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第3話 悪魔のトリルと黒縄の仮面

アドリア海の真珠、イタリア・ヴェネツィア。


無数の運河が網の目のように巡るこの美しき水上都市は、かつて地中海貿易の覇者として君臨し、莫大な富を築き上げた歴史を持つ。

しかし、その富の多くは「第四回十字軍」におけるコンスタンティノープルからの容赦ない略奪や、他国からの搾取によってもたらされた血塗られた金字塔でもあった。


夜の帳が下り、運河の水面が街灯を反射してゆらゆらと黒く光る頃。

ヴェネツィアの芸術の象徴であり、過去に何度も火災で灰燼に帰しながらその度に蘇ってきた「フェニーチェ劇場(不死鳥劇場)」の控室で、葛城美音は静かに目を閉じていた。


「ヴェネツィアのカーニバル……。

人々が『バウタ』と呼ばれる仮面をつけ、身分や素性を隠して欲望のままに享楽にふけった祭典。

……仮面の下では、貴族も平民も関係なく、夜な夜な他者の富を、恋人を、そして命を『盗み合う』狂乱が繰り広げられていたそうよ」


漆黒のドレスに、金糸で刺繍されたヴェネツィアン・マスクを手に持った美音が、鏡越しの太陽に語りかける。

彼女の胸元で、透明なEgo Cube『奏』が、劇場のシャンデリアの光を吸い込んで妖しく瞬いていた。


「盗み……。

それが今回の『マイナスの自己一致』のテーマというわけか」


太陽は、控室の壁にもたれかかりながら、低く呟いた。

パリでの「等活地獄」の業は美音によって中和されたものの、彼の魂の奥底には、未だに抜けない冷たい棘のような疲労が残っている。


「ええ。

今日私が弾くのは、ジュゼッペ・タルティーニの『悪魔のトリル』。

元々はヴァイオリンの曲だけれど、これを極限の難易度に引き上げたピアノ編曲版よ」


美音は、仮面をテーブルに置き、白く細い指先を愛おしそうに見つめた。


「タルティーニは夢の中で悪魔に魂を売り渡したの。

その代償として、悪魔が彼の耳元で奏でた美しくも恐ろしい旋律……それがこの曲。

つまり、悪魔に魂を『盗まれた』男が、世界から正気を『盗み取る』ために残した呪いの音楽よ」


美音は立ち上がり、太陽の胸板に両手を這わせた。


「パリの時よりも、もっと深くて暗い場所へ行くことになるわ。

……私が悪魔の旋律を弾き終えるまでの約15分間。

あなたは、この沈みゆく都の底で『略奪の業』に耐えられるかしら?」


「耐えてみせるさ。

君の音が、僕を繋ぎ止めている限りは」


太陽が静かに答えると、美音は満足そうに微笑み、自分の唇を太陽の耳元へ寄せた。


「……期待しているわ。

あなたがどんな風に汚れて帰ってくるか」


その甘い囁きを残し、彼女はステージへと向かっていった。

美音が華やかな拍手に迎えられてステージに上がる頃、太陽はフェニーチェ劇場の最下層、運河の水位よりも下に位置する古い地下貯水施設へと足を踏み入れていた。


壁には緑色の苔が張り付き、ひんやりとした湿気が肌にまとわりつく。

右耳の通信デバイスから、オメガ本部で観測を続ける深海真澄の声が届く。


『……太陽くん。

ヴェネツィアの地下特異点と、美音くんのEgo Cubeの同期を確認した。

今回君が向かうのは、八大地獄の第二層【黒縄こくじょう地獄】だ』


「黒縄……。

殺生に加えて、『盗み』を働いた者が落ちる場所ですね」


『その通りだ。

他者の財産、尊厳、愛する者……あらゆるものを己の欲望のために奪い取った者たちの成れの果てだ。

そこでは、熱く焼けた黒い鉄の縄で身体を縛られ、斧や鋸で切り裂かれるという罰が永遠に繰り返される。

……くれぐれも、彼らの「奪うことへの執着」に呑まれないように』


真澄の警告とほぼ同時に、頭上のステージから重厚にして神経を逆撫でするようなピアノの旋律が響いてきた。


『悪魔のトリル』。


本来ヴァイオリンで奏でられるべき二つの音の激しい行きトリルが、美音の十本の指によって、まるで無数の悪魔が笑い立てるような圧倒的な音圧となって地下空間に降り注ぐ。


ゴボッ……ゴボボボッ……!


