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第18話 相反する日常と、孤独な器

1.泥と油のアンカー


「おい陸!

そっちのパーツの研磨、終わったか?」


「はい!

今、最後のチェックをしてます!」


けたたましい機械音と、金属を削る匂いが充満する下町の町工場。

市松陸は、油にまみれた作業着の袖で額の汗を拭いながら、旋盤に向かって黙々と作業を続けていた。

ヴィクトル・黒須がプロデュースする大作舞台『剣闘士』の主演オーディションに合格し、本読み(初顔合わせ)を終えてから数日が経過していたが、陸の日常は以前と何一つ変わっていなかった。


「お前なぁ……」


工場長の権藤武が、呆れたような顔で陸の背中を叩いた。


「世界的プロデューサーの大舞台で主役を張るってのに、相変わらず油まみれで鉄なんか削ってていいのかよ。

劇団の連中も、お前が工場に出入りしてるのを見て驚いてたぞ」


「いいんです、権藤さん。

これが俺の『日常』ですから」


陸は、研磨し終えた金属パーツを丁寧に布で拭きながら、真っ直ぐに答えた。


「本読みの時……俺はまた、役の感情に飲まれそうになりました。

俺のEgo Cube(器)『憑依』は、強烈な他人の感情を自分の中に引きずり込む。

……もし俺が、役者としての虚構の世界だけで生きるようになったら、きっと俺という人間の輪郭は、あっという間に役に喰われて消えちまう」


陸は、自分の硬く、タコだらけになった手のひらを見つめた。


「だから、俺にはこの油の匂いや、金属の重さが必要なんです。

自分が『市松陸』っていう、ただの不器用な人間だってことを忘れさせないための……大切なアンカーなんです」


権藤は、陸の言葉にハッと息を呑み、やがて顔をクシャクシャにして笑った。


「……へっ。

言うようになりやがったな。

五年前、親父のプレッシャーから逃げ出してウチに転がり込んできた時は、触れば折れそうなもやしっ子だったのによ」


「権藤さんや、明日美さんが俺を救ってくれたおかげですよ」


陸が照れくさそうに笑うと、権藤は満足そうに頷いた。


「よし、今日は早めに上がれ。

この後は劇団の稽古場を使うんだろ?

しっかり声出してこい」


「はい!」


夜。

陸は、自身が所属する小さな劇団の、古びた地下稽古場に一人で残っていた。

彼がやっているのは、台本の読み込みではない。

腹筋、背筋、そして徹底的な基礎の発声練習だ。


「あー、えー、いー、うー、えー、おー、あー、おー……!」


単調な基礎練習を、汗だくになりながら何時間も繰り返す。

名門と呼ばれる市松の家系に生まれ、父から基本は叩き込まれてはいるが、彼は決して器用な役者ではない。

Ego Cube(器)の力を使えば、どんな激しい感情も瞬時に表現できる。

だが、それに頼ればいつか自分が壊れる。


(……俺は、俺のままでヴァレリウスを演じる。

そのためには、どんなに重い感情を流し込まれても絶対に割れない、頑丈なEgo Cube(器)を俺自身で作らなきゃならないんだ)


陸の瞳には、地道な努力を厭わない、愚直なまでの熱が宿っていた。

泥臭く、不器用な男の、これが戦い方だった。



2.硝子の城と、空っぽの王女


一方、陸のいる地下の稽古場とは対極にある、東京・港区の高層マンション。

眼下に広がる煌びやかな夜景を見下ろす広大なリビングで、葵は一人、冷たいミネラルウォーターを飲んでいた。


部屋はモデルルームのように美しく整頓されているが、そこには「生活の匂い」が全くなかった。

彼女の趣味で選んだ家具は一つもない。

全て、インテリアコーディネーターが「若手トップ女優・葵のイメージに合うように」と見繕った高級品ばかりだ。

クローゼットには、スタイリストが用意した最先端のブランド服が並び、スケジュール帳は分単位でびっしりと埋まっている。


だが、その中に「葵自身の意志」で選んだものは、何一つとして存在しなかった。


(……今日も、完璧だった)


葵は、暗い部屋の中でソファに身を沈めた。

今日は朝からテレビドラマの撮影、昼は女性誌の表紙撮影、夜はバラエティ番組の収録。

ドラマでは可憐で健気なヒロインを演じ、雑誌ではクールでミステリアスな表情を作り、バラエティでは共演者を立てながら適度に気の利いたコメントを返す。


周囲の大人は、口を揃えて彼女を絶賛する。


「葵ちゃんは本当に飲み込みが早い」

「完璧な理想の女優だ」と。


だが、彼らが褒めているのは、葵という人間そのものではない。

彼らが求めている「正解」を、一切のノイズなしで出力してくれる彼女の「演技」を褒めているに過ぎないのだ。


(私は、みんなが望む色に染まるだけの、透明な硝子の器……)


