第5話 ウィーンの残熱と、未完成の旋律
オーストリアの首都、ウィーン。
かつての城壁跡に造られた環状道路「リンク通り」沿いには、ハプスブルク帝国時代の壮麗な建築物が立ち並び、秋の柔らかな日差しを浴びて黄金色に輝いていた。
馬車の蹄の音が石畳に響き、通りを行き交う人々は皆、この街特有のゆったりとした優雅な時間を纏っている。
太陽は、そんな絵画のような街並みを、葛城奏音と共に歩いていた。
「……ウィーンって、本当に綺麗な街ですよね」
奏音は、少しだけ歩幅を太陽に合わせながら、ケルントナー通りに並ぶショーウィンドウを見つめて言った。
今日の彼女は、ステージでの緊張感のあるドレス姿とは違い、白いニットに柔らかいプリーツスカートという、年相応の清楚な装いだった。
「ああ。
歴史と芸術が、そのまま街の呼吸になっているみたいだ」
太陽が相槌を打つと、奏音は微かに目を伏せた。
「でも、綺麗すぎるんです。
……私、ずっとこの街の音楽を勉強してきたのに、昨日の夜まで、本当のウィーンを知らなかった気がします」
昨夜、国立歌劇場の地下で開かれた「衆合地獄」。
太陽の体から溢れ出した「邪淫の業」のおこぼれに触れた奏音は、クラシック音楽の美しい旋律の裏側に隠された、人間のドロドロとした欲望やエロスの実態を、脳髄に直接叩き込まれたのだ。
「……すまなかった、奏音。
君をあんな危険な目に遭わせるつもりはなかったんだ」
太陽は、足を止めて深く頭を下げた。
「違います、謝らないでください!」
奏音は慌てて太陽の方を向き、首を横に振った。
「私、あれから……自分のヴァイオリンの音が、全く違って聴こえるんです。
今まで楽譜通りに弾くだけの『死んだ音』だったのが、血が通ったというか……。
もっと、あの熱を知りたいって、思ってしまって」
奏音の頬が、ほんのりと赤く染まる。
その無防備で純粋な熱情を帯びた眼差しを見た瞬間。
ドクン、と。
太陽の心臓が不自然な脈打ちをし、下腹部の奥底で、昨夜中和されたはずの「赤黒い熱」が鎌首をもたげた。
(……くそっ。
まだ、抜けきっていなかったのか……)
衆合地獄で背負った「邪淫の業」。
美音との交わりによって鎮められたと思っていたが、それはあくまで一時的なものだったのだ。
ウィーンという街全体に漂う退廃的なロマンティシズムと、目の前にいる奏音の「未完成なエロス」が、太陽の理性を内側から削りにかかっていた。
「……少し、休みましょう。
顔色が悪いわ、太陽さん」
太陽の額に滲んだ汗に気づき、奏音が心配そうに覗き込んでくる。
二人は、近くにあった老舗「カフェ・ザッハー」へと足を踏み入れた。
重厚な赤いビロードの椅子と、クリスタルのシャンデリア。
ウィーン特有のカフェハウス文化は、単なる飲食の場ではなく、芸術家たちが思想を交わすサロンとしての役割を果たしてきた。
運ばれてきた名物ザッハトルテの濃厚なチョコレートの甘い香りが、太陽の鼻腔をくすぐる。
しかし、今の太陽の感覚は、正常な味覚や嗅覚を失いつつあった。
目の前に座る奏音の、白い首筋から漂う若々しく清純な香水と、彼女自身の体温ばかりが、異常なほど鮮明に太陽の脳を支配していく。
「……お姉ちゃんは、すごいです」
メランジュ(ミルク入りのコーヒー)を口に運びながら、奏音がふと漏らした。
「昔から、何でもできた。
圧倒的な華があって、ピアノを弾けばみんなが虜になる。
……私は、ずっとその後ろを歩いてきました。
お姉ちゃんの影に隠れていれば安全だったけど、誰も私自身の音なんて聴いていなかった」
奏音は、テーブルの上に置いた自分の両手を見つめた。
ヴァイオリニストとしての厳しい訓練に耐えてきた、細くもしなやかな指先。
「でも、昨日の太陽さんの『熱』に触れて……私、初めてお姉ちゃんとは違う音を出せるかもしれないって、そう思ったんです。
お姉ちゃんの音が『人を溺れさせる夜の海』なら、私は……もっと熱くて、痛い音」
「奏音……」
太陽は、彼女の名前を呼ぼうとして、自分の声がひどく掠れていることに気づいた。
(……まずい。
これ以上、彼女と一緒にいたら……)
太陽のEgo Cubeが、シャツの下で赤黒い明滅を始めている。
邪淫の業は、太陽に「目の前の純粋な乙女を、自分の欲望でめちゃくちゃに染め上げろ」という最悪の衝動を囁きかけていた。
明日美という愛する女性の顔が、業の熱によってドロドロに溶け、視界が赤く染まっていく。
「……太陽さん?
