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第35話 交差する軌道と、確かな定数

1.解き放たれたスプリンター


深海大学の陸上競技専用トラック。

春の柔らかな日差しが降り注ぐ中、風見凛はスタートラインに立っていた。


「On your marks(位置について)……Set(用意)……」


タァァンッ!!


乾いたピストルの音と共に、凛の身体がバネのように弾け飛んだ。

数日前までの、見えない鉛の鎖に引き摺られるような重い走りは、そこには一切なかった。

鍛え上げられた太ももの筋肉が爆発的に収縮し、タータンを蹴り上げるたびに、彼女のしなやかな肢体が風と一体化していく。


(……軽い。

どこまでも、飛んでいけそう)


凛は、前を真っ直ぐに見据えたまま、胸の奥で心地よい熱が渦巻いているのを感じていた。

『期待』という外部からの重力に押し潰されそうになっていたひび割れたEgo Cube(器)は、今や完璧な正六面体の形を取り戻し、瑞々しい輝きを放っている。


『ただ、君が見せたい「誰か」のためだけに、解放すればいい』


太陽の低く甘い声が脳裏に蘇る。

凛の頭の中には、オリンピックのメダルも、親やコーチの顔もなかった。

ただ、グラウンドの向こう側で自分に嫉妬し、ギラギラとした目を向けてくる「あいつ(瞬)」の姿だけがあった。

彼に見せつけたい。

誰の手にも触れさせたくないと思わせるほど、圧倒的で、どうしようもなく美しい私を。


「……ハァッ!」


フィニッシュラインを駆け抜けた瞬間、凛の全身から、アスリートとしての闘争本能と、十九歳の女性としての生々しい欲求リビドーが入り混じった、鮮烈なオーラが放たれた。


「タイム、11秒42……!

風見、お前……!」


ストップウォッチを握りしめたコーチが、目を見開いて震える声を上げた。

スランプに陥っていたここ一年間で、間違いなく最高のタイムだ。

自己ベストに迫るその記録に、周囲の部員たちもどよめきを隠せない。


「……次、もう一本行きます!」


凛は、少しだけ乱れた呼吸を整えながら、凛とした声で応じた。

ウィンドブレーカーのジッパーは、今はもう喉元まで閉められてはいない。

少し開いた胸元から覗く汗ばんだ鎖骨と、走る喜びに紅潮した頬。

その姿は、ストイックな優等生ではなく、自らの魅力と本能を完全にコントロールし始めた「アスリート」のそれだった。


(もっと速く。

……彼から、目を離せなくしてやる)


凛は、隣接するサッカーグラウンドの方へチラリと視線を送り、フフッと艶やかな笑みをこぼした。



2.エゴを託す軌道


時を同じくして、隣のサッカーグラウンドでも、奇妙な静寂とどよめきが入り混じった空気が流れていた。

ミニゲーム形式の戦術練習。ビブスを着た御影瞬は、中盤の底でパスを受けた。


(……来る)


瞬の脳裏に、太陽がシミュレーションで見せた「中世モブフットボール」の泥臭い景色がよぎる。

周囲の敵選手が、一斉に瞬の足元のボールを奪いにかかる。

いつもなら、ここで瞬は圧倒的な個人技で強引に突破を図り、味方のフォローを無視して孤立していったはずだった。


「瞬!こっちだ!」


右サイドのスペースを駆け上がるチームメイトの声。

今までの瞬なら、「そのスタートじゃ遅せえ」とパスを出さなかっただろう。

だが、彼の胸の奥にあるEgo Cubeは、もはや周囲を拒絶する鋭い多面体ではなかった。

トゲは丸みを帯び、他者の波形を受け入れる準備を整えている。


(……俺のエゴを、仲間に託す)


瞬は、敵のプレッシャーをギリギリまで引きつけると、足首の僅かなスナップだけで、右サイドの広大なスペースへ向かって、柔らかく、そして正確無比なスルーパスを放った。


「え……?」


パスを受けたチームメイト自身が、一番驚いていた。

瞬のパスは、ただ速いだけではない。

受け手が最もトラップしやすく、次のプレーに移行しやすい回転とスピードが計算され尽くした、どこまでも優しい「パス」だったのだ。


「走れ!

そこからクロスだ!!」


瞬の鋭い声にハッとしたチームメイトは、一気にサイドを駆け上がり、中央へと正確なクロスを放り込んだ。それに合わせたフォワードが、見事にゴールネットを揺らす。


「……お、おい。

今の見たか?」


「御影が……味方のスピードに合わせて、完璧なパスを出したぞ……」


周囲の部員たちや監督が、信じられないものを見たような顔で固まっている。

瞬は、照れ隠しのように前髪を乱暴に掻き上げると、アシストを決めたチームメイトに向かって、ぶっきらぼうに言った。


「……遅えよ。

もっと早く出ろ。

次はもっと厳しいコースに出すからな」


「あ、ああ!