葵は、膝を抱え、小さくため息をついた。

幼い頃から、親や周囲の大人の顔色をうかがい、波風を立てないように「いい子」を演じ続けてきた。

いつの間にか、自分が本当は何を好きで、何に怒り、何に悲しむのか、分からなくなってしまった。

心が空っぽだからこそ、どんな役(他人の感情)でも抵抗なく自分の中に入れることができる。

それが彼女の『天才』と呼ばれる演技の正体だった。


しかし。


「……戦わなければ、俺たちは殺される。

……だが、俺は死なないッ!」


不意に、葵の脳裏に、数日前の本読みのスタジオで聞いた、市松陸の叫び声がフラッシュバックした。

荒削りで、コントロールの利いていない、不格好な演技。

だが、そこには葵が絶対に持っていない、泥臭くて熱い『本物の感情の質量』があった。


(……どうして、あんなに熱くなれるの。

どうして、あんなに自分をさらけ出せるの)


葵は、自分の胸を強く押さえた。

陸の放った圧倒的な「生への執着」と「怒り」の感情が、空っぽだった彼女の心に、消えない火傷のような痕を残していた。

それは、恐怖や戸惑いであると同時に、強烈な『渇望』でもあった。


私も、あんな風に、自分自身の魂を燃やしてみたい。

他人の期待に応えるためだけの綺麗なお人形ではなく、血の通った一人の人間として、舞台の上に立ってみたい。

葵の美しく整えられた冷たいEgo Cube(器)に、微かな、しかし確かなひび割れが入り始めていた。



3.活字の森での悪戦苦闘


翌日の夕方。

陸は、仕事を終えるとまっすぐに市立の大型図書館へと向かった。


剣闘士グラディエーター』の稽古が本格的に始まる前に、どうしても当時の歴史について自分の頭で理解しておきたかったのだ。

陸は、歴史コーナーの棚から「古代ローマ帝国の歴史」「闘技会と剣闘士」「奴隷制度の真実」といった分厚い専門書を何冊も抱え込み、閲覧席の隅に陣取った。


「……よし。

まずは、ヴァレリウスがどういう境遇で戦っていたのか、時代背景からだ」


気合いを入れて本を開いた陸だったが、数ページ読んだだけで、彼の顔は険しく歪んだ。


「……パトリキ(貴族)とプレブス(平民)の身分闘争……元老院のポピュリズム……うーん、言葉が難しすぎる」


陸は、頭を抱えて唸り声を上げた。

彼は役者としての感覚はずば抜けているが、幼いころから稽古を優先させられてきた。

親の敷いたエリートコースからドロップアウトした身であり、こうした文献を読むのは大の苦手だった。


だが、目標を持った彼は諦めることは無かった。

分からない単語があればスマートフォンで意味を検索し、ノートに不器用な字でメモを取っていく。


(……剣闘士グラディエーターってのは、ただの死刑囚や奴隷だけじゃなかったのか。

……借金を返すために、自ら志願して闘技場に上がる自由民もいた。

勝てば莫大な富と名誉、そして『自由のルディス』という木剣が与えられる……)


陸は、本の中に描かれた古代のコロッセオの想像図を見つめた。

数万人の熱狂する観客。

その熱気の中、生きるか死ぬかの極限状態で血を流す戦士たち。


(……彼らは、絶望して戦っていたわけじゃない。

生き抜いて、自由を手に入れるために、希望を持って剣を握っていたんだ)


陸の胸の奥で、ヴァレリウスの役の感情が、ほんの少しだけ輪郭を持ち始めた。

ただ怒りに任せて暴れ回る野獣ではない。

彼は、愛するエルラと共に、鎖から解き放たれて自由な空の下を歩くために、あえて死地に飛び込んだ『人間』なのだ。


「……なるほど。

少しだけ、分かってきた気がする」


陸は、ノートにペンを走らせながら小さく呟いていた。



4.嘘のない要求


同じ頃。

都内のテレビ局の楽屋で、葵は台本を片手に、珍しく集中力を欠いていた。

現在撮影中のドラマの台本ではない。

数日後に本格的な立ち稽古が始まる、舞台『剣闘士』の台本だ。


彼女が演じるのは「深淵の少女リリス」。

国を守るために、額に『虹色の石』を埋め込まれ、民衆の負の感情を全て吸収する人柱となった王女。

これまでの葵なら、「感情を失った悲劇の少女」という記号を拾い上げ、完璧な「無表情」と「儚い声色」で演じ切ればそれで終わりだった。

誰もがその完成度に拍手を送ってくれる。


だが、陸のあの「本物の熱」を見た後では、自分のやろうとしている演技が、ただの『綺麗に包装された空箱』のように思えてならなかった。


(……このままじゃ、ダメだ。

あの舞台で、彼の熱に、私のこんな薄っぺらい演技じゃ太刀打ちできない)


葵は、台本を強く握りしめた。

リリスは、本当にただ感情を失っていただけなのか?

全ての痛みを受け入れ、人形のように生きることを強要された彼女の心の奥底には、どんな「本当の感情」が隠されていたのか。

それを知るためには、ただ台本を読むだけではなく、この物語のベースとなった『真実の歴史』を知る必要がある。


「……葵?

