第36話 開かれた闘技場と、狂乱のプレリュード
1.熱狂のスタジアム
五月の突き抜けるような青空の下、国立メインスタジアムは、異様なほどの熱気とざわめきに包まれていた。
全日本大学選手権(通称・インカレ)。
全国から選りすぐられたトップアスリートたちが集結し、己の大学の威信と、自らの未来(プロへの切符やオリンピック代表の座)を懸けて激突する、国内最高峰のスポーツの祭典である。
スタンドを埋め尽くす数万人の観衆。
各大学の応援の声と、地鳴りのような歓声が入り混じり、スタジアムの空気はすでに沸点に達しようとしていた。
トラックの脇に設けられた選手待機エリア。
各大学のジャージを着た選手たちが、ストレッチを入念に行いながら、あるいは音楽を聴きながら、それぞれのやり方で極限のプレッシャーと戦っている。
誰もが、この日のために血の滲むような努力を重ねてきた。
だが、その努力の結晶であるはずの彼らの『Ego Cube(器)』は、スタジアムを支配する「勝利への渇望」と「敗北への恐怖」という巨大な重力に押し潰されそうになり、激しく波形を乱していた。
深海大学の黒と青のジャージを身に纏った風見凛は、喧騒の中で静かに目を閉じていた。
周囲の選手たちが、重圧で顔を青ざめさせたり、過剰に興奮して貧乏ゆすりをしたりしている中、彼女だけがまるで水面のように静かなオーラを放っている。
(……すごい熱気。
でも、全然苦しくない)
凛は、ゆっくりと息を吐き出した。
以前の彼女なら、この雰囲気に飲まれ、コーチや両親の「期待」という鉛のような重力を感じて、スタート前から足がすくんでいただろう。
だが今の彼女の胸の奥にあるEgo Cubeは、完璧な正六面体の形を保ち、瑞々しく艶やかな光を放っている。
彼女の耳には、周囲の雑音は届いていない。
ただ、スタジアムのどこかにいるはずの『彼』の視線だけを、皮膚の表面で探していた。
2.重力波のライブパフォーマンス
「さあ、いよいよインカレの開幕です!
開会式に先立ちまして、今大会の公式アンバサダーを務める世界的アーティスト、葛城姉妹によるスペシャルライブパフォーマンスです!」
場内アナウンスが高らかに響き渡ると、数万人の大歓声がスタジアムを揺るがした。
グラウンドの中央に特設されたステージ。
そこに、純白のドレスに身を包んだ姉の美音と、漆黒のドレスを纏った妹の奏音が、まるで女神のように優雅な足取りで登場する。
スタジアムの巨大なスクリーンに、二人の美しくも蠱惑的な顔が映し出された。
「全国のアスリートの皆さん。
そして、彼らの熱狂を見届けに来た観客の皆さん」
マイクの前に立った美音が、鈴を転がすような、それでいて背筋がゾクッとするほど色気のある声で語りかける。
「スポーツは、ルールのある美しい闘い。
……でも、そのルールの下で燃え盛っているのは、誰よりも目立ちたい、誰かを打ち負かしたいという、ドロドロとした生々しい『欲求』のはず」
美音の言葉に、スタジアムの空気が一瞬、ピタリと静まり返る。
「綺麗事なんていらないわ。
あなたたちの中に眠る、剥き出しの闘争本能と、愛と、嫉妬。
……その全てを、このスタジアムに解き放ってちょうだい」
奏音がヴァイオリンを構え、美音がグランドピアノの鍵盤に美しい指を滑らせた。
ジャンッ……!!
