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第32話 孤立する王様と、葛城姉妹の介入

1.キャンパスの熱狂と、波形のノイズ


深海大学の広大なキャンパスが、かつてないほどの熱狂とざわめきに包まれていた。

全日本大学選手権インカレの開幕を数週間後に控え、大会の公式アンバサダーに就任した世界的アーティスト、葛城姉妹かつらぎしまいがプロモーションのために来校したのだ。


姉の美音ミオンはピアニストとして、妹の奏音カオンはヴァイオリニストとして、世界中を熱狂の渦に巻き込んできた圧倒的なカリスマ。

二人がメディアや大学関係者に囲まれながらキャンパスの中庭を歩く姿は、まるで現実の景色から浮き上がっているかのように鮮烈で、周囲の学生たちは息を呑んでその美しさに釘付けになっていた。


特別キャリア支援室の窓からその光景を見下ろしていた神野太陽は、静かにコーヒーの入ったマグカップを置いた。


「……葛城姉妹。

まさか、大学スポーツのアンバサダーを引き受けるとはね」


太陽の胸元にあるEgo Cube「テッセラクト」が、微かに明滅した。

彼女たちの音楽には、人間の奥底にある感情を強制的に引きずり出す強烈な波形が宿っている。

かつて無間地獄への巡礼で彼女たちと行動を共にした太陽は、その力がいかに危険で、そして魅惑的であるかを誰よりも知っていた。


(あの二人が動く裏には、高い確率でヴィクトル・黒須の影がある。

……意図的なのか、ただの気まぐれなのかは分からないが、彼女たちの存在は、プレッシャーに苦しむアスリートたちのEgo Cubeに、強大な重力波ノイズをもたらすだろうな)


太陽の懸念は、数時間後、予想よりも遥かに早く、そして最悪の形で現実のものとなる。



2.天才の対談と、妹の囁き


「……で?

俺はいつまでこんな茶番に付き合わなきゃならないんだ?」


大学のレセプションルーム。

学内メディアの対談企画としてカメラの前に座らされていたサッカー部の天才MF・御影瞬は、不機嫌さを隠そうともせず、目の前に座る女性を睨みつけた。


「あら、ごめんなさい。

もう少しだけ付き合ってくれないかしら?

私、あなたのプレー、結構好きよ」


葛城奏音は、カチンと冷たい音を立ててティーカップをソーサーに置くと、小悪魔のような妖艶な笑みを浮かべた。

透き通るような白い肌と、意志の強さを感じさせる瞳。

妹である奏音は、太陽の巡礼に同行したことで人間の業と感情の深みを知り、表現者として恐ろしいほどの進化を遂げていた。

彼女のEgo Cube『ひびき』から放たれる微かな波形が、瞬の周囲に張り巡らされた「拒絶のトゲ」をいとも容易くすり抜け、彼の心の奥底へと侵入していく。


対談という名目で、学生インタビュアーが用意した「チームワークの秘訣は?」といった退屈な質問を適当にかわしていた瞬だったが、奏音と視線が交差した瞬間、背筋に奇妙な悪寒が走った。


「……アンタに俺のプレーの何が分かる」


「分かるわよ。

だってあなたの波形、すごく分かりやすいもの」


奏音は、インタビュアーに「少し休憩しましょうか」と優しく告げて部屋から退出させると、瞬に向かってスッと身を乗り出した。


「あなたはピッチの上で、いつも周りにイライラしている。

自分のパスに追いつけないチームメイトを見下して、自分一人で全てを解決しようとしてるわよね」


奏音の言葉は、太陽が言ったことと重なっていた。


「……言っておくが、あの胡散臭いメンタルトレーナーと同じような説教をするつもりなら、今すぐ帰るぞ」


瞬が立ち上がろうとすると、奏音はフフッと声を立てて笑った。


「説教なんてしないわ。

私が興味があるのは、あなたのその『苛立ち』の本当の理由よ」


奏音は、形の良い指先で自身の艶やかな唇をなぞった。


「あなた、本当はチームメイトのことなんてどうでもいいんじゃない?あなたが今、一番イライラしているのは……あの子のことでしょ?」


「……ッ!」


「あの陸上の、風見凛さん」


奏音の口からその名前が出た瞬間、瞬の全身から、隠しきれないほどの強烈な「焦燥」と「怒り」の波形が爆発した。

瞬のEgo Cubeを覆っていたトゲが、一斉に赤黒い熱を帯びて逆立つ。


「あの子、最近ずっと、あなたが嫌っているあの神野太陽のキャリア支援室に足繁く通ってるわよね。

……それも、ただのカウンセリングとは思えないくらい、熱に浮かされたような顔をして」


「……黙れ。

アイツが誰のところに行こうが、俺には関係ねえ」


瞬はギリッと奥歯を噛み締めた。

だが、奏音のEgo Cube『ひびき』は、瞬の心の中にある最も柔らかくて痛い部分、七つの大罪の一つでもある『嫉妬』の感情を、容赦なく増幅させていく。


幼馴染であり、互いに才能を認め合い、言葉にしなくても意識し合ってきた存在、風見凛。

陸上という孤独な競技の中で、張り詰めた糸のように生きてきた彼女が、最近、明らかに変わってきていることを瞬は気づいていた。

彼女の表情に微かな色が宿り、時折、誰かを想うような、ひどく女らしい息遣いを見せるようになったこと。

そしてその変化をもたらしたのが、自分ではなく、あの余裕ぶった男・神野太陽であるという事実。

それが、御影瞬というプライドの塊のような男を、ズタズタに引き裂いていたのだ。


「強がらなくていいのよ、瞬くん」


奏音は、甘く、誘惑するような声で囁いた。


「あなたがボールを手放さないのは、ピッチの上で自分が一番目立って、彼女の視線を独り占めしたいからでしょ?

