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第2話 死の舞踏と等活のカタコンベ

フランス・パリ。

絢爛豪華けんらんごうかな彫刻とシャガールが描いた天井画で彩られた、世界最高峰の芸術の殿堂「オペラ・ガルニエ」。

葛城美音のワールドツアー初日の舞台となるこの劇場は、開演を待ちわびる着飾ったセレブリティたちの熱気で満ちていた。


だが、太陽の意識は、その華やかな表舞台ではなく、劇場の床下、遥か地下深くへと向けられていた。


「パリの地下には、もう一つのパリがあると言われているわ」


バックステージの豪奢な控室。

黒のイブニングドレスに身を包んだ美音が、鏡越しにルージュを引きながら静かに口を開いた。

彼女の胸元では、透明な宝石のようなEgo Cube『かなで』が、劇場の照明を吸い込んで妖しく光っている。


「18世紀後半、パリの街は急激な人口増加と疫病で、墓地がパンク状態になった。

……そこで当時の市当局は、古代ローマ時代から存在していた巨大な地下採石場の跡地を利用し、約600万人分もの名もなき遺骨を移送したの。

それが、世界最大の地下墓地『カタコンベ』」


「600万人……」


太陽は、控室のソファに深く腰掛けながら、その途方もない数に眉をひそめた。


「ええ。

そこには、フランス革命の恐怖政治でギロチンの露と消えた者たちの骨も無造作に混ざり合っている。

……入り口の石碑にはこう刻まれているそうよ。

『止まれ、ここは死の帝国である(Arrête, c'est ici l'empire de la mort)』とね」


美音は振り返り、太陽の元へと歩み寄った。

その手には、一枚の楽譜が握られている。


「今日、私がオープニングで弾くのは、フランツ・リストの『死の舞踏(Totentanz)』。

……リストがイタリアのカンポサント(納骨堂)に描かれた『死の勝利』のフレスコ画を見て着想を得たと言われる、死の恐怖と狂気の曲よ」


美音の白く細い指先が、太陽の胸元にそっと触れた。

彼女の指先は氷のように冷たいが、そこから漂う甘い香水と微かな体温が、太陽の嗅覚を麻痺させるような強い引力を放っている。


「リストの曲は、グレゴリオ聖歌の『怒りのディエス・イレ』を主題にしている。

神の裁きを恐れ、死者が蘇る終末の日の旋律……。

私の『奏』をプリズムにして、この曲の持つ『死の勝利』という世界観と、カタコンベに眠る600万人の『殺生の記憶』を共鳴させる。

……それが、あなたが潜る奈落へのゲートになるわ」


「演奏時間は?」


太陽が問うと、美音は妖艶に微笑み、太陽の耳元に唇を寄せた。


「約16分。

……その間に、私を満足させるだけの『絶望』を見てきてちょうだい。太陽」


太陽は、オペラ・ガルニエの非公開エリアである地下水脈への階段を下りていた。

冷たく湿った空気が、鼻腔を突く。

この水脈のさらに奥が、旧採石場跡のネットワークを通じてカタコンベの深層へと繋がっているのだ。


地上では、美音のステージが始まろうとしていた。

太陽の右耳に装着された通信デバイスから、現実世界、日本のオメガ本部で無限の記憶のシステムを監視している深海真澄の声が響く。


『……太陽くん。

聞こえるか?』


「ええ、真澄さん。

こちらはいつでも行けます」


『よろしい。

現在、美音くんのEgo Cube『奏』の波形が、パリの地下に蓄積された特異点のノイズと急速に同期し始めている。

……気をつけるのだよ。

我々が観測しようとしているのは、明日美が浄化したような「救いを求める悲しみ」ではない。

「救いを完全に拒絶し、狂気に納得してしまったマイナスの自己一致」だ』


真澄の声は、かつての狂気を孕んだものではなく、全てを俯瞰する冷静な導き手としての響きを持っていた。


その時、地下の空間に、重厚なピアノの低音が響き渡った。

美音が鍵盤を叩き下ろしたのだ。


タタタタン、タタタタン。


グレゴリオ聖歌『怒りの日』の不気味な旋律が、リストの超絶技巧によって狂気的な打楽器のように奏でられる。


「……ゲートが開く」


太陽が呟いた瞬間。

地下水脈の空間が、美音の透明なEgo Cubeによって「分光」されたように歪んだ。


音楽という「光」が強烈に差し込むことで、その反動として、物理法則を無視した濃密な「漆黒の影」が太陽の足元にポッカリと口を開けた。

それが、事象の地平面の向こう側、「奈落」への入り口だった。


「堕ちます」


