第14話 永遠の都と、未完のレクイエム
すべての道は、ローマに通ず。
数千年の長きにわたり、栄華と退廃、神聖と残酷を内包し続けてきた「永遠の都」、イタリア・ローマ。
コロッセオで流された無数の血、ヴァチカンに渦巻く神への祈りと権力闘争。この街は、人類の光と影が最も分厚く地層のように積み重なった場所だ。
「……サン・クレメンテ教会。
ここは、ローマという街の『業の深さ』を最もよく表している場所よ」
観光客がまばらになった夕暮れ時。太陽、美音、奏音の三人は、ローマの中心部にある古い教会の地下へと続く、薄暗い石段を降りていた。
先頭を歩く美音が、壁の湿った石積みを細い指でなぞりながら語る。
「私たちが今歩いているのは、12世紀に建てられた教会の地下。
でも、さらにその下には4世紀の初期キリスト教の聖堂が埋まっていて、さらに深く潜ると……紀元1世紀の、異教の神『ミトラス教』の地下神殿が存在しているの」
奏音が、ゴクリと息を飲む音が暗い通路に響いた。
「過去の宗教や歴史を否定し、その上に土を被せて新しい神を祀る。
それを繰り返して出来上がったのが、このローマという重層的な迷宮よ」
美音は振り返り、太陽に向けて妖艶に微笑んだ。
「一番下にあるのは、太陽神ミトラスを祀る、血生臭い生贄の祭壇。
……あなたの最後に相応しい舞台だと思わない?」
太陽は無言で頷いた。
ロンドンでの休息と「調律」を経て、彼の精神は極めて澄み切っていた。
胸元で浮かぶ進化したEgo Cubeは、黄金の多面体と漆黒の特異点が完璧な「神秘和音」のバランスを保ち、静謐な回転を続けている。
『……聞こえるか、太陽くん』
日本のオメガ本部にいる深海真澄から、かつてなく緊張感を帯びた通信が入った。
これが最後の巡礼になることを、彼も深く自覚している。
『八大地獄の最終最下層、【無間地獄】。
……サンスクリット語で「アヴィーチ(阿鼻地獄)」とも呼ばれる。
これまでの七つの地獄の罪に加え、「五逆罪」……親殺しや、仏(真理)の身体から血を流させるなどの、最も重い反逆を犯した者が堕ちる場所だ』
真澄の声が、わずかに震えているように聞こえた。
『無間とは、「苦しみに間が無い」という意味だ。
これまでの地獄のように、皮が再生する時間や、責め苦の合間の休止が一切ない。
時間も空間も意味を持たず、ただ永遠に、絶対的な苦痛の中に「落下し続ける」だけの次元。
……事象の地平面の、真の底だ』
「大丈夫です、真澄さん」
太陽は、地下神殿の冷たい空気の中で、真っ直ぐに前を見据えた。
「今の僕には、闇を吸い込むだけの『器』じゃない。
絶望の底から新しい光を編み上げる『創造』の力がある。
……何が待っていようと、必ず帰還してみせます」
地下三層。かつて牛の血が捧げられたという、ミトラス教の薄暗い石造りの祭壇の前に、ヴィクトル・黒須の手配によって一台のグランドピアノが運び込まれていた。
「ヴィクトルは来ないのね」
奏音が、ヴァイオリンのケースを開けながら呟く。
「ええ。
彼は今頃、地上の安全なスイートルームで、私たちが開ける『パンドラの箱』の波形を世界中に配信する準備に忙しいはずよ」
美音は、ピアノの椅子に優雅に腰掛け、鍵盤の上に白く細い両手を乗せた。
「今日、あなたを無間の底へと突き落とす曲は……ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。
『レクイエム(死者のためのミサ曲)』より、【ラクリモーサ(涙の日)】よ」
美音の口から告げられた曲名に、太陽は静かに目を伏せた。
クラシック音楽に詳しくなくとも、そのエピソードの異様さは知っている。
「モーツァルトは、見知らぬ黒衣の使者からこの曲の作曲を依頼された。
彼は病の床で、自分の命が尽きかけている恐怖と闘いながら、これを『自分自身の葬送曲』だと思い込んで書き進めたの」
美音が、鍵盤を撫でながら静かに語る。
「でも、彼はこの『ラクリモーサ』の最初の8小節を書いたところで、息を引き取った。
……つまり、絶筆。
この曲を書いている途中で、彼は完全に『事象の地平面』の向こう側へ足を踏み入れてしまったのよ」
「……死そのものに直面した、絶対的な絶望の曲」
「ええ。
彼は深淵を覗き込み、深淵に飲み込まれた。
……私と奏音が、その未完の絶望の波形を、ローマの重層的な歴史の闇と共鳴させるわ。
