第19話 歴史の深層と、零れ落ちた本物の涙
1.図書館の秘密の相棒
市立図書館の奥、あまり人が寄り付かない郷土史や世界史の専門書が並ぶコーナー。
窓際の四人掛けのテーブル席が、ここ数日間の、市松陸と葵の「秘密の稽古場」となっていた。
「……お待たせしました、葵さん。
砂糖とミルクいりますか?」
陸が、紙コップのコーヒーを二つ両手に持って戻ってくると、大きな本に隠れるようにして座っていた葵が、パッと顔を上げた。
「ありがとうございます、陸さん。
私、コーヒーはブラック派です」
彼女は、変装用の伊達メガネの位置を少し直し、マスクを顎までずらして微笑んだ。
初日に見せたような「完璧に計算された笑顔」ではない。
少しだけ目元が緩んだ、年相応の、どこかホッとするような自然な笑みだった。
「どうですか、そっちの資料は。
何か分かりましたか?」
陸が向かいの席に座り、コーヒーを啜りながら尋ねる。
「ええ。
とても興味深い記述を見つけました」
葵は、分厚い歴史書の一節を指差した。
二人が顔を寄せ合う。
ほんの数十センチの距離。
葵の髪から香る微かないい匂いに、陸は内心で(距離が近い……!)とドギマギしていたが、葵本人は全く気にする様子もなく、真剣な眼差しで本を見つめている。
「闘技会……コロッセオでの殺し合いは、ただの野蛮な見世物や、権力者の娯楽のためだけに行われていたわけではないそうです」
葵の透き通るような声が、図書館の静寂に溶け込む。
「娯楽だけじゃない?じゃあ、何のために……」
「民衆の『ガス抜き』……いえ、もっと深い、魂の『浄化作用』です」
葵は、ノートに綺麗にまとめられた文字を指でなぞった。
「当時のローマ帝国は、度重なる戦争や身分格差で、民衆の間に膨大なストレスや不満……『負の感情』が溜まっていた。
それを放置すれば、国そのものが内乱で崩壊してしまう。
だから為政者たちは、闘技場という『枠』を用意したんです」
葵の説明に、陸はハッとして自分のノートを見た。
「……民衆は、血を流して戦う剣闘士の姿に、自分自身の『抑圧された感情』を重ね合わせていた……ってことか?」
「その通りです。
彼らが剣を交え、命を懸けて抗う姿を見ることで、観客は自分の中にある『誰かに勝ちたい』『理不尽に怒りたい』という闘争本能を、代理的に発散させていた。
……つまり、コロッセオは、国中に溢れる負の感情を吸収し、熱狂という形で安全に空へ逃がすための、巨大な負の感情の『昇華装置』だったんです」
2.闘争の昇華と、ルールの誕生
陸は、雷に打たれたような衝撃を受けた。
ただの殺し合いだと思っていた剣闘士たちの戦い。
だが、それは人間のどうしようもない『闘争本能』を、社会を壊さずに処理するための、悲しくも必要なシステムだったのだ。
「……人間ってやつは、どうしても自分以外の誰かと争わずにはいられない生き物なんだな」
陸は、コーヒーの紙コップを両手で包み込みながら呟いた。
「ええ。
どんなに平和な世の中を作ろうとしても、人間の中から『闘争の火種』は絶対に消えない。
……だから人類は、殺し合いの代わりに、安全に熱を放出するための『ルール』を発明したんです」
葵が、陸の目を見つめ返す。
「それが、現代に続く『スポーツ』であり、『演劇』の起源……」
「そうです」
葵は深く頷いた。
「スポーツは、決められたルールの中で闘争本能をぶつけ合い、勝敗という形で熱を昇華させる。
そして演劇は……舞台の上で役者が流す『架空の血や涙』を通して、観客の心の中にある本物の悲しみや怒りを浄化する。
……私たちがやろうとしている舞台のルーツは、二千年前のあの砂と血の闘技場に繋がっているんです」
陸の胸の奥で、Ego Cube(器)が静かに、しかし力強く波打った。
オーディションの時、彼を襲ったあの『ヴァレリウス』の怒り。
あれはただの怨念ではない。
何万人もの観客の負の感情を背負わされ、それでも生き抜こうとした、一人の人間の「純粋な生命の熱」だったのだ。
「……すごいな、葵さんは。あんな難しい本から、そこまで読み解くなんて」
陸が素直に感嘆の声を漏らすと、葵は少しだけ頬を染め、視線を伏せた。
「……陸さんが、気づかせてくれたんです。
『彼らが何を護りたかったのかを知れば、もっと本物になれる』って。
……私一人で台本を読んでいるだけじゃ、こんなこと、絶対に気づけなかった」
葵は、自分の胸にそっと手を当てた。
「私、今まで演劇を……ただの『お仕事』だとしか思っていませんでした。
監督に求められた感情を、計算して出力するだけの機械。
……でも、違ったんですね。
役者って、こんなにも重くて、尊い歴史のバトンを繋ぐ仕事だったんですね」
彼女の言葉には、確かな『温度』が宿り始めていた。
空っぽだった硝子の器に、人間が闘ってきた歴史の重みと、陸がもたらした熱が、少しずつ、しかし確実に注ぎ込まれていた。
3.深淵の少女と、感情の蓋
「……でも、一つだけ、どうしても分からないことがあるんです」
葵は、手元の台本の、自分の台詞が書かれたページを開いた。
それは、彼女が演じるヒロイン『深淵の少女』に関する記述だった。
「歴史を調べたことで、リリスがなぜ『人柱』にされたのかは分かりました。
……闘技会だけでは処理しきれなくなった民衆の巨大な負の感情を、王は、自分の娘の額に王国に津受け継がれてきた『虹色の石』を埋め込むことで、彼女一人に全て吸収させようとした」
葵の声が、微かに震える。
「台本には、リリスは『石の力で感情を失い、ただ人形のように生きている』と書かれています。
……本読みの時、私はその通りに、一切の感情を排した声で演じました。
皆さんはそれを完璧だと褒めてくれた」
葵は、陸を見上げた。
その瞳には、深い迷いと、縋るような光が揺れていた。
「でも……本当に、彼女は何も感じていなかったんでしょうか?
