第4話 七つのヴェールと衆合の森
音楽の都、オーストリア・ウィーン。
ハプスブルク帝国の栄華を今に伝える「ウィーン国立歌劇場・シュターツオーパー」は、黄金の装飾と赤い絨毯で彩られ、世界中から集まった音楽愛好家たちの熱気でむせ返るようだった。
その地下にある広大なリハーサル室。
神野太陽は、壁に寄りかかりながら、目の前で静かに音合わせをする二人の女性を見つめていた。
一人は、漆黒のドレスに身を包んだ天才ピアニスト、葛城美音。
そしてもう一人、彼女の隣で、艶やかな赤茶色のヴァイオリンを顎に挟み、弓の張りを確認している女性がいた。
葛城奏音。24歳。
美音の4つ年下の妹であり、今回から姉のワールドツアーに同行しているヴァイオリニストだ。
姉に勝るとも劣らない美しい顔立ちをしているが、美音が人を狂わせる「魔女」だとするなら、奏音はどこか緊張感を漂わせた「アスリート」のような、ストイックで未完成な魅力を放っていた。
「……ウィーン。
優雅なワルツと舞踏会の街。
でも、その裏側は常に退廃と愛欲に塗れていたわ」
弓を下ろした奏音が、少し早口で解説を始める。彼女の胸元には、姉と同じ透明なガラスのEgo Cubeがあるが、その中心には微細な「ヒビ」のような模様が入っており、『響』の特性を持っていた。
「19世紀末から20世紀初頭、この街ではフロイトが精神分析を提唱し、人々の無意識下にある『エロス(性動動)』が暴き出された。
貴族たちは表向きの貞淑さを装いながら、仮面舞踏会の裏側で、許されざる愛欲や不倫の罪に溺れていたの」
奏音は、姉の隣で少しだけ誇らしげに、だがどこか焦燥感を滲ませた声で語る。
彼女の才能は本物だが、常に「天才・美音の妹」というレッテルが彼女を縛り付け、その音楽はまだ完全には開花していなかった。
「ふふっ。
よく勉強しているわね、奏音」
美音が、妹の髪を優しく、しかしどこか支配的に撫でた。
奏音は少しだけ身を強張らせる。
「今日、私たちが弾くのは、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『サロメ』から、『七つのヴェールの踊り』よ。
……本来はオーケストラの曲だけれど、今日はピアノとヴァイオリンのデュオに編曲してあるわ」
美音は太陽の方へ向き直り、妖艶な笑みを向けた。
「サロメは、預言者ヨカナーンの『首』に狂気的な愛欲を抱き、義父の王の前で七つのヴェールを一枚ずつ脱ぎ捨てる官能的な踊りを舞った。
……決して手に入らない聖者の肉体を、殺してでも自分のものにするという、狂気的な愛欲の曲よ。
……今日の『マイナスの自己一致』のテーマに、ぴったりでしょう?」
「衆合地獄、か……」
太陽は、低く呟いた。
真澄からの事前情報によれば、八大地獄の第三層「衆合地獄」は、殺生・偸盗に加え、「邪淫(不倫や過度な愛欲の罪)」を犯した者が堕ちる場所だ。
「ええ。
サロメの狂気と、ウィーンに沈澱する退廃的な愛欲の記憶。
私の『奏』と奏音の『響』……二つのプリズムが共鳴すれば、かつてないほど濃密な奈落へのゲートが開くわ」
美音の言葉に、奏音が怪訝そうに眉をひそめた。
「……お姉ちゃん。
さっきから言っている『ゲート』って何?
太陽さんは、ただのメンタルケアのスタッフなんでしょう?」
奏音は、太陽が「地獄」へ潜っていることを知らない。
彼女の目には、姉が時折見せる太陽への異常な執着と、太陽が纏う「暗く深い何か」が、不気味でありながらも強烈な引力として映っていた。
「気にしなくていいのよ、奏音。
あなたはただ、私の音についてくればいい。
……行きましょう」
美音は妹の肩を抱き、ステージへと向かった。
取り残された太陽の足元で、早くも『サロメ』の妖しい旋律の影が、床を黒く浸食し始めていた。
太陽がウィーン国立歌劇場のさらに下層、かつての防空壕跡の冷たいコンクリート空間に到達した時、頭上からオリエンタルで官能的なメロディが降ってきた。
オーボエの音色を模した奏音のヴァイオリンが、ねっとりと空気に絡みつき、それを美音のピアノが重厚な和音で支え、煽り立てる。
二つの才能がぶつかり合い、共鳴することで、地下空間の床にぽっかりと「漆黒の奈落」が開いた。
右耳の通信デバイスから、真澄の声が響く。
『太陽くん。聞こえるか。
……そこが、第三層【衆合地獄】の入り口だ』
「ええ。
今回は、どんな罰が待っているんですか」
『衆合地獄を象徴するのは「剣葉林」と呼ばれる森だ。
木々の葉がすべて鋭い刃(剣)でできており、亡者たちはその森の中で、生前愛した者、あるいは手に入らなかった者の「幻影」を見る。
……幻影を求めて木を登れば、刃に肉を削がれ、頂上に着くと幻影は麓に現れる。
今度は麓へ向けて下り、また肉を削がれる。
これを永遠に繰り返すのだ』
「……愛欲に狂い、手に入らないものを求め続ける苦しみ、か」
太陽は、ため息をつきながら漆黒の穴へと飛び込んだ。
ドスン、と足が地に着く。
むせ返るような、甘く腐敗した花の匂いが鼻を突いた。
「ここは……」
視界に広がっていたのは、ウィーンの森を思わせる巨大な樹海だった。
しかし、木々の葉はすべて青白く光る「鋼鉄の刃」であり、風が吹くたびにシャキン、シャキンと金属が擦れ合う恐ろしい音を立てていた。
そして、その刃の森の至る所で、男女の亡者たちが木をよじ登っていた。
「アァッ……!