足元の水溜まりが、突如としてコールタールのような漆黒に染まり、渦を巻き始めた。

美音の奏でる音楽の「光」が、ヴェネツィアの歴史に蓄積された略奪の記憶をプリズムのように反転させ、事象の地平面の底を打ち抜いたのだ。


「……行くぞ」


太陽は黄金のEgo Cubeを展開し、ためらうことなく漆黒の渦へと身を投じた。

視界が真っ暗に染まり、息が詰まるような水圧を感じた後、太陽は「裏側のヴェネツィア」へと浮上した。


「……なんだ、ここは」


太陽は、水面から顔を出し、周囲の光景に絶句した。

そこは、燃え盛るような赤黒い空の下、果てしなく続く水上都市だった。

しかし、建物のすべてが腐敗し、運河の水はドロドロの血とヘドロの混ざった悪臭を放っている。


そして、街の至る所に「熱く焼け焦げた黒い鉄の縄(黒縄)」が、蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。


『太陽くん、見えるか。……彼らが、黒縄地獄の亡者たちだ』


真澄の通信越しに、太陽の視界の先、腐りかけたゴンドラの上や広場でうごめく無数の人影が映る。


彼らは皆、豪奢ごうしゃだがボロボロに引き裂かれた中世の貴族の服を纏い、顔には白く無機質な「バウタ(仮面)」を張り付けていた。

仮面は肉と癒着し、剥がすことはできない。


「ギィィ……俺ノダ……ソレハ俺ノ金貨ダ……ッ!」


「返セ……私ノ顔……私ノ美貌ヲ……!」


亡者たちは、互いの身体に掴みかかり、相手の指に嵌った宝石を指ごと噛みちぎり、相手のドレスを剥ぎ取り、さらには顔の仮面アイデンティティまでをも剥がそうと、血みどろの略奪を繰り広げていた。


しかし、彼らが何かを「盗んだ」瞬間。

空間に張り巡らされた「黒縄」が生き物のように動き出し、略奪者の身体にギリギリと巻きつく。

ジュウッという肉の焦げる音と共に、目に見えない巨大な斧が振り下ろされ、彼らの身体は無残に両断された。


「ギャアアアアァァッ!!」


絶叫が響く。

だが、彼らは死なない。

両断された身体は、黒い泥となってうごめき、元の形へと再生していく。

そして再生した直後に、また目の前にいる別の亡者から何かを奪おうと手を伸ばすのだ。


「狂っている……。

罰を受けているのに、何故また盗もうとするんだ……!」


太陽は、運河の水を蹴立てて広場に上がり、彼らの凶行を止めようとした。


『無駄だ、太陽くん!』


真澄が鋭く制止する。


『彼らは「奪わなければ満たされない」という飢餓感に完全に支配されている。

罰の苦しみよりも、奪う瞬間の快楽に「自己一致」してしまっているのだ。

……彼らの中では、奪うことこそが唯一の生の証明なのだよ!』


その時、一人の亡者が太陽の存在に気づいた。


「……見ナイ顔ダ……。

ソノ、黄金ノ光……ヨコセェェェッ!」


亡者たちが一斉に太陽へと群がり、その鋭い爪で彼を引き裂こうとする。


「Spell『重力拒絶グラビティ・リジェクト』!」


太陽は黄金の重力波を放ち、亡者たちを弾き飛ばした。

だが、弾き飛ばされた亡者たちが落とした「強烈な欲望」の波形が、太陽のEgo Cubeに黒いタールとなってこびりつき始めた。


(……っ!パリの時より、質が悪い……!)


等活地獄の「破壊衝動」とは違う。

黒縄地獄の業は、「他者の持つものを、何が何でも自分のものにしたい」というドロドロとした『所有欲』と『略奪衝動』だった。


太陽の視界が歪む。

頭の中に、強烈な欲望が渦巻く。

なぜ自分は、こんな冷たい地獄で痛みに耐えているのか?

なぜ自分だけが、世界を救うために理不尽な業を背負わなければならないのか?

地上にいる奴らから、平穏を、命を、愛する者を……全部奪い取ってやればいいのではないか?


「……違う……僕は、そんなことのために……!」


太陽が自身の内なる衝動に抗おうとした瞬間、上空から巨大な「黒縄」が降り注ぎ、太陽の四肢を縛り上げた。


「ガハッ……!」


超高温に熱された鉄の縄が、太陽の肉体ではなく、精神のコアをギリギリと締め付ける。


『奪え』

『犯せ』

『己の欲望のままにすべてを自分のものにしろ』。


マイナスの自己一致が、太陽の魂を深淵の論理へと書き換えようとしていた。

その絶体絶命の危機を繋ぎ止めたのは、頭上から降り注ぐ『悪魔のトリル』の旋律だった。

美音の奏でる音楽が、クライマックスの圧倒的な和音の連打カデンツァへと突入する。

その音の振動が、太陽を縛る黒縄の結束を一瞬だけ緩ませた。


「……美音が、待っている……ッ!」


太陽は、残されたEgo Cubeの力をすべて解放し、重力のベクトルを反転させて自らの身体を強引に上空のゲートへと射出した。

フェニーチェ劇場の地下貯水施設。


バシャァァッ!


と激しい水音と共に、太陽は現実世界の水溜まりへと弾き出された。


「……ハァッ……ハァッ……!

ぐうぅぅッ……!」


太陽は濡れた石畳の上を転げ回りながら、全身を掻きむしった。

黄金色だったEgo Cubeは、今や半分以上が黒く濁り、どくどくと不気味な脈動を打っている。


(……欲しい。

……何もかも、僕の思い通りにしたい。

……奪いたい……!)