どうしたんですか、手が震えて……」
奏音が太陽の異変に気づき、テーブル越しに彼の手を握ろうとした。
「触るなッ!」
太陽は、弾かれたようにその手を振り払った。
ガチャン、とコーヒーカップが音を立てる。
周囲の客が何事かと振り返った。
「た、太陽さん……?」
奏音は、怯えたように目を丸くした。
「……すまない。
ホテルに、戻ろう。
……僕は、少し疲れているみたいだ」
太陽は、テーブルに紙幣を叩きつけるように置くと、逃げるようにカフェを後にした。
彼の背中を追いかけながら、奏音の胸の奥で、恐怖よりも強い「彼に求められたい」という歪な渇望が、静かに、しかし確実に芽生え始めていた。
滞在先の最高級ホテル、最上階のスイートルーム。
太陽がふらつく足取りで部屋に飛び込むと、そこにはガウン姿の美音が、窓辺でワイングラスを傾けていた。
「あら。ずいぶんと早かったのね。
ウィーンの街は楽しめたかしら?」
美音は、後ろから息を切らして部屋に入ってきた奏音と、床に膝をついて苦しむ太陽を見て、全てを察したように妖艶な笑みを浮かべた。
「……美音……頼む……。
昨日の中和じゃ、足りなかった……!」
太陽は、カーペットを掻きむしりながら喘いだ。
邪淫の業が、彼のEgo Cubeを塗り潰そうとしている。
今すぐ誰かの体内でこのドロドロとした熱を放出しなければ、完全に崩壊してしまう。
「仕方ないわね。
私の可愛い迷える子羊さん」
美音はワイングラスを置き、太陽の前にしゃがみ込んだ。
太陽は、藁にもすがる思いで美音のガウンの襟を掴み、その赤い唇を貪ろうとした。
だが。
「待って」
美音は、太陽の口を自分の指先でそっと塞いだ。
「……美音……?」
「あなた、昨日の夜、私を抱きながらずっと頭の中で『違う』って思っていたでしょう?」
美音の瞳が、冷たく、そして面白がるように細められた。
「私の『完成された毒』じゃ、今回のその純粋すぎるエロスの中和には強すぎるのよ。
……だから、今日は私が相手をしてあげるわけにはいかないわ」
美音は立ち上がり、ドアの前に呆然と立ち尽くしている奏音の方を振り返った。
「……お姉ちゃん?」
「奏音。あなたに任せるわ」
美音の言葉に、奏音の肩がビクッと跳ねた。
「昨日の夜、あなたは太陽の業の『おこぼれ』を舐めただけ。
……でも、今の彼の体内には、ウィーンの街であなた自身が煽り立てた、極上の『邪淫』が煮えたぎっているわ。
……あなたが本物の表現者になりたいなら、その熱を全て、自分の身体で受け止めなさい」
「わ、私が……太陽さんの、業を……?」
奏音は、顔を真っ赤に染め、後ずさった。
彼女の透明なEgo Cube『響』が、激しい動揺を反映して震えている。
「無理だ、美音……!
奏音には……この業は、重すぎる……彼女が壊れてしまう!」
太陽は、理性の最後の糸を振り絞って叫んだ。
「壊れないわ。
だって、この子は私の妹だもの」
美音は、太陽の背中をヒールで軽く踏みつけ、彼を押さえ込んだ。
「さあ、奏音。
ヴァイオリンを持ちなさい。
……そして、太陽。
あなたは、自分の欲望の赴くままに、私の妹を汚してごらんなさい」
「……太陽、さん」
奏音は、震える手でヴァイオリンケースを開け、弓を手にした。
彼女の瞳には、恐怖もあった。
だが、それ以上に、床で獣のように荒い息を吐く太陽の熱に、磁石のように吸い寄せられていく自分を止められなかった。
「……逃げろ、奏音……ッ!」
太陽の警告も虚しく、奏音は太陽の目の前で、ゆっくりとヴァイオリンを構えた。
彼女が奏で始めたのは、クライスラーの『愛の悲しみ』。
ウィーンの郷愁を誘う美しいメロディだが、今の奏音が弾く音色は、これまでの彼女とは全く違っていた。
正確なピッチよりも、弦が擦れる生々しいノイズ。
優雅さよりも、血を吐くような切実なエロス。
その音色が太陽の鼓膜を震わせた瞬間。
「……ガァァッ!」
太陽の中の邪淫の業が限界を突破した。
彼は弾かれたように跳ね起きると、ヴァイオリンを弾く奏音の腰を抱き寄せ、そのままベッドルームへと強引に押し入った。
「きゃっ……!
