第33話 告白と、重力の正体
1.開かれたジッパーと、甘いノイズ
翌日、特別キャリア支援室のドアが、静かに開いた。
「……失礼します」
現れた風見凛の姿を見て、デスクに座っていた神野太陽は、目には見えない強烈な「熱気」が部屋に流れ込んでくるのを感じた。
前回の面談で彼女が纏っていた、分厚い氷のような冷たさと拒絶の空気は、もうどこにもない。
「どうぞ、座ってください」
太陽が静かに促すと、凛は小さく頷き、ソファに腰を下ろした。
彼女の服装は、前回と同じ大学指定のウィンドブレーカーだった。
だが、一つだけ決定的な違いがあった。
顎の下までキッチリと閉められていたジッパーが、今日は胸元まで無造作に下げられていたのだ。
そこから覗く、華奢だが鍛え上げられた鎖骨。
わずかに汗ばんだ肌が、室内の照明を反射して艶めかしい影を作っている。
微かにだが、フローラル系の甘い香水の匂いが漂ってきた。
アスリートである彼女が、今まで決して身につけることのなかった「女の匂い」だ。
太陽の胸元にあるEgo Cube「テッセラクト」が、彼女の放つ波形を正確に捉える。
(……凄まじい質量の変化だ)
前回、彼女の器は「周囲の期待」という外部からの重力によってひび割れ、縮こまっていた。
だが今の彼女のEgo Cubeは、全く別のエネルギーによって内側からパンパンに膨れ上がっているようなイメージだ。
それは、葛城美音の言葉によってこじ開けられた、彼女自身の「十九歳の女性としての生々しい欲求」と、御影瞬に対する「焦燥と渇望」の波形だった。
その感情はあまりにも巨大な質量(引力)を持ち、彼女自身のEgo Cube(器)を、前回とは別のベクトルで激しく歪ませていた。
「今日は少し暑いですね。
……冷たいお茶のほうが良さそうです」
太陽は、彼女の火照った顔と、少し荒い呼吸を見て取り、温かいカモミールティーではなく、氷を浮かべた冷たいハーブティーをグラスに注いで差し出した。
「あ……ありがとうございます!」
凛はグラスを両手で受け取ると、乾いた喉を潤すように、コクリと一口飲んだ。
グラスを持つ彼女の指先は、微かに震えている。
「この数日間で、何か心境の変化がありましたか?」
太陽は、ソファに深く腰掛け、低く落ち着いた声で静かに問いかけた。
相手を尋問するのではなく、水面に波紋を広げるように、彼女の心の奥底に優しく触れる声のトーン。
凛は、グラスの表面についた水滴を指でなぞりながら、うつむいたまま口を開いた。
「……私、ずっと、自分の心を空っぽにしようとしてきました。
走る邪魔になる感情は、全部いらないって」
凛の胸が、ウィンドブレーカーの下で大きく鼓動する。
「でも……昨日、葛城美音さんにお会いしたんです。
彼女に、言われました。
……私の綺麗な器の中には、泥水が閉じ込められてるって。
女としての生々しい欲求や、ドロドロした感情が……」
太陽は、ピクリと眉を動かした。
(葛城美音。
……やはり、彼女が接触していたか。
相手の最も隠したい本音を暴き出し、肯定する彼女のやり方は、扱い方を間違えてしまうと場合によっては猛毒になる)
「泥水、ですか」
「はい。
……私、怖くなったんです」
凛は、顔を上げ、すがるような濡れた瞳で太陽を見つめた。
「私の中に、そんなドロドロした感情があるなんて、認めたくなかった。
でも……彼女の言う通りでした。
私、本当は……誰かに触れられたいし、綺麗だって思われたい。
私の走る姿を見て、狂うくらいに嫉妬してほしい……。
そんな、アスリートとして最低な欲求が、私の中には確かにあったんです」
凛の口から紡がれる言葉は、ひどく生々しく、そして痛切だった。
今まで「陸上」という無菌室に自分を閉じ込めてきた彼女が、初めて直面した「女としての自分」という強大な重力。
それに抗いきれず、彼女の自我は今にも押し潰されそうになっていた。
2.観測者の吐露
「……神野さんには、軽蔑されますよね。
こんな、競技と関係ない欲情に振り回されてるなんて」