わりぃ、次はもっと早く追いつく!」


チームメイトの顔に、今までになかった「瞬との信頼の波形」が生まれ、満面の笑みがこぼれる。

瞬は小さく舌打ちをしながらも、胸の奥で今まで感じたことのない心地よい繋がり(ネットワーク)を感じていた。

孤立という殻を破り、自分のエゴを他者に委ねることで生み出される、無限の可能性の空間。


(……悪くねえな)


瞬もまた、グラウンドの金網越しに、陸上トラックを駆ける一つの美しい影を探していた。


(見てろよ、凛。

俺はもう、自分一人で逃げ回るガキじゃねえ。

……お前の視線、全部俺のパスで釘付けにしてやる)



3.方程式と受容の海


「……見事な波形の同調だ。

二人の『C(自己一致率)』は、少しずつ正の方向に上昇している」


特別キャリア支援室。

神野太陽は、モニターに映し出された凛と瞬のEgo Cubeの波形データを眺めながら、満足そうにコーヒーを口に運んだ。

二人の持つ巨大な質量(欲求と嫉妬)は、もはや周囲の空間を無秩序に歪めるノイズではなく、真っ直ぐにゴールへと向かう爆発的な推進力「Eエネルギー」へと変換されていた。


「お疲れ様、太陽。

……随分と良い顔をしているわね」


ふわりと、潮風のような心地よい香りが部屋に入ってきた。

ドアの前に立っていたのは、深みのある青いカーディガンを羽織った深海明日美しんかいあすみだった。

彼女の持つ『母なる海』の波形が、部屋の空気を一瞬にして柔らかく、優しいものに変える。


「明日美。

来てたのか」


太陽の表情が、一人の男の柔らかい顔へとスッと解ける。


「差し入れよ。

コーヒーばかりじゃ飽きるでしょ?」


明日美は、オーガニックのハーブティーの入ったタンブラーをデスクに置き、モニターのグラフを覗き込んだ。


「……すごいエネルギーのうねり。

これが、太陽が担当している学生さんたち?」


「ああ。

風見凛と、御影瞬。

……二人とも、規格外の才能と、強烈な『質量(M)』を持ったアスリートだ」


太陽は、モニターの傍らに表示させた数式を明日美に見せた。


E = ( A × P ) × C2乗


「アインシュタインの相対性理論

「E=MC2乗(エネルギー=質量×光の速さの2乗)」

をベースにした、新しいキャリア理論の方程式だよ。

……行動(A:なにか)と、対象(P:誰か)。

この二つが掛け合わさる時、人間のEgo Cubeは強大な重力を生み出す」


太陽は、低く穏やかな声で解説を始めた。


「彼らは、愛や嫉妬といった『誰かへの想い』が強すぎるあまり、その重力に押し潰されそうになっていた。

だが、自分自身の生々しい欲求を完全に肯定し、自己一致率(C)を高めた時……その歪んだ空間そのものが、莫大なエネルギー(E)へと変換されるんだ」


「……ふーん。

『A:なにか』と『P:誰か』を質量(M)。

『自己一致率』を、光の速度(C)と同じような『絶対定数』と仮定しているのね」


明日美は、感心したように頷き、そして少しだけ悪戯っぽく微笑んで太陽の顔を見上げた。


「でも、どうやってその二人に『自己一致率』を『絶対定数』に変換する概念を認識できるように導いたの?

太陽のことだから、また得意の対話とシミュレーションで理詰めしたんでしょ?」


「……いや。

今回は、少しだけ『僕自身の泥水』を使わせてもらった」


太陽は、少し気まずそうに視線を逸らし、首の後ろを掻いた。


「僕が君に対して抱いている、独占欲や……嫉妬。

そういう、男としての生々しい敗北の記憶を、彼らに投影したんだ。

そうしなければ、彼らの警戒心を解くことはできなかった」


明日美の瞳が、少しだけ驚きに見開かれた後、とろけるような優しい波形を帯びて細められた。


「……そう。

太陽も、そんなふうに醜く嫉妬して、エゴを乱してくれることがあるのね」


明日美は、太陽の胸元にそっと手を当てた。

彼女の温かい手のひらから、すべてを受容し、肯定する『海』の波形が流れ込んでくる。


「嬉しいわ。

……あなたがいつも完璧な観測者でいるのは知っているけれど。

でも、私を想って、その分厚い理性の底で『泥水』を煮えたぎらせてくれているなんて」


「……明日美」


太陽は、彼女の手を自身の大きな手で包み込み、低く甘い声で名前を呼んだ。

二人の間に流れる、深い信頼に裏打ちされた静かな熱。

太陽のEgo Cube「テッセラクト」もまた、明日美という「誰か(P)」の存在によって強烈な引力を受けながら、それを完璧な自己一致(C)によって最高に心地よい空間へと変換していた。