アスミ……アスミィィッ!」
「来て……私を抱いて……!
あなたの家庭なんか壊して、私だけのものになって……!」
亡者たちは皆、ウィーンの貴族のような豪奢な夜会服の残骸を身に纏っていた。
彼らは、木の上に現れる美しい幻影(裸の男女)に向かって、狂ったように手を伸ばす。
刃の葉が彼らのドレスを裂き、皮膚を削ぎ、鮮血が雨のように降り注ぐ。
だが、彼らは痛みに泣き叫びながらも、決して登ることをやめない。
「愚かな……。
幻だと分かっているのに……」
太陽が呟いた瞬間。
『太陽くん!気をつけろ!
衆合地獄の「邪淫の業」は、物理的な攻撃ではない。
君自身の内側にある「隠された欲望」を直接刺激してくる!』
真澄の警告が遅かった。
フワリ、と。
甘い香水、美音の香水と、そしてもう一つ、どこか清純さを残した奏音の香水の匂いが、太陽の鼻腔を掠めた。
「……太陽さん」
振り返ると、そこに「明日美」が立っていた。
いや、違う。
顔は明日美だが、着ているのは美音のような妖艶なドレスで、その瞳には奏音のような焦燥感が宿っている。
三人の女性の要素が混ざり合った、太陽にとって最も背徳的で、最も抗い難い「幻影」だった。
「私だけを見て……。
世界なんてどうでもいい。
私を滅茶苦茶にして……」
幻影が、太陽の首に腕を回す。
「……ッ、消えろ!」
太陽は黄金のEgo Cubeを展開し、『重力鎮圧』を放った。
しかし、重力で幻影を押し潰した瞬間、幻影はピンク色の靄となって太陽の体内に直接吸い込まれてしまった。
(……がっ……!
くそ、熱い……!)
太陽のEgo Cubeに、赤黒い「邪淫の業」が急速にこびりついていく。
殺生や略奪の衝動とは違う。これは、下腹部から脳天へ向かって突き上げるような、ドロドロとした純粋な「性欲」と「背徳感」だった。
なぜ自分は、明日美という光がありながら、美音の毒に依存しているのか?
なぜさっき、奏音の真っ直ぐな瞳を見て、彼女を自分色に染め上げてやりたいなどという歪んだ欲望を抱いてしまったのか?
「……ガハッ
……ハァッ……ハァッ……!」
太陽は、己の内側から湧き上がる醜い欲望に耐えきれず、膝をついた。
亡者たちと同じだ。彼らもまた、痛みを伴うと分かっていても、己のエロスに「自己一致」してしまっているのだ。
『サロメ』の音楽が、いよいよサロメが七つのヴェールを全て脱ぎ捨てる、狂気のクライマックスへと突入した。
ヴァイオリンの高音が悲鳴のように響き、ピアノの重低音が地響きを立てる。
太陽は、これ以上この森にいれば、自分自身が「明日美を裏切る狂気」に完全に呑まれてしまうと悟った。
彼は残された理性を総動員し、重力を反転させて現実世界のゲートへと飛び込んだ。
「……ハァッ!ハァッ……!
ぐ、あぁぁッ……!」
防空壕跡の冷たい床に転がり出た太陽は、自身の身体を抱え込んで身悶えした。
黄金のEgo Cubeは、毒々しい赤黒い光を放ち、太陽の血管を走る血を沸騰させている。
(……欲しい。
……誰でもいい。
この狂おしい熱を、今すぐ誰かの身体にぶつけたい……ッ!)
獣のような邪淫の業が、太陽から人間としての理性を奪っていく。
今、美音が現れたら、自分は間違いなく彼女をここで押し倒し、獣のように貪ってしまうだろう。
だが。
「……太陽さん……?」
暗がりから現れたのは、美音ではなかった。
息を切らし、ヴァイオリンを手にしたままの、奏音だった。
「あなた、ここで何をして……。
その、胸にある四角い光は……」
奏音は、ステージを終えて姉の後を追ってきたのだろう。
彼女は、床でもがき苦しむ太陽の異常な姿と、彼が放つ恐ろしいほどの「雄」としての熱気に、恐怖と、それ以上の「未知への好奇心」を抱いて立ちすくんだ。
「……来るな……奏音……!