……なのに、彼女の心は、あの隙のない完璧な男のほうに向かおうとしている。

だからあなたは、悔しくて、焦ってるのよ」


図星を突かれ、瞬の額に青筋が浮かぶ。


「……アイツは、ただ上手い言葉で騙してるだけだ。

凛は、あんな男に寄りかかってる場合じゃない……!」


「そう思うなら、あなたが奪い返しなさいよ」


奏音の瞳が、ゾクッとするほど蠱惑的こわくてきに光った。


「自分の欲求をごまかして、斜に構えているから足元をすくわれるのよ。

欲しいものは欲しいって、真っ直ぐに牙を剥けばいいじゃない。

……彼女に、あなたの本当の『熱』を見せつけてやりなさい」


奏音の言葉は、瞬の奥底に封じ込められていた「生々しい男としての闘争本能と欲求」に、確実に火を点けた。

彼のEgo Cubeが、嫉妬という名の巨大な質量(引力)を持ち始め、周囲の空間(重力)を激しく歪ませていくのを、奏音は満足げに見つめていた。



3.美しきピアニストの忠告


その日の夕暮れ。

部活の全体練習を終えた風見凛は、グラウンドの隅にあるベンチで一人、スポーツドリンクのボトルを見つめていた。


(……神野、太陽さん)


頭に浮かぶのは、あの静かなキャリア支援室での記憶だ。

自分の弱さを包み隠さず語ってくれた、あの低くて穏やかな声。

分厚いウィンドブレーカー越しでも肌を焼くように感じた、彼の静かな視線の温度。


キャリア支援室での面談以来、凛の中の「なにか」が確実に揺らぎ始めていた。

走るたびに、彼の言葉が蘇る。

そして、今まで「競技の邪魔だ」と押し殺してきた、誰かに触れられたい、甘えたいという十九歳の女性としての欲求が、抑えきれないほどの熱となって身体の奥で疼き始めるのだ。


(これが、私の中にある本当の熱……?

でも、こんなドロドロした感情を抱えたまま、どうやって走ればいいの?)


「あら。

隨分と難しい顔をしているのね、お姫様」


不意に、頭上から鈴を転がすような美しい声が降ってきた。

ハッと顔を上げると、そこには夕日を背に受けて立つ、一人の圧倒的な美女の姿があった。

長い髪を風に揺らし、洗練された大人の余裕と色香を漂わせる女性。

インカレのアンバサダー、姉の葛城美音だった。


「……葛城、美音さん?

どうしてここに……」


凛が慌てて立ち上がろうとすると、美音は「そのままでいいわよ」と手で制し、凛の隣に優雅に腰を下ろした。

美音の持つEgo Cube『かなで』。

それは、人間の心の奥底に眠る本音や欲求を肯定し、美しい旋律として引き出す力を持つ。

美音は、凛の汗ばんだ首筋や、陸上選手特有のしなやかで美しい脚のラインを、品定めするように見つめた。


「あなた、すごく綺麗な身体をしてる。

でも、その綺麗な器の中に、無理やり泥水を閉じ込めて、溢れないように必死に蓋をしているみたいね」


「……泥水、ですか」


「ええ。

女としての生々しい欲求や、ドロドロした感情のことよ」


美音は、フフッと笑って凛の目を覗き込んだ。


「神野太陽のカウンセリングを受けてるんでしょ?

