巡礼を重ねるうちに、太陽は思い知らされていた。


「前を向きたくない者」

にとって、明日美の放つ無償の愛や、太陽が与えようとする希望は、目を焼き尽くすほどの劇薬であり、暴力でしかないのだと。


太陽のキャリア理論では、プラスの自己一致を、

『自分の意思と他者のためという感情を持つことに納得している状態』と定義している。


(……マイナスの自己一致。

それは、

『自分の欲ため他者を犠牲にすることに納得している状態』のこと)


暗闇の中で泥水を啜り、その泥こそが甘露だと信じ切っている者に、「外の世界には綺麗な水がある」と無理やり引きずり出すことは、果たして救済なのだろうか。

彼らは地獄の苦しみの中で、自らを罰し、狂気に身を委ねることで、ようやく自分自身の輪郭アイデンティティを保っているのだ。


「……僕の重力は、まだ軽すぎる」


太陽は、自らの手の中で明滅する黄金のEgo Cubeを見つめた。

光を当てて影を消そうとするから、反発が生まれる。

本当に世界のバランス(事象の地平面の裏側)を観測し、支えるためには、彼らの「破滅したいという重さ」すらも、否定せずにそのまま内包できるほどの、圧倒的で絶対的な『重力エゴ』が必要なのだ。


「……ずいぶんと、深い顔をしているのね」


霧の中から、二つの足音が近づいてきた。

漆黒のコートを羽織った葛城美音と、同じく深い真紅のコートを着た葛城奏音の姉妹だった。


「お姉ちゃんの言う通りだわ。

太陽さん、どんどん『こちら側』の顔になっている」


奏音が、悪戯っぽく微笑みながら太陽の顔を覗き込む。

前回のウィーンでの洗礼を経て、彼女の瞳からは未熟な焦燥感が消え失せ、代わりに人を魅了してやまない「魔女」としての凄みが宿っていた。


「……プラハの街は、どうだい」


太陽が問いかけると、美音は妖しく目を細めた。


「錬金術師と黒魔術、そしてゴーレム伝説の街。

……現実の重みから逃れるために、人々が古くから『狂気と幻覚』に救いを求めてきた場所よ。

今日のテーマにはうってつけだわ」


夜。プラハ最古の劇場である「エステート劇場・スタヴォフスケー劇場」。

モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』が初演されたことでも知られるこの歴史的な空間で、美音と奏音のリハーサルが行われていた。


「今日のゲートを開くのは、エクトル・ベルリオーズの『幻想交響曲』。

その最終楽章、『魔女の祝日への夢』よ」


ピアノの椅子に座りながら、美音が太陽に向かって解説する。


「ベルリオーズ自身が、叶わぬ恋の絶望から阿片あへんを飲み、その幻覚の中で見た恐ろしい情景を音楽にしたもの。

……主人公は、自分が殺され、魔女たちのサバトに引きずり込まれる幻を見るのよ」


「阿片……。

薬物による幻覚と、逃避か」


太陽の右耳のデバイスから、オメガ本部で観測を続ける深海真澄の声が届いた。


『その通りだ、太陽くん。

第四層【叫喚きょうかん地獄】。

そこは殺生・偸盗・邪淫に加え、「飲酒」……すなわち、薬物や酒、あるいは妄言によって理性を放棄し、狂気と幻覚に逃げ込んだ者が堕ちる地獄だ』


真澄の声は冷徹だ。


『亡者たちは、煮えたぎる毒の釜に入れられ、口を開けられて無理やり熱湯や毒薬を流し込まれる。

そのあまりの苦痛に、彼らは泣き叫び、絶望の声を上げるのだ。

……だが、彼らは決してその毒を飲むことをやめない』


「毒を飲むことを、やめない……?」


「そうよ。

だって、現実はもっと辛いんだもの」


奏音が、ヴァイオリンの弓を滑らせながら、冷酷なまでに美しい声で言った。


「毒を飲んで狂っている間だけ、彼らは現実の痛みから逃れられる。

だから、焼かれると分かっていても、幻覚を求めて叫び声を上げるの」


美音が、ピアノの鍵盤に両手を乗せた。


「私たちの音楽で、その狂気のサバト(祝日)をプラハの地下に呼び覚ましてあげる。

……気をつけてね、太陽。

今回は、あなた自身の『正気』が試されるわ」


不気味な低音のトリルと、奇妙に歪んだヴァイオリンのグリッサンドが劇場に響き渡る。


『幻想交響曲』の魔女の宴。

グレゴリオ聖歌の「怒りの日」の旋律が、おどろおどろしい変奏となって空間を捻じ曲げていく。

劇場の床下、石畳の隙間から、ブクブクと緑色に発光する「毒の気化ガス」が噴き出し始めた。


事象の地平面のゲートが開いたのだ。


「……行ってくる」


太陽は、濃密な狂気のガスが渦巻く奈落の底へ、その身を投じた。


落ちた先は、むせ返るようなアルコールと、阿片の甘ったるい煙が充満する、巨大な「坩堝るつぼ」の中だった。


「アァァァァッ!!