太陽は、自身の黄金色のEgo Cubeを展開し、その重力に身を任せて漆黒の穴へとダイブした。

視界が反転し、強烈な落下感の後、太陽の足は「何か」の山の上に降り立った。


「……ッ、これは……」


太陽が息を呑む。

足元にあるのは、石でも土でもない。見渡す限りの「人骨」だった。

頭蓋骨や大腿骨が、まるで幾何学模様のように壁や床を埋め尽くしている。

現実のカタコンベの記憶が、奈落の領域で無限に拡張され、迷宮と化した空間。


『太陽くん。

そこは、仏教で言うところの「八大地獄」の第一層……【等活とうかつ地獄】の概念に近い領域だ』


真澄の通信が、ノイズ混じりに届く。


『そこは、生前に「殺生」の罪を犯した者が落ちる場所。

互いに敵対心を抱き、永遠に殺し合いを続けるという純粋な悪意の空間だ』


その言葉を裏付けるように、頭上からリストの『死の舞踏』の激しいグリッサンドが降り注いだ。

音楽のテンポが上がるにつれ、周囲の壁に埋め込まれていた骸骨たちがカタカタと不気味な音を立てて震え出し、やがて黒い泥のような実体を持った「亡者」となって這い出してきた。


「ギャアアアァァッ!!」


「殺ス……!奪ウ……!

俺ガ生キルタメニ……!」


亡者たちの両手には、鋭い鉄の爪や、フランス革命を思わせる錆びたギロチンの刃のような武器が握られていた。

彼らは太陽に襲いかかるのではなく、亡者同士で互いの肉体を切り裂き、血肉(泥)を飛び散らせながら狂ったように殺し合いを始めた。


腕が飛び、首が落ちる。

だが、リストのピアノが静かなアダージョ(緩やかなテンポ)に変わり、どこからか「涼風」のようなものが吹いた瞬間。


バラバラに砕け散った亡者たちの肉体が、ビデオの巻き戻しのように再生され、元の姿に戻ったのだ。


『……死んでも、涼風が吹けば「活きよ」という声と共に蘇る。

……だから「等活」だ。

彼らは自分が死ぬ苦痛と、他者を殺す快楽のループに、完全に「納得」してしまっている。

……これが、マイナスの自己一致だ』


真澄の冷徹な説明が響く。


「ふざけるな……。

こんな狂気の世界が、存在していいはずがない!」


太陽は、黄金のEgo Cubeを限界まで発光させ、周囲の重力場を操作した。


「Spell『重力鎮圧グラビティ・プレス』!」


太陽から放たれた黄金の波動が、殺し合う亡者たちを地面に叩き伏せる。

明日美の「海」のように優しく包み込むのではない。

これは、Gaeaの入力インプットの力を使った、事象の強制的な停止だ。

だが、亡者たちは重力に潰されながらも、その泥に塗れた顔を太陽に向け、ニタニタと笑い始めた。


「……何故、止メル?

痛イノハ気持チガイイ……。

殺スノハ、生キテイル証拠ダ……!」


「私タチヲ救ウナ。

……私タチハ、コノ地獄ループヲ愛シテイル……ッ!」


「……ッ!」


太陽の心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたように縮み上がった。

彼らは、救済を求めていない。

むしろ、太陽の「平和にしようとする意志」こそが、彼らにとってのノイズ(暴力)なのだ。


これが、マイナスの自己一致。

破滅と殺生に完全に適合してしまった魂たち。

太陽が重力をかければかけるほど、彼らの「拒絶」の波形が逆流し、太陽のEgo Cubeに真っ黒な「業」となってこびりつき始めた。


(……くそっ、重い……。

明日美の海に流れ込んでいた悲しみとは、次元が違う……!)


純粋な悪意と破滅願望が、太陽の精神を侵食していく。

視界が赤黒く染まり、太陽の心の中にも、

「いっそ、こいつらを全て破壊してしまえば楽になるのではないか」

という暴力的な衝動が芽生え始める。


『太陽くん!

それ以上は危険だ!観測データは取れた。

……これ以上「等活の業」に触れれば、君のEgo Cubeが完全に汚染される!』


真澄の警告が響く。

その時、頭上から降り注いでいた『死の舞踏』の旋律が、最後の強烈な和音の連打コーダへと突入した。

現実世界の16分が、終わろうとしている。

美音の奏でる音楽の「光」が、奈落の空に一筋の糸のように垂れ下がってきた。


「……戻ります!」


太陽は、全身にへばりつく「業」の重みに耐えながら、黄金の重力で自らを上空へと射出する。

亡者たちの鉄の爪が太陽の足首を掠め、空間の裂け目が閉じるギリギリの瞬間。

太陽は、漆黒の影を抜け、現実世界の地下水脈へと転がり出た。


「……はぁっ……!