自分の意志を奪われ、国中のドロドロとした痛みを一人で背負わされて。
……本当に、彼女の心は『空っぽ』だったの?」
陸は、葵の問いにすぐには答えられず、じっと彼女の目を見つめ返した。
葵が今、リリスという役に重ね合わせているのは、間違いなく「葵自身の人生」だった。
親や周囲の期待に応えるために、自分の本当の感情に蓋をして、完璧な女優(人形)として生きることを強要されてきた彼女の孤独。
それは、二千年前の王女が背負わされた呪いと、痛いほどにリンクしていた。
「……葵さん。
俺は、歴史の専門家でもないし、天才役者でもないから、偉そうなことは言えないけど……」
陸は、ゆっくりと口を開いた。
「俺は、人間が『完全に感情を失う』なんてこと、絶対にないと思う」
「……え?」
「俺も昔、親父の異常な期待から逃げ出した時、自分の心を殺して、何も感じないようにして生きてた時期があった。
……でも、それは感情がなくなったわけじゃない。
これ以上自分が傷つかないように、心の奥底にある一番柔らかい部分を、分厚い壁で囲って、必死に『護っていた』だけだったんだ」
陸は、自分の胸をトントンと叩いた。
「リリスだって、同じはずだ。彼女は感情を奪われたんじゃない。
……国を守るために、自分を犠牲にしてまでみんなの負の感情を引き受けるために……自分の意志で、自分の感情を押し殺して蓋をしたんだと思う」
陸の言葉は、決して洗練されたものではなかった。
だが、その泥臭く、不器用な優しさに満ちた言葉は、葵の心の奥底を分厚い壁で囲い込み、何年も鍵をかけていた「本当の感情」の扉を、真っ直ぐにノックした。
「自らの意志で、蓋を……」
『……お父様。
私は、大丈夫です。
……この石が、皆様の痛みを吸い取ってくれるなら、私は喜んで……』
葵の脳内に、本読みで完璧に発音した自分の台詞が蘇る。
あの時、彼女は「何も感じていない記号」としてその台詞を吐いた。
だが、もし、その言葉の裏に……
「本当は痛いし、悲しいし、怖いけれど、大好きな父親や国の人々のために、必死に痛みを堪えて笑おうとしている少女」の、張り裂けそうな本心があったとしたら?
4.零れ落ちた本物の涙
「あ……」
葵の視界が、不意に歪んだ。
(おかしいな。
私、どこか痛いところなんて、ないはずなのに)
胸の奥が、ギリギリと締め付けられるように痛い。
それは、リリスの痛みであり、同時に……ずっと誰にも「助けて」と言えなかった、葵自身の本物の痛みだった。
「……私……ずっと、怖かった……」
葵の口から、無意識のうちに震える声が漏れた。
「みんなが……私の演技を褒めてくれるのが、怖かった。
……誰も、本当の私なんて見ていないのに。
……私が空っぽだってバレたら、みんな私を捨てていくんじゃないかって……ずっと、怖くて……ッ」
ポツリ。
テーブルの上に開かれた歴史書に、丸い染みができた。
「……葵さん」
陸が、目を見開く。
「ごめんなさい……私、どうしちゃったんだろう。
……涙なんて、お芝居の時以外、流したことないのに……ッ」
葵は、慌てて両手で顔を覆った。
だが、一度決壊した感情のダムは、もう二度と元には戻らなかった。
嗚咽が漏れる。肩が震える。
それは、美しい悲劇のヒロインの涙ではない。
鼻水をすすり、声を押し殺して泣く、等身大の一人の女の子の、泥臭くて本物の涙だった。
図書館の静寂の中で、葵の泣き声が微かに響く。
周囲の数人の利用者が、何事かとこちらを振り返りそうになる気配がした。
ガタッ。
陸は、慌てて席を立ち、葵の隣に移動した。
そして、自分が着ていた大きめのパーカーをバサッと脱ぐと、泣きじゃくる葵の頭からすっぽりと被せ、周囲の視線から彼女を完全に隠した。
「……陸、さん……?」
パーカーのフードの暗がりの中で、葵が涙に濡れた顔を上げる。
陸のパーカーからは、微かな油の匂いと、太陽のような温かい匂いがした。
「大丈夫です。
誰も見てませんから」
陸は、葵の背中にそっと手を置き、不器用な手つきでポンポンと優しく叩いた。
「今まで、一人で完璧な女優を背負って、ずっと我慢してきたんですよね。
……今は、全部吐き出してください。