ギャアアアアッ!!」


鼓膜を破らんばかりの、無数の絶叫。

見渡す限り、煮えたぎる緑色の毒の沼が広がっており、その中で何万という亡者たちが、皮膚を爛れさせながらもがき苦しんでいた。

だが、彼らは沼から這い出ようとはしない。

それどころか、両手でその熱い毒の泥を掬い上げ、自らの口へと無理やり流し込んでいるのだ。


「飲マセロ……!

モット、俺ノ頭ヲ狂ワセテクレ……ッ!」


「現実ナンカ見タクナイ……!

シラフニ戻レバ、アイツラニ笑ワレル……!

薬ヲ、酒ヲクレェェッ!!」


彼らは内臓を焼き焦がす激痛に「叫喚きょうかん」しながらも、幻覚という名の安息を求めて、自ら進んで毒を貪り続けている。

あまりの狂気的な光景に、太陽の胸の奥で、猛烈な吐き気が込み上げた。


(……これが、現実から目を背けた者の、究極のマイナスの自己一致……!)


『太陽くん、気をしっかり持て!

そのガスの成分は、君のEgo Cubeを通じて精神を直接「酩酊めいてい」させる!』


真澄の通信がノイズで途切れがちになる。

すでに太陽の視界は、毒の煙によって歪み始めていた。

目の前の亡者たちが、笑っているのか泣いているのかすら分からない。


「……やめろ!

もう、飲むな!」


太陽は反射的に、彼らを助けようと黄金の重力波を展開した。

毒の沼の成分を分離させ、彼らを無理やり現実へ引き戻そうとする『正しさの光(浄化)』。

だが、その光が亡者たちに触れた瞬間。


「ヒィィッ!?

ヤメロ……ッ!!

ソノ光ハ、俺タチヲ殺ス気カァッ!!」


亡者たちは、太陽の放つ黄金の光に触れて、さらなる絶叫を上げた。

彼らにとって、シラフに戻されること(現実の絶望を直視させられること)は、毒の沼で焼かれることよりも何万倍も恐ろしい「暴力」だったのだ。


「……ッ!」


太陽の重力波が、亡者たちの強烈な「拒絶」に跳ね返され、逆流してくる。


『見たくない』

『狂わせてくれ』

『正しい光なんて消え失せろ』。


強烈な現実逃避の念が、緑色のヘドロとなって太陽の黄金のEgo Cubeにべったりとこびりついた。


(……ああ。

……そうか)


太陽は、毒のガスの中で、意識が遠のきながらも、一つの真理に辿り着いていた。

僕は今まで、無意識のうちに彼らを「救おう」とか「変えよう」としていた。

だから反発される。

だから業がこびりつくのだ。

光(正しさ)の暴力で彼らの影を消し去るのではなく、彼らが「狂っていたい」と願うその絶望の重さを、そのまま受け止めなければならない。


「……なら、僕の重力を、お前たちの絶望よりも重くするまでだ……!」


太陽は、目をカッと見開いた。

彼は、己のEgo Cubeの回転を反転させた。

光を放つのではなく、周囲の「毒」と「狂気」を、あえて自らの内側へと引き込み始めたのだ。


「来い……!

お前たちが現実から逃げたいと願うその業、全部僕が飲み込んでやる……ッ!」


太陽の黄金のCubeが、緑と黒の混ざった毒の色に染まっていく。

自らマイナスの自己一致を内包するということは、自分自身が狂気の淵へ足を踏み入れる自殺行為に等しい。

頭の中で、千の鐘が鳴り響き、視界がぐるぐると回転する。

自分の名前すらも溶けてなくなりそうな、圧倒的な酩酊めいていと幻覚。


(……いいんじゃないか。

もう、このままここで、何もかも忘れてしまえば……。

明日美のことも、世界のことも……)


太陽の意識が、甘い毒の泥にズブズブと沈みかけていく。

光だけでは到底耐えられない闇。

一人では、絶対に帰ってこられない領域。


その時だった。


太陽の薄れゆく意識の底に、鋭いヴァイオリンの切り裂くような高音と、ピアノの狂気的な乱打が突き刺さった。


『……目を覚ましなさい、太陽!

私たちの演奏サバトの中で、勝手に別の幻覚を見るなんて許さないわよ!』


美音の、傲慢で強烈な思念。


『帰ってきて、太陽さん!