「……彼らのインカレ、必ず観に行きましょう。

二人が見つけた『答え』を、特等席で見届けなくちゃね」


明日美の言葉に、太陽は静かに頷き、モニターの中で寄り添うように重なり合う二つの波形を見つめた。



4.夕闇の逢瀬


その日の夕暮れ。

全ての部活の練習が終わり、人影の少なくなったキャンパスの裏手。

風見凛は、自販機で買った冷たいスポーツドリンクを首筋に当てながら、夕焼けに染まるグラウンドを見つめていた。


「……よぉ」


背後から、低くぶっきらぼうな声がした。

振り返ると、汗で髪を濡らし、スポーツバッグを肩にかけた御影瞬が立っていた。


「……瞬」


凛の声が、無意識のうちにワントーン低く、甘い響きを帯びる。


二人の視線が交差した瞬間、夕闇の空気に、ジリジリと焦げるような目に見えない火花が散った。


「お前、今日のタイム……かなり良かったらしいな。

陸上部の連中が騒いでたぜ」


瞬は、凛から少し距離を置いたまま、フェンスに背中を預けて言った。

その視線は、凛の少し開いたジャージの胸元や、汗ばんだ素肌を、隠すことなく舐めるように捉えている。


「ええ。

……神野さんが教えてくれたの。

走る邪魔だと思っていた感情も、全部エネルギーにしてしまえばいいって」


凛は、瞬の視線から逃げることなく、むしろ自らの魅力を誇示するように、一歩彼の方へと近づいた。


「瞬は?

今日の練習、随分と大人しかったじゃない。

王様が、庶民にパスを出してあげることもあるのね」


「……うるせえ。

俺は一番勝てる確率の高いプレーを選んだだけだ」


瞬は顔を背けたが、その耳が微かに赤くなっているのを凛は見逃さなかった。

互いに才能を認め合い、意地を張ってきた二人。

だが今は、太陽のシミュレーションと葛城美音の煽りによって、その意地の奥底にある「生々しい欲求」の蓋が完全に開いてしまっている。


「……ねえ、瞬」


凛は、さらに一歩近づき、瞬の顔を見上げた。

二人の距離は、互いの熱い息遣いと、汗の匂いが混じり合う官能的な距離に縮まっていた。


「インカレ……見に来てよね」


凛は、少しだけ上目遣いになり、挑発するように囁いた。


「私がトラックを走る姿から……、

一秒たりとも、目を離さないで」


ドクン、と。

瞬の心臓が激しく跳ねた。

彼女の瞳の奥にある、十九歳の女としての強烈な引力。

今まで「陸上」という殻に閉じこもっていた彼女が、初めて自分に真っ直ぐに向けてきた、純度100パーセントの「誘い」だった。


瞬は、背中を預けていたフェンスから身体を離し、凛を見下ろした。

彼の瞳には、もう迷いや焦りはなかった。

あるのはただ、目の前の女を完全に自分のものにしたいという、若く青臭い、だが本物の男としての闘争本能。


「……言われなくても、目ぇ逸らす気はねえよ」


瞬は、凛の耳元に顔を近づけ、低く唸るように囁き返した。


「俺の試合も、絶対に見に来い。

……お前の視線、全部俺のパスで独り占めしてやるからな」


ゾクッ、と。

凛の背筋に、痺れるような快感が走った。

言葉による約束ではない。

魂の奥底、Ego Cubeの最も深い部分での、エゴとエゴのぶつかり合い。

太陽の言う『なにか×誰か』の方程式が、現実の肉体を通して、強烈な化学反応を起こし始めている。


互いの熱を確かめ合うように数秒間見つめ合った後、二人は言葉を交わすことなく、それぞれの方向へと歩き出した。

振り返らなくても分かる。

自分の中に、巨大な質量(誰か)の存在が、確固たるアンカーとして打ち込まれたことを。



5.開幕へのプレリュード


その頃、キャンパスのスピーカーから、インカレ開幕を告げる公式テーマソングが流れ始めていた。

葛城姉妹が奏でる、ピアノとヴァイオリンの旋律。

それは、人間の本能を煽り、血を沸き立たせるような、美しくも狂気的なメロディだった。


『さあ、見せてちょうだい。

あなたたちが手に入れた、剥き出しの熱を』


学内の特別室で、葛城美音がピアノの鍵盤を撫でながら、窓の外の夕焼けに向かって妖艶に微笑む。

過去の重圧を乗り越え、自らの本能と自己一致の概念を認識した若きアスリートたち。

彼らの剥き出しのエゴが、強大な重力を伴って、ついに全国の猛者たちが集うインカレという未来の闘技場スタジアムへと解き放たれる。


太陽の新しいキャリア理論の方程式の証明が、今、始まろうとしていた。

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