第31話 変人教授の「原初の衝動」
1. 過去の遺物が眠る部屋
深海大学の広大なキャンパスの端。
ツタの絡まる古い煉瓦造りの校舎の地下に、その部屋はあった。
「スポーツ人類学および身体表現史研究室」
という古びた真鍮のプレートが掲げられた重厚な木のドア。
神野太陽は、短く二度ノックをした。
「……開いてるぞ。
鍵なんか掛けたためしがないからな」
野太く、どこか面倒くさそうな声が中から響いた。
ドアノブを回して足を踏み入れると、太陽は思わず足を止めた。
そこは大学の研究室というよりは、まるで時代錯誤な博物館の倉庫のようだった。
壁際までびっしりと並んだスチール棚には、古代ギリシャの壁画に描かれているような石の円盤、中世ヨーロッパの動物の膀胱を縫い合わせて作られた古びた革のボール、アフリカの部族が狩猟に使っていたと思われる木彫りの弓矢など、およそ「現代のスポーツ」とはかけ離れた歴史的なアーティファクト(遺物)が無造作に積み上げられている。
そして部屋の中央。
埃っぽい空気の中で、白衣を羽織った初老の男が、ベンチプレス用のバーベルを軽々と持ち上げていた。
白衣の下は着古したジャージ。
ボサボサに伸びた白髪混じりの髪と無精髭。
とても大学教授には見えないが、白衣の隙間から覗く丸太のような腕と分厚い胸板は、彼がただの書物オタクではないことを雄弁に物語っていた。
「失礼します。
三枝岳教授ですね。
特別キャリア支援室の特任職員として赴任した、神野太陽と申します」
太陽が丁寧に名乗ると、三枝はバーベルをラックに戻し、ドスンと重い音を立てて起き上がった。
「ああ、新任のメンタルケアの専門家か。
体育会系の連中が、また面倒なポストを作ったもんだ」
三枝は首に巻いたタオルで汗を拭いながら、太陽を値踏みするようにジロリと睨んだ。
「悪いが、俺は『メンタルトレーニング』だの『スポーツ心理学』だのといった、現代の小綺麗な学問は信用しちゃいない。
どうせ、プレッシャーを跳ね除けるためのポジティブシンキングだの、ルーティンだのを学生に吹き込んで、競技マシーンに仕立て上げるんだろう?」
三枝の口調には、明らかな敵意と、現代のスポーツ指導に対する深い苛立ちが混じっていた。
太陽は、少しも動じることなく、静かに微笑んだ。
「……ええ。
おっしゃる通りです」
「あん?」
予想外の肯定に、三枝は眉をひそめた。
「僕は、ただポジティブな言葉をかけて、結果を出させるための歯車を作りたいわけではありません。
……実は僕も、昔はスポーツに打ち込んでいたんですが、周囲の期待や『結果を出さねばならない』という重圧から逃げ出してしまった経験があるんです」
太陽は、部屋の隅にある古い革のボールに視線を落としながら、ゆっくりと口を開いた。
「あの頃は、周囲の人からどう見られているかばかり気になってしまって、僕にとって何の救いにもなりませんでした。
どんな言葉をかかられても、それが鎖のように僕の身体を縛り付けた。
……三枝教授がおっしゃる通り、小手先のメンタルケアなど、自分の限界を本気で引き出そうとしているアスリートのような人たちの前では意味がありません」
太陽の低く落ち着いた声には、嘘偽りのない「敗北の記憶」と、過去の自分への静かな悔恨が滲んでいた。
相手が学生であれ、教授であれ、太陽のアプローチは変わらない。
相手の言葉の裏にある「感情」を読み取る。
三枝が現代スポーツに対して抱いている苛立ちは、スポーツという文化の真髄を愛しているからこその「憤り」だ。
太陽は、自身の「過去」を自己開示することで、三枝の憤りに対しても「自分も不完全だ」という態度を見せることで、三枝の険しかった眼差しが、ほんの少しだけ和らいだ。
「……ふん。
経歴ばかり立派なお高くとまったコンサルタントかと思えば、随分と泥をすすったような目をしているじゃないか。
神野、と言ったな」
三枝は、乱雑に本が積まれたソファの空きスペースを手で示した。
「まあ、座れ。
それで、俺みたいな学内の厄介者に何の用だ?」
2.質量と重力のジレンマ
「ありがとうございます」
太陽はソファに腰を下ろし、真っ直ぐに三枝の目を見た。
「僕が今担当しているアスリートたちは、皆、素晴らしい才能を持っています。
ですが、その才能と、背負っている期待という名の『質量』が大きすぎるせいで、彼ら自身のEgo Cube(空間)が歪んでしまっているんです」
「質量で空間が歪む、だと?」
「ええ。
アインシュタインの相対性理論のように、強大な質量は周囲の重力を歪めます。
彼らは今、結果を出さなければならないという強烈な重力の底に沈み、本来の『走る目的』や『競技の喜び』を見失って、息をするのも苦しい状態に陥っています」
太陽の物理学を用いた比喩に、三枝は興味深そうに顎髭を撫でた。
「……面白い表現だな。
確かに、奴らは重力に押し潰されている。