どうしたの、珍しく険しい顔をして」


メイク直しの道具を持ったマネージャーが、不思議そうに声をかけてきた。


「次の収録まであと三十分あるから、少し休んでていいわよ」


葵は、マネージャーの顔を見つめ、そして、小さく息を吸い込んだ。


「……佐々木さん。

明日の午後、予定は空いていますか?」


「え?

明日の午後?ええと、雑誌のインタビューが一件入ってるけど……どうして?」


葵は、いつもなら絶対に言わない言葉を、はっきりと口にした。


「……そのインタビュー、キャンセルするか、別の日程にずらしてもらえませんか」


「えっ!?

葵、あなた、自分が何を言ってるのか分かってるの?

インタビューをドタキャンだなんて、そんなワガママ……」


マネージャーが慌てて抗議するが、葵の瞳は、いつもの「聞き分けのいい人形」のものではなかった。


「ワガママではありません。

……役作りのために、どうしても行きたい場所があるんです」


「役作りって……今度の舞台の?

あなたなら、台本を読めば完璧に演じられるじゃない」


「完璧じゃ、ダメなんです!」


葵は、台本を胸に抱きしめ、静かに、しかし決して譲らない強さで言った。


「私自身の心で、彼女リリスの本当の痛みを知らなきゃいけない。

……だから、明日の午後はオフにしてください。お願いします」


葵が、これほどまでに強い意志を持って自分の要求を通そうとしたのは、女優としてのキャリアの中で初めてのことだった。

マネージャーは、葵のその気迫に気圧され、やがて呆れたようにため息をついた。


「……分かったわ。

インタビューはなんとか調整する。

でも、絶対に無理はしないこと。

顔が割れないように、しっかり変装していくのよ」


「……はい!

ありがとうございます!」


葵の顔に、この日初めて、作られたものではない「本物の喜びの笑顔」が咲いた。



5.図書館の片隅で


翌日。

陸は、今日も市立図書館の同じ席で、歴史書と睨み合っていた。


「……うーん、やっぱりこの『神権政治』のシステムがよく分からねえ。

王が神の代理人として君臨するってのは、どういう精神状態なんだ……?」


頭を掻きむしり、ノートにぐちゃぐちゃと書き込みをしていると、不意に、向かいの席にコトリと鞄が置かれた。


「あの、ここ……いいですか?」


控えめな声に陸が顔を上げると、そこには、ツバの広い帽子を深く被り、黒縁の伊達メガネと大きなマスクで顔の半分以上を隠した女性が立っていた。

服装も、地味なグレーのパーカーにジーンズという、目立たない格好だ。


「あ、はい。

空いてますけど……」


陸が答えると、女性は小さく一礼して席に座り、マスクとメガネを少しだけ外した。


「……えっ!?」


陸は、思わず大声を出しそうになり、慌てて自分の口を両手で塞いだ。


「あ、葵さん……!?

なんで、こんなところに……」


周囲の目を気にして小声で尋ねる陸に対し、葵は少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。


「あなたが言ったんでしょ。

……歴史の本当の意味を理解できれば、もっと本物になれるから一緒に調べませんかって」


葵は、テーブルの上に山積みになっている、陸が借りてきた専門書を興味深そうに眺めた。


「……私も、知りたいんです。

あなたのあの『熱』がどこから来ているのか。

そして……私が演じるリリスが、本当は何を感じていたのか」


葵の真っ直ぐな視線に、陸はドギマギしながらも、大きく頷いた。


「……そうでした。

でも、葵さんなら、こんな面倒なことしなくても台本読んだだけで完璧に演じられるんじゃないですか?」


陸の率直な言葉に、葵は少しだけ伏し目がちになり、自嘲気味に笑った。


「完璧なのは、表面だけです。

……私の心の中(器)は、空っぽだから」


葵は、陸に向かって身を乗り出した。


「教えてください、市松さん。

……いえ、陸さん。

あなたが見た、あの『血と砂の景色』を。

古代のコロッセオで、彼らが何を思い、どうして戦わなければならなかったのか」


それは、ただの役作りのためだけではない。

感情を失った「深淵の少女」と、自分自身を見失っていた「空っぽの天才女優」が、自らの欠落を埋めるための、切実なSOSだった。


「……分かりました。

俺もまだ、調べ始めたばかりで手探りですけど」


陸は、自分のノートを葵の方へと押しやった。


「俺一人じゃ、難しい言葉ばっかりで頭がパンクしそうだったんです。

葵さんが手伝ってくれるなら、百人力ですよ」


陸の裏表のない、太陽のような笑顔に、葵の胸の奥がまた少しだけトクンと鳴った。

静寂に包まれた図書館の片隅。

泥臭く不器用な青年と、完璧で空虚な天才女優。

決して交わることのなかった二人の人生が、数千年前の「闘争と悲劇の歴史」を紐解くという共通の目的によって、今、はっきりと交差した。


Gaeaの起源を巡る過酷な物語が、二人の若者の「器」をどのように埋め、そしてどのような物語を生んでいくのか。


彼らの本当の『役作り』が、ここから静かに、そして熱く加速していく。

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