太陽さん……っ!」
奏音はベッドに押し倒され、ヴァイオリンが床に転がる。
太陽は、理性を失った獣のように奏音の上に覆いかぶさり、彼女の白い首筋や鎖骨に、貪るように唇を落としていった。
「ああっ……!
んんっ……、太陽さん、熱い……っ」
奏音は、初めて触れる「男の剥き出しの欲望」に圧倒されながらも、太陽の背中に腕を回し、彼を強く抱きしめ返した。
太陽の唇が、奏音の唇を塞ぐ。
美音とのキスが「毒を毒で制する」ような麻痺だとすれば、奏音とのキスは、「乾いた土に熱湯を注ぎ込む」ような、暴力的なまでの浸透だった。
「んぅっ……!
ぁ……っ、太陽さんの……全部、私に……っ!」
奏音の透明なEgo Cube『響』が、激しい光を放ち始めた。
太陽から流れ込んでくる赤黒い業を、奏音は拒絶しなかった。
姉のような余裕はない。
ただ、必死に、傷つきながらも、その巨大な感情の奔流を自分の魂のフィルターを通して受け止めていく。
(……綺麗事じゃない。
人間って、こんなに醜くて、こんなに切実なんだ……!)
奏音の中で、これまでのクラシック音楽の常識が粉々に打ち砕かれ、全く新しい「音楽の形」が組み上がっていく。
太陽が彼女の肌を貪るたび、奏音は痛みと快感の中で、自分の中にある「未完成の純粋さ」が、極上の芸術へと昇華されていくのを感じていた。
太陽の巨大な重力と、奏音の必死の受容(響き)。
二人の身体と魂が、狂おしいほどの熱量でぶつかり合い、混ざり合っていく。
数時間後。
乱れたベッドシーツの上で、太陽は深い眠りに落ちていた。
彼のEgo Cubeは、すっかり毒気が抜け、穏やかな黄金色を取り戻している。
その傍らで、奏音はシーツを体に巻きつけ、床に落ちていたヴァイオリンを拾い上げた。
彼女の肌には、太陽が残した赤い痕が無数に刻まれている。
しかし、彼女の表情に後悔は微塵もなかった。
むしろ、蛹から羽化した蝶のような、残酷なほどの美しさと自信が宿っていた。
「……どう?
私の言った通りだったでしょう」
ベッドルームのドアの枠に寄りかかり、美音が腕を組んで微笑んでいた。
彼女は、妹が「こちら側」の世界に完全に堕ちてきたことを、心から祝福しているようだった。
「……ええ、お姉ちゃん」
奏音は、ヴァイオリンの弦にそっと指を這わせた。
「太陽さんの熱……少しだけ痛かったけど、最高だった。
私、多分もう二度と、前の音には戻れない」
奏音の胸元で輝くEgo Cube『響』は、透明なガラスから、ほんのりと赤みを帯びた「柘榴石」のような深い色合いへと変化していた。
「歓迎するわ、奏音。
……これで、あなたも立派な『魔女』ね」
美音は、妹の額に優しくキスをした。
姉の美音は、完成された毒で太陽の深い闇を受け止める「夜の海」。
妹の奏音は、未完成ゆえに太陽の業を燃やし尽くし、自らの芸術の糧とする「紅蓮の炎」。
太陽の背負う業が重くなればなるほど、葛城姉妹の音楽はより深く、より妖艶に世界を狂わせていく。
オメガの本部でモニターを見つめる真澄も、この異様なトライアングルの完成を、ただ沈黙をもって見届けていた。
「……さあ、太陽さんが起きたら、次の地獄へ行く準備をしましょう」
美音の言葉に、奏音は妖しく微笑んで頷いた。
罪悪感を抱きながらも、太陽はもはや、この姉妹の毒から逃れることはできない。
次なる第四層「叫喚地獄」。
さらに深く、さらに暗い無間への巡礼が、三人の狂おしい共犯関係と共に、いよいよその口を開けようとしていた。