凛が自嘲気味に笑い、再びうつむこうとした時だった。
「軽蔑なんて、しませんよ」
太陽の声が、凛の耳元で、今までよりもずっと低い、甘い振動となって響いた。
凛がハッとして顔を上げると、太陽はいつもより少しだけ身を乗り出し、グラスの氷を見つめていた。
その横顔には、いつもの「完璧で隙のないキャリアコンサルタント」の仮面はなかった。
そこにあったのは、どこか遠くの痛みを思い出すような、一人の「不器用な男」の顔だった。
「泥水……。
確かに、あの人らしい残酷で的確な表現ですね。
……でも、風見さん。
僕の中にも、その『泥水』がないとでも思いますか?」
「え……?」
凛は目を丸くした。
美音は言っていた。
『彼は絶対に自分のエゴを乱さない、女にとっては最低の男だ』と。
常に正解を導き出す、完璧な機械のような人間なのだと。
太陽は、組んだ両手の上に顎を乗せ、静かに微笑んだ。
「僕はキャリアコンサルタントとして、君たちを客観的に支援する立場にいます。
……でも中身は、僕もただの人間です。
ただの、一人の男なんですよ」
太陽の黄金の瞳が、真っ直ぐに凛の瞳を捕らえた。
「僕にも、深く愛している女性がいます」
ドキン、と。
凛の心臓が大きく跳ねた。
彼が自らの口で「愛している」と発した瞬間、室内の空気が一気に濃密な体温を帯びたように感じられた。
「彼女は、全てを包み込むような優しさを持った人です。
……でも、彼女が危険な目に遭いそうになった時や、誰か他の男が彼女に興味を示した時。
僕の頭の中から、論理や理性なんてものは一瞬で吹き飛びます」
太陽は、自らの胸の奥にあるEgo Cube「テッセラクト」の感触を確かめるように、シャツの上からそっと手を当てた。
「激しい嫉妬で気が狂いそうになる。
僕だけを見てほしい、誰の手にも触れさせたくない、狭い部屋に彼女を閉じ込めて独り占めしてしまいたい。
……そんな、自分でもゾッとするほど醜くて、生々しい『男としてのドロドロした欲求』が、僕の奥底にも確実に存在しているんです」
太陽の告白は、凛にとってあまりにも衝撃的だった。
いつも穏やかで、全てを受け止めてくれそうなこの人が、そんな激しく暴力的なまでの「熱」と「欲求」を持っていたなんて。
「……意外ですか?」
太陽が、少しだけ自嘲するように目を細める。
「いいえ……」
凛は、無意識のうちに首を横に振っていた。
太陽の低い声のバイブレーションが、彼が発する言葉が「嘘のない本物の感情」であることを、凛の肌に直接伝えていた。
太陽は、凛の警戒心が完全に解け、自分の言葉(過去の感情)が彼女の中に投影されたことを確認した。
「風見さん。
人間である以上、僕たちの中に『泥水』があるのは当たり前のことなんです。
……誰かを強烈に求め、誰かの視線を独占したいと願うその『熱(欲求)』は、決して汚いものではありません。
それは、人間が生きるための、最も強力で純粋なエネルギー源なんですよ」
3.方程式の変数
太陽の言葉は、凛の心の中で暴走していた巨大な重力(欲求)を、ふわりと温かく肯定してくれた。
「私の、この熱は……汚いものじゃ、ない……?」
「ええ。
君は今、その熱に蓋をして、無かったことにしようとしているから苦しいんです」
太陽は、手元のタブレット端末に、一本の線を引いた。
「アインシュタインの理論では、質量の大きな星が存在すると、その周囲の空間は重力によって歪みます。
ブラックホールというと分りやすいですかね。
……君の心の中にも、とてつもなく大きな質量(引力)を持つ男性が生まれそうなんですか?」
その瞬間、凛の頬がカッと朱に染まった。
「君が女性としての本能を自覚したことで、その人への想いという『質量』が急激に膨張した。
その重力によって、君の『走る』という行動の軌道が歪み、足が重くなっているんです。
……あの人のことだから、君に『その熱を彼にぶつけろ』みたいなことを言ったんでしょう?」
「……はい。
何で分かったんですか?