黒縄の業(略奪衝動)が、太陽の理性を急速に焼き尽くそうとしていた。

明日美の顔を思い浮かべようとしても、黒い霧がかかったように思い出せない。

今の彼の中にあるのは、純粋で暴力的な「雄としての支配欲」だけだった。


「……ずいぶんと、ひどい状態ね」


暗がりから、甘い香水の匂いと共に美音が現れた。

ステージを終えたばかりの彼女は、熱気に当てられたように頬を紅潮させ、その瞳は妖しい光を帯びている。


「……来るな、美音……。

今の僕に、近づくな……!」


太陽は、獣のように低い声で警告した。

今の自分は、理性を失ったバケモノだ。彼女を傷つけてしまう。

だが、美音は逃げるどころか、ヒールを鳴らして太陽の目の前まで歩み寄り、彼を見下ろしてクスクスと笑った。


「あら、どうして?あなたのその目、すごく素敵よ。

……まるで、飢えた狼みたい」


彼女がしゃがみ込み、その白く細い指先を太陽の濡れた頬に這わせた瞬間だった。


ブツン、と。


太陽の中で、最後に残っていた理性の糸が切断された。


「……ッ!」


太陽は獣のような身のこなしで跳ね起きると、美音の肩を乱暴に掴み、冷たい石壁へと激しく押し付けた。


「きゃっ……!」


美音の口から短い悲鳴が漏れる。

太陽の黄金と黒が混ざった瞳は、獲物を前にした捕食者のそれだった。

彼は美音の両腕を壁に押さえつけ、逃げ場を完全に奪った。


「……言ったはずだ。近づくなと」


太陽の声は、普段の彼からは想像もつかないほど冷酷で、支配欲に満ちていた。

彼は、美音のドレスの襟元に乱暴に顔を埋め、その白い首筋に鋭く歯を立てた。


「あっ……ぁんっ……!

太陽……痛い……っ」


美音の身体がビクンと跳ねる。

だが、彼女は抵抗しなかった。

むしろ、壁に押さえつけられながらも、太陽の姿を愛おしそうに見つめていた。


「……いいわ。

もっと……もっと乱暴に奪って。

あなたが地獄で吸い込んできたその真っ黒な欲望、全部私にぶつけてちょうだい」


美音の瞳は、痛みと快感、そして狂気的な歓喜で濡れていた。

太陽は、彼女の言葉に煽られるように、美音の赤い唇を塞いだ。

それは、相手を慈しむような口づけではない。

息継ぎの隙間すら与えず、相手の魂の底まで舌をねじ込み、すべてを自分のものにしようとする「略奪のキス」だった。


「んぅっ……!

ぁ……っ、んんっ……」


美音の口内から、強烈な黒縄の業が、彼女のEgo Cube『奏』へと急速に吸い出されていく。

太陽の暴力的な支配欲と、それを全て受け入れ、音楽のインスピレーションへと変換していく美音の狂気。

互いの熱い吐息が交じり合い、地下の冷たい空気を妖しく染め上げていく。

太陽は、美音の身体を貪るように求めながら、心のどこかで絶望的な安堵を感じていた。


(……ああ、僕はもう、彼女のこの『毒』がなければ、正気を保つことすらできない……)


明日美という絶対的な光を持つパートナーがいながら、太陽は今、目の前の美音という「闇のプリズム」に完全に依存してしまっている。

彼女の危うい包容力がなければ、この無間地獄の巡礼を続けることは不可能なのだ。


長い、長い略奪の口づけの後。

太陽のEgo Cubeから黒い濁りが消え、再び黄金の光を取り戻した頃には、二人は濡れた石畳の上に崩れ落ちていた。


「……ハァ……。

少しは、スッキリしたかしら?」


美音は、乱れたドレスの胸元を直そうともせず、太陽の胸に頬をすり寄せながら妖しく微笑んだ。

彼女の『奏』のCubeは、太陽から奪い取った欲望のエネルギーを蓄え、恐ろしいほどの輝きを放っている。


「……すまない、美音。

君に、ひどいことをした」


太陽は、我に返り、罪悪感に顔を歪めた。


「謝らないで。

私は最高に満たされているわ」


美音は、太陽の唇を自分の指先でそっと塞いだ。


「あなたが悪魔になるなら、私はその悪魔に魂を売って、極上の旋律を奏でるだけ。

……私たちは共犯者なのよ、太陽」


『……黒縄地獄の波形回収、完了した』


通信デバイスから、真澄の無感情な声が響く。

彼には、二人の間でどのような「中和」が行われているか、すべて筒抜けだったはずだ。だが、彼は何も言わなかった。

世界を救うためには、誰かがこの穢れを引き受けなければならないことを、彼が一番よく知っていたからだ。


「……次は、第三層か」


太陽は、美音を抱き寄せたまま、虚空に向かって呟いた。

地獄はまだ、六つも残っている。

より深く潜るたびに、背負う業は重くなり、美音への依存は取り返しがつかないほど深くなっていく。

それでも、太陽は後戻りすることはできない。

光の世界で待つ愛する者のために、彼はこれからも、美音と共に無間地獄への階段を降り続けるのだ。

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