あなたのその重くて汚い業は、私たちが食べるんだから!』


奏音の、切実で妖艶な叫び。

音楽が、物理的な「引力」を持った鎖となって、泥に沈みかけた太陽の魂に巻きついた。

『幻想交響曲』の最終盤。

魔女たちが狂乱の踊りを繰り広げるクライマックスの旋律。


「……あ、あぁ……ッ!!」


太陽は、毒の泥の中から力強く腕を突き出した。

彼が内に秘めた「業」の重さは、かつてないほどに増大していた。

だが、その超重力の塊を、現実世界から繋がる二人の「魔女の音楽」が、強引に引っ張り上げる。


光(明日美)の元へ帰るためではない。

闇(葛城姉妹)と交わり、この狂気を完成させるために、太陽は自らの意志で事象の地平面を蹴り破った。


「……ガハッ……!

ゲホッ、ハァッ……!!」


エステート劇場の地下。

冷たい石畳の上に吐き出された太陽は、全身から緑色の瘴気を立ち昇らせながら、床をのたうち回った。

頭を割られるような頭痛と、全身の血が逆流するような狂気の幻覚。

彼のEgo Cubeは、叫喚地獄の「妄言と酩酊の業」を限界まで吸い込み、今にも破裂しそうに脈打っている。


「……よく生きて帰ってきたわね、太陽」


荒い息を吐く太陽の前に、ヒールの音が近づいてきた。

演奏を終えたばかりの美音と奏音だ。

二人は、ステージの熱気と興奮をそのまま纏い、額に汗を滲ませながら床で苦しむ太陽を見下ろしていた。


「……美音……、奏音……」


太陽の視界は歪んでいた。

目の前にいる二人の女性が、本当にベルリオーズの曲から抜け出してきた恐ろしい魔女のように見える。


「太陽さん、すごく重い……。

あなたの体から溢れているその『狂気』、今までで一番魅力的だわ」


奏音が、床に膝をつき、恍惚とした表情で太陽の首筋に顔を埋めた。

彼女は、太陽から発せられる叫喚の業(アルコールと阿片の匂い)を胸いっぱいに吸い込み、身を震わせた。


「さあ、吐き出しなさい。

あなたが抱え込んだその絶望の重さを、私たちの芸術に昇華させてあげる」


美音が、シャツを乱暴に引きちぎり、彼の口に自らの赤い唇を押し当てた。


「んぅっ……!

ガッ……ァ……っ!」


美音の舌が、太陽の中に溜まった劇毒を容赦なく吸い上げていく。

同時に、奏音が太陽の胸元に自らの身体をこすりつけ、その透明からガーネット色に変わったEgo Cube『響』で、太陽の業を貪欲に吸収していく。


「あぁっ……!

お姉ちゃん、すごい……。

太陽さんの中の狂気が、私の中に流れ込んでくる……ッ!」


奏音は、痛みと快感の入り混じった悲鳴を上げながら、太陽の背中に深く爪を立てた。

太陽は、二人の魔女に肉体と魂を貪られながら、不思議な安堵感に包まれていた。

自分がどれだけ深く重い「業」を背負って帰ってきても、この姉妹は決して怯まない。

むしろ、その毒を喜び、彼女たちの音楽をさらに高次元へと引き上げるための「極上の餌」として食い尽くしてくれるのだ。


正しさだけでは、この世界は救えない。


明日美という「光の海」を守るためには、自分はこの葛城姉妹という「闇の坩堝るつぼ」に、定期的に身を投げ出して毒を抜かなければならない。

それは、絶対に表の世界には知られてはならない、狂おしくも完璧な共犯関係だった。


『……叫喚地獄の波形回収、完了した』


通信の向こうで、真澄が低く呟く。


『太陽くん。

君の重力は、確実に「事象の地平面」の裏側を許容できるほどに進化している。

……だが、同時に君自身の魂の形も、後戻りできないほどに変容していることを忘れるな』


真澄の言葉を証明するかのように、中和が終わった太陽のEgo Cubeは、もはや純粋な黄金色ではなく、その奥底に「決して消えない黒い芯」を宿すようになっていた。


「……分かっていますよ。

僕はもう、引き返すつもりはない」


太陽は、自分の腕の中で荒い息を吐く美音と奏音の身体を、力強く抱き寄せた。

八大地獄の第四層。

叫喚の狂気を受け入れたことで、太陽の思想はより深く、より重厚なものへと進化した。


だが、無間への巡礼は、まだ半分が終わったばかりだ。

残る四つの地獄は、さらに人間の根源的な恐怖と絶望を突きつけてくるだろう。

太陽は、二人の魔女の甘い毒の香りに包まれながら、次なる闇へと向かう決意を固くしていた。

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