スピーカーから放たれた最初の一音。
それは、葛城姉妹のEgo Cube『奏』と『響』から放たれる、人間の本能を直接揺さぶる強烈な波形を乗せた音楽。
アップテンポで、血湧き肉躍るような、それでいてどこか官能的なメロディが、スタジアム全体を巨大な「重力波の嵐」として包み込んだ。
「……う、あ……ッ」
待機エリアにいた他大学の選手たちが、次々と異変をきたし始めた。
葛城姉妹の音楽ノイズによって、彼らが理性で必死に抑え込んでいた「恐れ」や「焦り」、あるいは「過剰な攻撃性」が、一気に暴走を始めたのだ。
ある者は極度に緊張し、ある者はチームメイトに突然怒鳴り散らし、またある者は焦点の定まらない目で虚空を見つめている。
彼らのEgo Cubeは、突如として発生した巨大な質量(欲求と恐怖のノイズ)に耐えきれず、激しく空間を歪め、ひび割れを起こしていた。
「……なんてことだ。
葛城姉妹、初日から容赦なくパンドラの箱を開けやがったな」
スタジアムの最上階、関係者用の観覧室。
スポーツ人類学の三枝教授は、窓から身を乗り出し、眼下で狂乱の渦に巻き込まれつつある選手たちを見て、忌々しそうに舌打ちをした。
「彼女たちの音楽は、人間の本能を強制的に引きずり出す。
猛毒ともいえる劇薬です。
……現代の綺麗なルールで自らを去勢してきたアスリートたちには、あの生々しい熱の波形が乗った音楽の干渉に耐えられるだけの『Ego Cube(器)』が育成されていない」
三枝の後ろのソファに深く腰掛けた神野太陽は、静かにコーヒーのカップを傾けながら言った。
「太陽。
あの子たち……凛ちゃんと瞬くんは、大丈夫なの?」
太陽の隣に座る深海明日美が、心配そうにグラウンドを見つめる。
彼女の持つ『母なる海』の波形でスタジアム全体のノイズを中和することもできるが、太陽はそれを制止していた。
「大丈夫だよ、明日美。
……彼らを信じよう。
彼らはもう、自分の力で重力を支配する方法を知っている」
太陽のEgo Cubeは、狂乱のスタジアムの中にあって、全く揺らぐことなく輝きを放つ「二つの波形」を正確に捉えていた。
3.絶対定数の証明
葛城姉妹の放つ強烈なノイズの嵐の中。
深海大学の選手待機エリアで、凛はゆっくりと目を開けた。
(……みんな、さっきのライブの後から、興奮している)
周囲の選手たちがパニックに陥る中、凛の身体には、不思議なほど静かな熱だけが満ちていた。
美音たちの音楽が煽る「生々しい欲求」。
それは、数日前に太陽のキャリア支援室で、古代オリンピアの風を感じながら凛がすでに『肯定』し、受け入れたものだった。
だから、怖いものは何もない。
凛は、ウィンドブレーカーのジッパーを少しだけ下げ、熱を帯びた身体に涼しい風を当てた。
『自分の女としての魅力を、存分に武器になさい』
美音の囁きが脳裏をよぎる。
凛は、スタジアムの巨大なスタンドを見上げた。
数万人の観衆。
その中から、たった一人の視線を探す。
凛のEgo Cubeは、彼が放つ強烈な「引力」を、まるで磁石のように正確に感知していた。
メインスタンドの中段。
他大学の選手たちが音楽のノイズに当てられて落ち着きをなくしている中、深海大学サッカー部のジャージを着た御影瞬は、腕を組み、微動だにせずトラックを見下ろしていた。
彼の周囲にも、葛城奏音の音楽が『嫉妬』や『焦燥』を煽ろうとまとわりついている。
だが、瞬のEgo Cubeは、そのノイズをすべて弾き返していた。
いや、弾き返しているのではない。
ノイズすらも「熱」として取り込み、自らの器の中で静かに燃やしているのだ。
(……凛。俺はここだ)
瞬の鋭い視線が、一直線に凛の身体を貫く。遠く離れたスタンドとトラック。
言葉を交わすことはおろか、表情さえはっきりと見えない距離。
だが、二人の間には、量子力学における「量子もつれ(Quantum Entanglement)」のように、確実に同期し、交感し合う絶対的なネットワークが構築されていた。
瞬の『凛のすべてを独占したい』という強烈な視線(観測)が、物理的な熱となって凛の肌を撫でる。
凛は、その視線を受け止め、ゾクッとするような快感と共に、自らの内部にある『女としての魅力と、アスリートの闘争本能』を極限まで高めていく。
E = ( A × P ) × C2
太陽の導き出したキャリアの方程式。
行動(A:走ること)と、対象(P:瞬という強大な質量)。
周囲のノイズによってどれほど空間が歪もうとも、二人は互いの存在を強烈に求め合うという『自己一致率(C)』を認識している。
『自己一致率を絶対定数に置き換える』という概念を認識できる限り、彼らのEgo Cube(器)が自壊することはない。
それどころか、葛城姉妹がもたらしたノイズ(重力波)すらも掛け算の変数として取り込み、信じられないほどの爆発的なエネルギー(E)へと変換していくのだ。
凛は、スタンドの瞬に向かって、誰にも気づかれないように、ほんのわずかに口角を上げて微笑んだ。
(見ててね、瞬。
……私の全部、あなたに見せつけてあげる)
瞬もまた、小さく顎を引き、不敵な笑みで応えた。
(ああ。
……誰にも触れさせねえくらい、圧倒的になれ)
4.第一の証明(女子100m予選)
開会式とライブパフォーマンスが終わり、熱狂の余韻が冷めやらぬまま、いよいよ競技が開始された。
トラック競技の華、女子100メートル走・予選。
「第4レーン。
風見凛さん、深海大学」
場内アナウンスで名前を呼ばれ、凛がスタートラインの手前まで進み出た。
スタンドからは、彼女の美しさと知名度に、ひと際大きな歓声が上がる。
だが、隣のレーンに立つ他大学の有力選手たちは、葛城姉妹の音楽のノイズを引きずり、過剰に息を荒げたり、不自然に身体をこわばらせたりしていた。
凛は、スタートブロックに足をかけ、静かにしゃがみ込んだ。
タータンの感触。
指先に伝わる大地の硬さ。
彼女は、目を閉じ、キャリア支援室で太陽が見せてくれた『古代オリンピアの風』を心の中に呼び起こした。
(着込んでいるものは、全部脱ぎ捨てる。
……私はただ、私の美しさと生命力を、彼に見せつけるためだけに走る)
「On your marks……」
スターターの声が響く。
凛は、ゆっくりと腰を上げた。
極限まで研ぎ澄まされた集中力。
だが、その精神状態は、かつてのような「氷」ではない。
マグマのように熱く、ドロドロとした生々しい欲求が、完璧なコントロールの下で爆発の瞬間を待っている。
スタンドから見下ろす瞬は、息をするのも忘れて彼女の姿に釘付けになっていた。
遠目からでも分かる。
今の凛が纏っているオーラは、今まで見てきたどのアスリートよりも美しく、そして……ひどく、エロティックだった。
彼女の筋肉のわずかな収縮、汗ばんだ肌の艶、スタートを待つ静寂。
そのすべてが、瞬という一人の男の闘争本能を激しく煽り立てる。
「Set……」
静寂。
数万人の観衆が、息を呑む。
タァァンッ!!!