だがな、神野。君は根本的な勘違いをしているぞ」
「勘違い、ですか?」
「そうだ。
君はさっき『本来の競技の喜び』と言ったな。
……スポーツの根源は、そんなお上品で綺麗なもんじゃないぞ」
三枝は立ち上がり、壁際の棚から、黒ずんでひび割れた丸い石のようなものを手に取って、太陽の前のテーブルにゴトリと置いた。
「なんだか分かるか?古代ギリシャ、第1回オリンピア祭で実際に使われていた投擲用の石だ。
……神野くん。
古代の人間が、なぜこんな重い石を遠くへ投げようとしたのか、あるいは、なぜ100メートル先のゴールに向かって全速力で走ったのか、考えたことがあるか?」
太陽は、テーブルの上の古い石を見つめた。
「……たしか、神への奉納。
と、何かで読んだことがあります」
「それもある。
だが、もっと本質的なものだ」
三枝は、太陽を見下ろすようにして、低く地を這うような声で言った。
「それは『生きるための闘争本能』であり、生命の爆発だ。
当時のオリンピアは、戦争を一時休戦してまで行われた。
彼らにとって、肉体の極限を追求することは、敵を殺すための暴力ではなく、神という絶対者の前で自らの『生々しい生命力』を証明するための儀式だった。
そこには、純粋で、暴力的なまでの『熱』があったんだよ」
三枝は、自らの分厚い胸板をドンと叩いた。
「スポーツの起源は、狩りであり、闘争だ。誰かを出し抜きたい、誰よりも速く動きたい、自分の力を誇示したい。
……そこにあるのは、理屈じゃない『原初の衝動』だ。
性的な欲求にも似た、人間の奥底に眠るドロドロとした本能。
それが、スポーツという行為の本当のエネルギー源なんだよ」
3.去勢された本能
三枝の言葉に、太陽のEgo Cube「テッセラクト」がカチリと音を立てて回るのを感じた。
(原初の衝動……生命の爆発)
それは、数日前に太陽の支援室を訪れた風見凛が、分厚いウィンドブレーカーの下に必死に隠そうとしていた「十九歳の女性としての生々しい熱」と完全にリンクするものだった。
「……だが、現代のスポーツはどうだ?」
三枝は忌々しそうに吐き捨てた。
「スポンサーの顔色、メディアの求める理想の選手像、コンプライアンス。
現代のスポーツは、商業主義と『後付けのルール』でがんじがらめになっている。
アスリートたちは、自分の中にある生々しい欲求や本能を『競技の邪魔だ』と思い込まされ、綺麗なマシーンになることを強要されている」
三枝は、太陽に顔を近づけた。
「いいか、神野。
本能に蓋をして、理性のルールだけで動く肉体は、人間本来の能力を発揮できない。
現代のアスリートがメンタルを病むのは、プレッシャーのせいじゃない。
自分自身の『原初の衝動』を去勢され、無理やり走らされているからだ」
太陽は、深く息を吸い込んだ。
三枝のスポーツ人類学の知見は、太陽のキャリア理論におけるパズルの欠けたピースを埋めてくれたように感じた。
「……おっしゃる通りです、教授」
太陽の声は、確信に満ちていた。
「彼らが重力に押し潰されているのは、自分自身の『欲求』を否定しているからです。
恋をしたい、目立ちたい、自分の物したい。
そういった生々しい欲求を全て切り捨て、『期待に応えるため』だけに走ろうとするから、Ego Cube(器)に矛盾が生じ、ひび割れてしまう」
太陽は、自身の過去の記憶を呼び起こした。
ヴィクトル・黒須がプロデュースした舞台で、市松陸がヴァレリウスの『生への執着』と『怒り』を解放し、自らのエゴを燃やし尽くした姿。
あれはまさに、ルールの中で原初の衝動を爆発させた、美しい闘争の昇華だった。
「僕は、彼らに『正しい走り方』や『プレッシャーの逃がし方』を助言するつもりはありません。
彼ら自身に、自らの『原初の衝動』を思い出させ、自分の中に眠る生々しい欲求を肯定させる必要があります」
太陽の力強い言葉に、三枝はニヤリと口角を上げた。
「ほう。言うじゃないか。
……だが、どうやってだ?現代の綺麗事に染まりきった連中に、今さら『本能を解放しろ』と言ったところで、戸惑うだけだぞ」
「教授にお願いしたいことがあります」
太陽は、テーブルの上の古代の石を指差した。
「僕のキャリアコンサルティングは、ただの対話ではありません。
僕自身の経験を語ることで、相手に過去の経験や情景を『追体験』してもらうことで、自分自身を客観視して、感情を再構築してもらう手法を取っています」
太陽は、三枝の目を真っ直ぐに見つめた。
「教授。
あなたの研究室にある、スポーツの起源を証明する遺物の数々……それを、僕に貸していただけませんか。
彼らに、古代のスタジアムの風や、中世の泥臭い熱狂を『シミュレーション』させるための、触媒として使わせて貰いたいんです」
三枝は、数秒間、太陽の顔をまじまじと見つめていたが、やがて腹の底から湧き上がるような大声を上げて笑い出した。
「ガハハハハッ!