でも、そんなことしたら……
私が今まで積み上げてきた陸上の世界が、全部壊れちゃう気がして……」
凛は、ウィンドブレーカーの裾をギュッと握りしめ、震える声で答えた。
「大丈夫。
壊れたりしませんよ」
太陽は、優しく、しかし絶対的な確信を持った声で断言した。
「君の抱えるその巨大な『質量(誰かへの想い)』と、君自身の『行動(走ること)』。
この二つを掛け合わせた時、人間は限界を超えた信じられないエネルギーを生み出すことがあります。
……ただし、そのためには、感情そのものを安定させるための『定数』が必要なんです」
「定数……?」
「光の速度が宇宙のどこでも一定であるように、君の心の中にも、どんな重力にもブレない『絶対的な芯』を作らなければならない。
……それに必要なのが、『自己一致』という概念です」
太陽は、グラスの中の溶けかけの氷を見つめた。
「誰かの期待に応えるためじゃない。
誰かを魅了したい、綺麗だと思われたいという自分の『生々しい欲求』を、肯定し、納得して受け入れること。
通常は完全に一致することはありません。
……自分自身の本能と意志が少しでも一致し始めた時、君のその熱は、君を押し潰す重力ではなく、前へ進むための爆発的な推進力に変わるはずです」
太陽の言葉が、凛の身体の奥底にすとんと落ちた。
(そうだ。
私は、瞬の嫉妬する顔が見たい。
私だけを見てほしい。
そのドロドロとした感情を「悪」だと思い込み、切り捨てようとしていたから、自分の感情と矛盾を起こして苦しかったんだ)
「……私、走りたいです」
凛は、顔を上げ、太陽の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
彼女の瞳には、もう迷いや恐怖はなかった。
十九歳の女性としての色香と、トップアスリートとしての飢えたような闘争本能が入り混じった、ゾクッとするほど美しい光が宿っていた。
「彼に見せつけたい。
……誰にも触れられないくらい、速くて、綺麗な私を。
彼に、私から目を離せなくしてやりたい……!」
凛の告白。
それは、彼女が自らの内にある巨大な重力(欲求)を受け入れて、「自分の意志」でコントロールしようと決意した瞬間だった。
彼女のEgo Cubeの表面に走っていた無数のひび割れが、内側からの熱によって修復され、瑞々しく官能的な輝きを放ち始めるのを、太陽ははっきりと観測した。
4.古代オリンピアの風
「……素敵な言葉ですね、風見さん」
太陽は、満足そうに微笑むと、デスクの引き出しから小さなガラスの小瓶を取り出した。
中には、白っぽく乾いた砂が入っている。
「これは……?」
「スポーツ人類学の三枝教授から借りてきました。
古代ギリシャの競技場の跡地の砂だそうです」
太陽は、その小瓶の蓋を開け、凛の前のテーブルにそっと置いた。
「風見さん。
君のその素晴らしい『熱』を、100メートルのトラックという枠組みの中で正しく爆発させるために。
……少しだけ、この間観てきた演劇の話をしたいので聴いてくれますか?」
太陽は自分のEgo Cube「テッセラクト」をほんの少し解放して、静かに回転させ始めた。
彼が持つ異常なまでの「共感力」と「シミュレーション能力」。
それは、言葉とアーティファクト(遺物)を媒介にして、相手の脳内に圧倒的なリアリティを持った「投影の追体験」を作り出すことができる。
「目を閉じて、深く息を吸って、この砂の匂いを一緒に感じてみましょう」
太陽の低く、催眠術のように心地よい声に導かれ、凛はゆっくりとまぶたを閉じた。
すると、エアコンの効いた部屋の匂いがフッと消え、代わりに、乾いた土の匂いと、焼け焦げるような空にある太陽の匂いが鼻腔をくすぐった。
『……今から二千数百年前。
古代ギリシャのオリンピアという土地で、最初のスポーツの祭典が始まりました』
太陽の声が、脳内に直接響く。
凛の閉じた視界の裏側に、真っ青な空と、白い大理石の神殿、そして熱狂する数万の群衆の姿が鮮明に浮かび上がってきた。