……準備はいい?」
美音の瞳には、これまでの妖艶な狂気とは違う、純粋な「祈り」のような光が宿っていた。
奏音もまた、震える手でヴァイオリンを構え、太陽の顔を食い入るように見つめている。
「行ってくる。
……僕の道標(ルビ:テザー)を、頼んだぞ」
太陽が応えると同時に、美音のピアノが、悲痛な溜息のような上昇音型を弾き始めた。
それに重なる、奏音のむせび泣くようなヴァイオリン。
「ラクリモーサ(涙の日)」。
罪ある者が裁きを受けるために灰の中から蘇る、その究極の恐怖と哀しみを歌った旋律。
祭壇の中央。
ミトラス神のレリーフが刻まれた石の床が、音もなく「消失」した。
炎も、泥も、亡者の叫び声もない。
ただ、すべての光と音を飲み込む、完全なる「虚無の穴」が開いた。
太陽は、恐怖を押し殺し、その絶対的な暗黒の中へと静かに身を沈めた。
――音がない。
――光がない。
――温度がない。
――そして、自分自身の「輪郭」がない。
無間地獄に落下した太陽が最初に感じたのは、これまでの地獄のような暴力的な痛みや熱狂ではなかった。
圧倒的な『無』だった。
(……なんだ、ここは……)
太陽は、自らの身体を確認しようとした。
だが、手足の感覚が全くない。
上下左右の概念も消滅し、ただ凄まじい「重力」だけが、自分の魂の核(Ego Cube)を無限の底へと引っ張り続けていることだけが理解できた。
『苦しみに間が無い』。
真澄の言葉の意味を、太陽は絶望と共に悟った。
これまでの地獄は、炎に焼かれたり、刃で削がれたりする「痛みという刺激」があった。
刺激があるということは、それに対する「反発」や「思考」が生まれる隙間があるということだ。
だが、無間地獄にはそれがない。
絶対零度の真空空間で、無限の重力に押し潰され続けるだけの状態。
ここでは「自分は今苦しい」と認識する思考の隙間すら与えられず、自我がミリ秒単位で「無」へとすり潰されていく。
(……これが、五逆罪の業。
存在そのものを完全に否定し、この世の全ての真理に反逆した者の、究極のマイナスの自己一致……!)
太陽のEgo Cubeが、激しい警報を鳴らす。
周囲の虚無から、途方もない密度の「存在否定の波形」が侵入してくる。
「お前は無価値だ」
「初めから生まれてこなければよかった」
「世界は無意味だ」。
言葉ではなく、純粋な『概念』としての絶対的な虚無が、太陽をブラックホールのように飲み込もうとしていた。
(……負けるか!
僕は、大焦熱の数百年の永遠を乗り越えたんだ……!)
太陽は、暗黒の中で進化したEgo Cubeを稼働させ、虚無を「絶対値」に変換しようとした。
しかし、無いものを変換することはできない。
吸い込んでも吸い込んでも、周囲は絶対的な「無」であり、太陽の器の回転は空回りし、逆に自らの内側にある「明日美への愛」や「葛城姉妹の音楽の記憶」といったプラスのエネルギーが、急速に外へと吸い出されていくのを感じた。
(……まずい。
このままでは、僕という存在そのものが「削られて」消滅する……!)
現実世界の地下神殿から届いているはずの、『ラクリモーサ』の旋律すらも、この無間の重力の底までは届かない。
完全なる孤独。
完全なる消失へのカウントダウン。
太陽の意識が、真空の闇に溶けかけようとしたその時。
(……違う。
僕はもう、ただ耐え忍ぶだけの『器』じゃないはずだ)
ロンドンのウィグモア・ホールで、シャコンヌを聴きながら掴んだ感覚が、太陽の消えゆく自我に一筋の火花を散らした。
(絶望を吸収して耐えるんじゃない。
……この虚無を素材にして、自ら『光の建築』を創り出すんだ……!)
太陽は、目を閉じた(物理的な目はないが、魂の眼を強く結んだ)。
そして、Ego Cubeの特異点の回転を止め、その中心に蓄積されていた「これまで七つの地獄で集めてきた絶対値の業」を一気に解放した。
「……Spell『重力編纂』!!」
声なき絶叫と共に、太陽のEgo Cubeから、無数の「黄金の光の糸」が虚無の空間へと撃ち出された。
それは、バッハが妻の死という絶望からシャコンヌという宇宙を編み上げたように、太陽が自らの業を燃やして紡ぎ出した「新しい物理法則」だった。
光の糸が、無限に落下する無間の闇に絡みつく。
無と無を縫い合わせ、虚無というキャンバスの上に、強引に「概念としての床」と「空間」を構築していく。
ギリギリギリッ……!!