面白い!
現代のメンタルトレーナーが、俺のガラクタを使って古代の熱を呼び覚まそうって言うのか!」
三枝は、目尻に涙を浮かべながら太陽の肩をバシッと叩いた。
「いいだろう。
好きなものを持っていけ。
……だが、中途半端な真似はするなよ。
本能の蓋を開けるってのは、パンドラの箱を開けるのと同じだ。
コントロールを間違えれば、奴らはスポーツどころか、自分の欲望に飲み込まれて自滅するぞ」
「分かっています。そこは僕の専門分野です。
……彼らの自我を安定させるための『キャリア理論の方程式』は、僕が必ず見つけ出します」
太陽は、深く頭を下げた。
『なにか』と『誰か』の方程式。
そこに、強大な重力を制御するための「絶対定数」を見つけ出すこと。
それが、太陽の今回のミッションだった。
4.孤立の王様と、尖った多面体
数時間後。
アーティファクトのいくつかを入れたキャリーバッグを引き、太陽が特別キャリア支援室に戻ってくると、ドアの前で腕組みをして壁に寄りかかっている長身の男子学生がいた。
深海大学のエンブレムが入ったジャージを着たその青年は、太陽の姿を見つけると、不機嫌そうに舌打ちをした。
「あんたが、新しいメンタルトレーナーの神野か?」
「ええ。
御影瞬くんだね。
待たせてしまって申し訳ない」
太陽が部屋の鍵を開けながら応じると、瞬は鼻で笑った。
「謝る必要はねえよ。
俺は監督に無理やり行けって言われたから来ただけだ。
俺にメンタルケアなんて必要ねえし、あんたと話すことなんて何もない」
彼は部屋に入ろうともせず、廊下で高圧的な態度をとっていた。
身長185センチ。
端正で彫りの深い顔立ちと、無駄のないしなやかな筋肉。
プロチームからも注目を集めている、深海大学サッカー部の中心的な選手だ。
だが、太陽の展開したEgo Cube「テッセラクト」の視界には、彼が放つ恐ろしく『尖った波形』がはっきりと見えていた。
(……風見凛のEgo Cubeが、重圧でひび割れた箱だとしたら、彼のそれは触る者を傷つける凶器のようだ)
御影のEgo Cubeは、周囲の波形を一切寄せ付けないように、無数の鋭いトゲを全身に生やした、異様な多面体となっていた。
「……君は、チームメイトを信じていないらしいね」
太陽は、ドアを開けたまま、背中越しに静かに言った。
御影の眉がピクリと動く。
「俺のパスのスピードと意図に追いつける奴が、今のチームにいねえだけだ。俺がボールを運んで、点を取る。それが一番勝つ確率が高い。……文句あるか?」
「文句はないよ。君の能力が突出しているのは事実なんだろう」
太陽は振り返り、御影の鋭い目を真っ直ぐに受け止めた。
「だが、君が一人で全てを抱え込もうとすればするほど、君の周囲の空間(重力)は歪んでいく。……君が本当に恐れているのは、『パスを出してミスされること』じゃない。『パスを出して、誰かと繋がることで、自分が妥協した気分になって傷つくこと』なんじゃないのかな」
太陽は珍しく直接的な言葉を投げかけた。
「……ッ、分かったような口を利くな!」
御影が一歩前に踏み出し、太陽を威圧するように見下ろした。
彼の全身から、若く、攻撃的な闘争本能と、強烈な「劣等感の裏返し」のような感情の波形が立ち昇る。
(初対面でこの過剰な攻撃性は、何だ?単なるプライドの高さだけじゃない。……彼の中に、強烈な『嫉妬』のような感情のノイズが混じっている)
太陽は、御影の波形の奥底にある、ドロドロとした黒い感情を読み取っていた。
彼は、何かに対して激しく焦り、誰かに自分を認めてほしいと渇望している。だが、その素直な欲求を表現する方法が分からず、結果として他者を拒絶するトゲを生やしているのだ。
「……今日は帰る。あんたの顔を見てたら、吐き気がしてきた」
御影は、乱暴に踵を返し、廊下を足早に去っていった。
太陽は、彼の遠ざかる背中を見送りながら、静かに支援室のドアを閉めた。
陸上の風見凛と、サッカーの御影瞬。
競技も抱える問題も全く異なる二人だが、共通しているのは「本来の欲求の扱い方を間違え、強大な重力に苦しんでいる」ということだ。
(個人競技における『自分との闘い』と、チーム競技における『他者との繋がり』。……それぞれのアプローチで、彼らの原初の衝動を呼び覚ます必要がある)
太陽は、キャリーバッグから、三枝教授に借りた「古代ギリシャのスタジアムの砂」が入った小瓶を取り出し、デスクの上に置いた。
人間の本能と抑圧。そして、空間を歪めるほどの巨大な質量が交差する、新たなキャリア支援の方法と、その証明の舞台。
『キャリアの方程式』を導き出すため、アスリートを対象とした実証が、いよいよ本格的に動き出そうとしていた。