リリスの分も、葵さんの分も」
その陸の声の、あまりの優しさと温かさに、葵の胸の奥で何かが完全に溶け落ちた。
「うぅ……っ、ひぐっ……、あぁぁ……ッ」
葵は、パーカーの中で両膝を抱え込み、子供のように声を上げて泣いた。
それは、彼女が女優になってから初めて流した、「誰のためでもない、自分自身の感情」による涙だった。
陸は、ただ黙って、彼女の背中を撫で続けた。
彼女がどれほどの重圧を背負ってきたか、彼には痛いほどに分かった。
だからこそ、今ここで彼女のEgo Cube(器)を全て空っぽにして、新しい熱を注ぎ込むためのスペースを作らなければならないのだと、直感で理解していた。
(……この人は、どこまで純粋で、優しいんだろう)
泣きじゃくりながら、葵の心の中に、今まで感じたことのない温かい感情が広がっていくのを感じていた。
私が完璧じゃなくても。
空っぽで、不器用で、泣き虫なだけの女の子でも。
この人は、絶対に私を見捨てない。
私という人間の存在を、根底から肯定し、受け入れてくれる。
それは、五年前の陸が、明日美の「母なる海」に救われた時と全く同じ、魂の救済だった。
5.新しい器と、立ち稽古の幕開け
三十分後。
すっかり泣き腫らした目で、葵はパーカーの中から顔を出した。
「……す、すみません。
私、いい大人が、図書館でこんなに泣き喚くなんて……」
鼻を赤くして恥ずかしそうに俯く彼女は、テレビで見る「完璧な若手女優・日向葵」とは別人のような、幼くて愛らしい表情をしていた。
「気にしないでください。
俺なんて、権藤さんの工場で、毎日のように怒られて半泣きになってますから」
陸が笑い飛ばしながら、自販機で買ってきた温かいココアを差し出す。
「……ありがとうございます」
葵は、両手で紙コップを包み込み、小さく口をつけた。
甘くて温かい液体が、喉を通って胃に落ちていく。
胸の奥にあった冷たくて重い氷の塊は、もうどこにもなかった。
「……陸さん」
葵は、真っ直ぐに陸の目を見た。
「私、もう『空っぽの器』じゃありません」
彼女の瞳には、かつての虚無感は消え去り、代わりに確かな「意志の火」が灯っていた。
「リリスの本当の痛みが、今の私には分かります。
……彼女の悲しみも、お父様への愛も、全部私自身の感情として、舞台の上で生きてみせます。
……陸さんの、あの『熱』に負けないくらいに」
その葵の言葉に、陸は心底嬉しそうに、ニッと歯を見せて笑った。
「はい!
楽しみにしています。
……俺も、ヴァレリウスの熱に飲まれて暴走しないように、しっかり自分を保ってぶつかりますから」
二人の間に、もう言葉は必要なかった。
同じ「自分の空洞」に悩み、歴史の真実を学ぶことで互いの弱さを補い合い、本物の感情を取り戻した二人。
この数日間の図書館での秘密の時間は、彼らをただの共演者から、魂のレベルで深く結びついた「戦友」、そして「特別な存在」へと変えていた。
「さあ、明日からはいよいよ、スタジオでの立ち稽古ですね」
陸が、テーブルの上の歴史書を片付けながら言う。
「俺、立ち位置とか動きとか、全然覚えられなくて足引っ張るかもしれないですけど……」
「大丈夫です。
私が、手取り足取りスパルタで教えてあげますから」
葵が、ココアの缶を持ったまま、悪戯っぽく微笑む。
「ええっ、お手柔らかにお願いしますよ……!」
陸が本気で焦る姿を見て、葵は今度は堪えきれずに、声を上げてクスクスと笑った。
(ああ……私、今、心から笑ってる)
葵は、自分の内側から自然と湧き上がってくる感情の温かさに、胸が一杯になった。
二人の若き役者たちが、自らのエゴを確立し、本物の感情を手に入れた。
だが、彼らがこれから挑む舞台は、ヴィクトル・黒須という稀代の興行師が仕掛けた、人間の闘争本能を極限まで引き出す「本物の闘技場」だ。
互いの熱をぶつけ合う過酷な稽古の日々が、すぐ目の前まで迫っている。
彼らはまだ知らない。
この舞台が、現実世界とGaeaのシステムを巻き込む、とてつもない特異点への入り口であることを。
春の夜の冷たい空気が心地よい、図書館の帰り道。
並んで歩く二人の肩が、時折、ほんの少しだけ触れ合っていた。