はぁっ……!!」


オペラ・ガルニエの地下水脈。

冷たい石畳の上に倒れ込んだ太陽は、荒い息を吐きながら激しく咳き込んだ。

体には物理的な外傷はない。

だが、彼の黄金色だったEgo Cubeの表面には、タールのようなドロドロとした黒い「業」がこびりつき、明滅を繰り返している。


(……殺せ。……奪え。

……それが生きるということだ……)


頭の中で、等活地獄の亡者たちの声がリフレインする。

破壊衝動が抑えきれない。

このまま地上に出て、明日美の優しい声でも聞こうものなら、太陽は彼女の「海」を自らの手で引き裂いてしまうかもしれない。

それほどまでに、このマイナスの自己一致の波形は強力な毒だった。


「……あんなものを、深淵の少女は数千年も溜め込んでいたというのか……」


太陽は、壁に寄りかかりながら、ギリギリと歯を食いしばって自我を保とうとした。


その時。


コツン、カツン……


と、ヒールの足音が近づいてくるのが聞こえた。


「……お疲れ様、太陽。

ずいぶんと醜い顔になっているわよ」


薄暗い地下の通路に現れたのは、ステージでの演奏を終えたばかりの葛城美音だった。

漆黒のドレスの裾をわずかに濡らしながら、彼女は妖艶な笑みを浮かべて太陽を見下ろしている。


「美音……。来るな……!

今の僕は、危険だ……!」


太陽は、自分の中に渦巻く暴力衝動を抑え込みながら叫んだ。


「君にまで、この業が伝染する……!

離れろ……ッ!」


「馬鹿ね」


美音は、逃げるどころか、躊躇うことなく太陽の目の前に膝をついた。

彼女の透明なEgo Cube『奏』が、太陽の黒く汚染されたCubeに呼応して、怪しく共鳴し始める。


「明日美さんみたいな『清らかな聖女の海』なら、その業に触れたら一瞬で濁ってしまうでしょうね。

……でも、私は違う」


美音の白く冷たい両手が、太陽の熱く火照った頬を包み込んだ。


「……っ!」


太陽が抵抗する間もなく、美音の赤い唇が、太陽の唇を塞いだ。

それは、明日美との愛に満ちた交わりとは全く違う、ひどく冷たく、そして強烈な麻薬のような口づけだった。


「ん……っ、ぁ……」


美音の舌が太陽の口内に侵入し、彼の中に溜まっていた「等活地獄の業(破壊衝動)」を、貪欲に吸い出していく。

美音のEgo Cube『奏』は、その特性上、どんなにドロドロとした感情でも「音楽の世界観」として可視化し、自らの旋律に取り込むことができる。

彼女にとって、この破滅的な感情は、自らの芸術を深めるための「極上のスパイス」でしかなかった。


「……美音、やめろ……君が壊れる……!」


唇を離した太陽が喘ぐように言うが、美音は妖しく目を潤ませて微笑んだ。


「壊れないわ。

……だって、私の中は元々、音楽以外の何もかもが狂っているんだもの。

……あなたのその泥、すごく甘いわ、太陽」


美音は、太陽のシャツの襟を乱暴に引き寄せ、今度は彼の首筋に深く歯を立てた。

チクリとした痛みの後、強烈な快感が太陽の背筋を駆け抜ける。


「あぁっ……!」


太陽の体から、黒い業が少しずつ美音のEgo Cubeへと吸い出され、彼女の中で「次なる曲のインスピレーション」として中和・変換されていく。


「……ほら、もっと私に預けなさい。

あなたが地獄で背負ってきた罪も、狂気も、全部私が飲み込んで、美しいピアノの音色に変えてあげる」


美音の指先が、太陽の胸板をなぞり、彼の深い欲望を引きずり出そうとする。

明日美には決して見せることのできない、男としての暴力的な衝動。

それを、美音は全て肯定し、むしろ挑発するように受け入れているのだ。


「……君は、本当に……」


「悪魔みたい?

……ええ、そうよ。

だからこそ、あなたはこの巡礼に私を選んだんでしょう?」


美音の言葉に、太陽は返す言葉を持たなかった。

彼女の言う通りだ。

光の世界を護るためには、誰かがこの理不尽な業を背負わなければならない。

そして、その業を抱えることができるのは、絶対的な愛を持つ明日美ではなく、同じ闇の引力を持つ美音の「毒」なのだ。


太陽は、半ば諦めたように、そして抗い難い誘惑に負けたように、美音の細い腰に腕を回し欲望をむき出しにする。

薄暗いパリの地下水脈で、二人の狂おしくも美しい中和の儀式が続く。


『……等活地獄の観測、及び波形の回収を確認した』


通信デバイスの向こうで、真澄の声が静かに響く。


『最初の巡礼は成功だ、太陽くん。

……だが、奈落はあと七階層ある。

深く潜れば潜るほど、君の背負う業は重くなり、美音くんの毒も強くなるだろう。

……決して心を喰われるなよ』


真澄の忠告は、絡み合う二人の吐息の前に虚しく溶けていった。

八大地獄を巡る無間への巡礼。

その第一歩は、太陽の魂に消えない「業」の染みを残し、同時に、美音との後戻りできない危うい依存関係を決定づけるものとなった。


表の世界の光を強めるために、彼はこれからも、彼女と共に底なしの闇へと堕ちていくのだ。

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