ピストルの音が鳴った瞬間、凛の身体が、まるで矢のように空気を切り裂いて飛び出した。
「……速い!!」
実況アナウンサーが絶叫する。
スタートダッシュから、凛の動きは他の選手たちとは次元が違っていた。
力みや硬さは一切ない。
しなやかで、野生の豹のように美しく、そして圧倒的に力強いストライド。
葛城姉妹のノイズに当てられ、重圧に足を取られている他の選手たちを、凛は瞬く間に置き去りにしていく。
(……もっと。
私を見て!)
凛の心の中で、生々しい熱が加速する。
風の抵抗すらも心地よい。
自分の肉体が持つ最高のポテンシャルを、ただ愛する『誰か(P)』に見せつけるという純粋な歓喜。
彼女のEgo Cubeが放つ波形が、スタジアムの重力異常を真っ直ぐに切り裂き、美しい一本の光の軌道となってトラックを駆け抜ける。
「フィニッシュ!!
風見凛、ダントツの1位!!
タイムは……11秒28!!
なんと、予選からいきなりの自己ベスト更新、そして大会新記録です!!」
スタジアムが、割れんばかりの大歓声と拍手に包まれた。
電光掲示板に表示された信じられないタイムに、誰もが度肝を抜かれている。
フィニッシュラインを越えた凛は、ゆっくりとスピードを落とし、天を仰いで深く息を吐いた。
汗で額に張り付いた髪をかき上げ、紅潮した頬で振り返る。
その姿は、神々しいほどに美しく、スタジアム中の視線を釘付けにしていた。
だが、凛の視線は、カメラにも、どよめく観衆にも向けられていなかった。
彼女は、真っ直ぐにメインスタンドの中段。
御影瞬のいる場所を見つめ、挑戦的に、そしてひどく甘く微笑んだ。
(どう?
……私から、目を離せないでしょ)
スタンドの瞬は、フェンスを握りしめたまま、小さく震える息を吐き出した。
彼の中の『嫉妬』と『独占欲』が、最高潮に達している。
だが、それは彼を狂わせるノイズではなく、彼自身が次にピッチで爆発させるための、最高純度の「燃料」として取り込まれていた。
「……上等だ。
次は俺の番だぜ、凛」
瞬は、獰猛な笑みを浮かべ、午後に控える自身の試合に向けて、静かに闘志の炎を燃やし始めた。
5.観測者の笑み
「……これこそが、人間の持つ『原初の衝動』の爆発だ!」
三枝教授が観覧室の手すりから身を乗り出し、興奮気味に拍手を送っていた。
「神野。
君の言う通りだった。
風見は、現代のルールの下で、古代の闘争本能を完璧にコントロールしてみせたぞ」
「ええ。
彼女は自らの力で、重力を支配したんです」
太陽は、モニターに表示されている凛の完璧な正六面体の波形を見て、満足そうに微笑んだ。
「すごいわ、凛ちゃん。
……『なにか×誰か』の方程式、見事に証明されたわね」
明日美が、自分のことのように嬉しそうに微笑む。
「ああ。
だが、これはまだ一つの事例の証明に過ぎない」
太陽は、視線をトラックから、午後にサッカーの試合が行われるサブグラウンドの方へと移した。
「次は、御影瞬の番だ。
個人の肉体だけで完結する陸上とは違い、サッカーは他者と波形を繋ぐ必要がある。
……葛城姉妹のノイズで荒れ狂うスタジアムの中で、彼がどうやって自らのエゴを仲間に託し、ネットワークを構築するのか。それが課題になる」
太陽のEgo Cube「テッセラクト」が、静かに回転を続ける。
スタジアムの地下深く、あるいはこの世界を管理するネットワークのさらに奥底。
若きアスリートたちが生み出す、計算外の「愛と本能のエネルギー」が、システムに微かな、しかし確実な振動を与え始めていることを、太陽はまだ気付いていなかった。
未来を懸けたアスリートたちの熱狂は、さらなる高みへと加速していく。