あの人、何を話しても受け止めてくれるから大丈夫と思わせる、いい声してるわよね。

……あなたみたいな、ずっと張り詰めて生きてきた女の子が惹かれるのも無理はないわ」


凛は顔を真っ赤にして、うつむいた。


「私……別に、神野さんに惹かれてるわけじゃ……」


「嘘をつかなくてもいいのよ。

でもね、凛ちゃん。

……あの人に、女としての熱をぶつけるのはやめておいたほうがいいわ」


美音の言葉のトーンが、スッと一段階下がった。

そこには、太陽という人間を深く知る者としての、残酷なまでの真実が含まれていた。


「あの人はね、他人の痛みを理解して、共感して、最高の道筋キャリアを提示してくれるわよ。

……でも、だからこそ、女にとっては最低の男になるの」


「最低の、男……?」


凛が問い返すと、美音は皮肉っぽく微笑んだ。


「そうよ。

彼は絶対に、自分のエゴを乱さないの。

あなたがどれだけ彼を求めて、泣いてすがったとしても、彼は絶対に自分を取り乱すことなく、一番正しい『最適解』を出してあなたを慰めるわ。

……それって、女として一番虚しいことだと思わない?」


美音の言葉が、凛の胸に鋭く突き刺さる。

確かに、太陽のあの静かな瞳の奥には、どこか自分たちとは違う世界を見ているような、踏み込んではいけない「絶対的な境界線」があった。

彼が自分に向けた優しさは、あくまで「迷えるアスリートへの救済」であり、一人の女性として求められたものではなかったのだ。


「……じゃあ、私はどうすればいいんですか。

この、持て余した熱(感情)を……どうやって走る力に変えればいいのか……」


凛がすがるように問うと、美音は凛の顎にそっと指先を添え、顔を上向かせた。


「簡単よ。

あなたのその綺麗で生々しい熱をぶつけるなら……

あなたのために無様に嫉妬して、エゴを剥き出しにしてくれる男を選べばいいのよ」


美音は、グラウンドの向こう側にあるサッカー部の練習場の方へと視線を向けた。


「例えば、ずっとあなたのことをギラギラした目で追いかけている、あの不器用な彼とかね」


凛の視線の先には、グラウンドの端で荒い息を吐きながら、こちらを射殺すような目で睨みつけている御影瞬の姿があった。

太陽の冷静さとは対極にあるような、若く、青臭く、そして痛いほどの「欲求と嫉妬」の塊。


「……瞬……」


凛の口から、無意識にその名前が漏れる。


美音の言葉は、凛の心の中に眠っていた「本能」のスイッチを完全に切り替えた。

自分を正しく導いてくれる存在への憧れではなく、自分の体温を直接ぶつけ合い、互いのエゴを乱し合うことができる存在への、本能的な渇望リビドー


「いい?凛ちゃん。

好きな男の前で綺麗でいたい、触れられたいっていうドロドロした欲求を消して走るなんて、ただの機械と同じよ。

……彼が太陽に、あんなに牙を剥いて嫉妬しているのは、あなたが彼を狂わせるほど『いい女』だって証拠じゃない」


美音は、最後に凛の耳元で甘く囁き、ふわりと香水の匂いを残して立ち上がった。


「自分の女としての魅力を、存分に武器になさい。

……インカレの本番、楽しみにしてるわね」


美音が去った後も、凛はベンチから立ち上がることができなかった。

ウィンドブレーカーの下で、心臓が痛いほどに脈打っている。

グラウンドの向こうでこちらを見つめる瞬の視線が、まるで物理的な熱を持って自分の肌を撫で回しているかのような、強烈な官能的錯覚。


(私……あの熱を、全部自分の中に飲み込んで走りたい)


凛のEgo Cubeの中で、女性としての抑圧が完全に崩壊し、新たな、そしてとてつもなく巨大な質量(引力)が産声を上げた瞬間だった。



4.観測される異常な重力ノイズ


特別キャリア支援室。

太陽は、タブレット端末に表示されている『Ego Cube観測システム』のグラフを見て、険しい表情を浮かべていた。


「……なんというノイズだ。

これは、完全に一線を越えている」


画面には、風見凛と御影瞬の波形データがリアルタイムで表示されているのだが、数時間前までとは全く違う異常な数値を示していた。


凛の波形は、期待の重圧でひび割れていた状態から一転し、真っ赤に燃え盛るような「欲求と生命力」の塊となり、急激に質量を膨張させている。

そして瞬の波形は、孤立のトゲをさらに鋭くし、真っ黒な「嫉妬と闘争本能」の波形となって、凛の波形に向かって強烈な引力を放ち始めていた。


二人のEgo Cubeが持つ質量が急激に増大したことで、彼らのEgo Cubeは互いの重力に引かれ合い、激しく歪み始めている。


「葛城姉妹……。

相変わらず、人間の心の一番脆い部分を容赦なくえぐり出してくれる」


太陽は、ため息をつきながらタブレットを操作した。

宇宙にある二つの巨大な質量を持つ星が近づきすぎれば、強烈な重力波を発しながら、やがて衝突して崩壊する。

今の凛と瞬は、まさにその状態だ。

このまま互いのエゴ(嫉妬と欲求)を制御できずにぶつけ合えば、インカレの本番を前に、二人のアスリートとしての自我は完全に自壊してしまうだろう。


「引力を消すことはできない。

葛城姉妹が点けた火は、小手先の理屈じゃ消せない生々しい本能の炎だ。

……ならば、その歪んだ空間そのものを安定させる『絶対定数(自己一致)』の概念を、彼ら自身で認識して貰わなければならない」


太陽は、デスクの引き出しを開け、三枝教授から借りてきた『古代ギリシャの砂』が入った小瓶を取り出した。

二人の若きアスリートが抱える、強大すぎる才能と、剥き出しになった本能の引力。

それらをスポーツという枠組みの中で昇華させ、絶対的なエネルギーへと変換する『方程式』を完成させるため。


神野太陽は、キャリアコンサルタントとしての静かな決意を胸に、次なるシミュレーションの準備を始めた。

惹かれ合い、傷つけ合う二人の波形が、インカレという未来を懸けた闘技場に向かって、どうしようもない速度で加速していく。

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