逃げろ……ッ!」
太陽は、血走った目で奏音を睨みつけた。
彼女の白い首筋や、ドレスから覗く細い脚が、太陽の狂気をさらに煽り立てる。
「逃げてって……あなた、苦しそう……」
奏音は、恐怖よりも心配が勝ち、太陽に駆け寄ってその肩に触れてしまった。
その瞬間。
「……ああっ……!?」
太陽の中から溢れ出した赤黒い「邪淫の業」が、奏音の透明なEgo Cube『響』へと流れ込んだ。
奏音の脳内に、太陽が地獄で観測してきた「人間の最も醜く、最も純粋な愛欲のドロドロ」が、ダイレクトに流れ込んでくる。
それは、今までクラシックの譜面通りにしか世界を見てこなかった彼女にとって、劇薬だった。
「な、何これ……。
こんな感情……こんなに熱くて、汚いもの……私、知らない……ッ!」
奏音は、頭を抱えて座り込んだ。
だが、彼女の『響』に入っていた微細な「ヒビ」が、その業の熱量によって「パリンッ」と音を立てて弾け、より大きくて深い、新しい光を放ち始めた。
「……あら。
私の獲物を、横取りしないでちょうだい」
コツン、コツンとヒールの音が響き、美音が暗闇から姿を現した。
彼女は、苦しむ太陽と、業に当てられて震える妹を見て、妖艶に微笑んだ。
「お、お姉ちゃん……太陽さんが……太陽さんの中に、すごく熱いものが……」
奏音は、涙目で美音を見上げた。
「ええ。
それが『人間の本当の深み』よ、奏音」
美音は、妹の隣にしゃがみ込むと、太陽の頭を自分の膝に抱え込んだ。
「あなたは今まで、綺麗事の音しか出せなかった。
だから私に及ばなかったの。
……でも、この人の『業』に触れれば、あなたの音楽は化けるわ」
美音は、苦悶する太陽の唇に、己の赤い唇を押し当てた。
「んぅっ……!ぁ……っ」
パリやヴェネツィアの時と同じように、美音は太陽の中から「邪淫の業」を貪欲に吸い出していく。
美音の『奏』が、赤黒い光を妖しく取り込み、中和していく。
だが、今回はそれだけではなかった。
「奏音。あなたも手伝いなさい」
美音は唇を離すと、太陽の熱い右手を引き寄せ、それを震える奏音の頬に押し当てた。
「ひっ……!」
太陽の手から伝わる、痛いほどの熱と、抑えきれない男の欲望。
奏音は恐怖に震えながらも、そこから伝わってくる「決して楽譜には書かれていない、人間の生々しいエロス」に、激しく魅了されていくのを感じた。
「……いいわ、奏音。
その震えを、その恐怖と快感を、あなたのヴァイオリンの弦に刻み込みなさい。
……それが、芸術よ」
美音の囁きは、まるで悪魔のようだった。
太陽は、朦朧とする意識の中で、美音の甘い香水と、奏音の震える体温に挟まれていた。
美音が太陽の理性を奪い、奏音がその業に触れて新たな才能を開花させていく。
(……僕は、なんて恐ろしい姉妹に、業を預けてしまったんだ……)
太陽の『重力』は、今や明日美のための光であると同時に、葛城姉妹の才能を狂わせ、育てていくための「闇の養分」へと変貌していた。
長い中和の儀式が終わり、太陽のEgo Cubeが元の黄金色を取り戻した時。
奏音の瞳には、かつての焦燥感は消え失せ、代わりに、姉と同じような「深淵を覗き込んだ者」特有の、危うくも艶やかな光が宿っていた。
「……太陽さん。
……あなたの業、私のヴァイオリンで……もっと綺麗に響かせてあげる」
奏音は、太陽の手を両手で握りしめ、恍惚とした表情で呟いた。
「よく言ったわ、それでこそ私の妹」
美音は、満足そうに微笑み、太陽の首筋に愛の印を残した。
『……衆合地獄の波形回収、完了した。
……太陽くん、飲み込まれるなよ』
通信デバイスからの真澄の乾いた声が、太陽を現実に引き戻す。
「……ええ。
地獄よりも、こちらの世界の方が、よほど狂っているかもしれません」
太陽は、ため息をつきながら立ち上がった。
八大地獄の第三層。
愛欲の業は、太陽に新たな罪悪感を植え付け、葛城奏音という才能を「奈落」へと引きずり込んだ。
無間への巡礼は、もはや太陽一人のものではなくなっていた。
三人の背徳的な共鳴は、さらなる深みへと彼らを誘っていく。