『当時の競技では、現代のような機能的なウェアや、反発力のあるスパイクなんてありません。
……彼らは、神への奉納として、身に纏っている衣服を全て脱ぎ捨て、全裸で競技場に立ったんです』
「え……」
凛の頬が、カッと熱くなった。
全裸で、数万人の前で走る。現代の感覚からすれば恥辱でしかない。
だが、太陽のシミュレーションが作り出す空間には、いやらしさは微塵もなかった。
そこにあるのは、鍛え上げられた人間の肉体そのものが持つ、圧倒的で神聖な美しさだった。
『彼らは、国を背負うプレッシャーや、スポンサーの期待なんてものを背負っていなかった。
ただ、自らの肉体に宿る「生命力」を極限まで高め、自分という存在の美しさを、神と観衆に見せつけるためだけに走ったんです』
ザァァァッ……。
不意に、凛の全身を、古代の乾いた熱い風が撫でていったように感じた。
(……あ、熱い。
でも……すごく、気持ちいい)
凛は、追体験の中で、自分が着込んでいる「期待」という名の重いウィンドブレーカーや、窮屈なスパイクを、一つずつ脱ぎ捨てていくような感覚に陥った。
何も飾らない、生まれたままの魂の姿。
『……風見さん。
君も、脱ぎ捨てていいんです』
太陽の声が、耳元で甘く囁く。
『周囲の人たちのための存在である必要はない。
君のその美しい肉体と、燃え盛るような女としての熱を……ただ、君が見せたい「誰か」のためだけに、解放すればいい』
「……あっ……はぁっ……」
凛の口から、官能的な吐息が漏れた。
現実の支援室のソファに座りながら、彼女の身体は、完全に古代オリンピアの風と熱に抱かれていた。
抑圧されていた理性の蓋が完全に吹き飛び、彼女の細胞一つ一つが、走る喜びと、女としての生々しい本能の解放に歓喜して震えていた。
「……これが、私が本当に欲しかった、熱……」
凛のEgo Cubeが、きれいな正六面体の形を取り戻し、そしてかつてないほどの輝きと質量を持って、空間に定着した。
5.自己一致の認識
数分後。
太陽がシミュレーションの波形を解くと、面談室は元の静寂を取り戻した。
「……はぁっ、はぁっ……」
目を開けた凛は、全身汗だくになり、肩で激しく息をしていた。
だが、その顔つきは、ここに入ってきた時のものとはまるで違っていた。
潤んだ瞳、紅潮した頬、そして、内に秘めた生命力が弾け飛びそうなほどの、圧倒的なオーラ。
「どうでした?風見さん。
……古代ローマの雰囲気を感じれましたか?」
太陽が微笑みかけると、凛はウィンドブレーカーのジッパーをさらに大きく下げ、乱れた髪をかき上げながら、フフッと艶やかに笑った。
「最高でした。
……私、もう二度と、あんな重い鎖に縛られたくない気分です」
凛は、テーブルの上の冷たいハーブティーを一気に飲み干し、立ち上がった。
「神野さん。
……私、彼(瞬)に会いに行ってきます。
私のこの熱を、一番に見せつけてやらないと気が済まないので」
太陽は、彼女のその見事な変貌ぶりに、心底満足そうに頷いた。
「ええ。
行ってらっしゃい。
……今の風見さんなら、どんな重力も跳ね除けて、最高のスピードを出せそうです」
凛は深く一礼し、足早に支援室を後にした。
その足取りは、羽が生えたように軽く、そして力強かった。
(……これで、風見凛は『自己一致(C)』の概念を認識した。
彼女の抱える質量は、間違いなくインカレの本番で、爆発的なエネルギー(E)を生み出すだろう)
太陽は、小瓶の蓋を閉めながら、一つ息を吐いた。
凛のベクトルは整った。
だが、彼女が熱を解放し、真っ直ぐに御影瞬に向かっていったことで……今度は瞬の抱える『嫉妬の質量』が、さらに激しく空間を歪ませることになる。
方程式を完成させるためには、もう一人の天才の心を解きほぐさなければならない。
太陽は、タブレット端末に表示された、黒く尖りきった御影瞬の波形データを見つめ、静かに次なる対話のシミュレーションを進めた。