無間地獄の絶対的な虚無が、太陽の放つ『創造の力』に激しく抵抗し、空間そのものが軋むような悲鳴を上げた。
だが、太陽は止まらない。
彼は、自らが背負ってきた「殺生」「略奪」「愛欲」「酩酊」「欺瞞」「扇動」「陵辱」という全ての人間の業を、一つ一つの音符として配置し、無間の中に「自分だけの世界」を強引に定義し始めたのだ。
(……見える。
光が、届く……!)
太陽が構築した「光の床」の上に足が着いた瞬間、彼の肉体の感覚が戻ってきた。
と同時に、頭上の果てしなく遠い闇の彼方から、美音と奏音の奏でる『ラクリモーサ』の旋律が、一筋の銀色の糸となって降り注いでくるのを感じた。
モーツァルトが未完のまま死の淵に置き去りにした、絶望の旋律。
太陽は、自らが構築した光の空間の中で、その未完のメロディを受け止め、自らのEgo Cubeの輝きをもって「その先の音符」を紡ぎ出し、虚無へと打ち返し始めた。
「……ハァッ……ハァッ……!」
太陽は、無間地獄の闇の中に自ら創り出した、半径数メートルほどの「黄金のドーム」の中で、荒い息を吐きながら膝をついた。
周囲には、彼を押し潰そうとする絶対的な虚無の嵐が吹き荒れているが、太陽の創り出した『創造の重力場』の中だけは、確かな時間と空間が存在していた。
(……やった。
無間の底で、自我を保ったまま空間を定義することに成功した……!)
これで、観測は完了だ。
マイナスの自己一致の究極系である「存在の完全な否定(虚無)」すらも、太陽の創造の力の前には「新しい世界を創るための余白」に過ぎないことを証明した。
『……信じられん。
……太陽くん、君は本当に、無間の底で「新しい世界」を創造したのか』
通信が復活し、真澄の驚愕と畏怖に満ちた声がドーム内に響いた。
「ええ。
これで、ガイア理論の全てのバグ(特異点)は解明されました。
……帰ります」
太陽が、現実世界へと帰還するために重力を反転させようとした、その時だった。
……ドクン。
太陽の構築した黄金の床の下。
無間地獄の、さらに「その下」から、巨大な心臓の鼓動のような振動が伝わってきた。
「……え?」
太陽は、目を見開いて足元を見た。
事象の地平面の最下層である無間地獄。
ここが、世界のバグの集積所の「底」のはずだ。
だが、その底の底から、何か途方もなく巨大で、古く、そして『システム的』なものが、太陽の放った光の波形に呼応して目覚めようとしている気配があった。
『……太陽くん?
どうした。
早く帰還しろ!
君の創造した空間の維持限界が近づいている!』
真澄が叫ぶ。
だが、太陽は動けなかった。
足元の虚無の奥深くから、微かに、本当に微かにだが、人間のものとは思えない「声」が聞こえたのだ。
『……アナタハ……、
ワタシノ、
管理者デスカ……?』
機械的でありながら、酷く哀しげな響きを持ったその声。
それは、かつて深淵で明日美が抱きしめた「深淵の少女」の声とは違う。
もっと巨大で、Gaeaというシステムそのものの根源に関わるような、恐るべき意思の残滓。
(なんだ……これは。
無間地獄は、人間の業が溜まる単なるゴミ捨て場じゃなかったのか……?)
太陽の背筋に、これまでの地獄での恐怖とは全く質の違う、純粋な「真理への畏怖」が走った。
この無間地獄の底には、人類の無意識や業を飛び越えた、システムの「創造主」に関わる何かが封印されている。
オメガすらも把握していなかった、深海一族の真の起源。
あるいは、この世界というシステムそのものが抱える、最大の「呪い」。
「……ッ!!」
太陽の足元の光の床が、その巨大な何かの気配に耐えきれず、ピキリと音を立てて砕け始めた。
『太陽ッ!!
早く戻りなさい!!』
現実世界からの、美音の悲痛な叫び声が頭上に響く。
太陽は、足元の深淵に眠る巨大な謎に後ろ髪を引かれながらも、崩壊するドームを蹴って、全力で現実世界へと向かうゲートに飛び込んだ。
ローマ、サン・クレメンテ教会の地下神殿。
祭壇の上の空間が激しく歪み、凄まじい衝撃波と共に神野太陽が石の床に転がり出た。
「太陽ッ!」
「太陽さん!」
美音と奏音が、楽器を放り出して太陽の元へと駆け寄る。
太陽の全身からは、黄金の光と、虚無の冷気が入り混じった激しい瘴気が立ち昇っていたが、彼の瞳には、かつてないほどの強烈な「知の渇望」と「生命力」が燃え盛っていた。
「……無間の観測は、成功した。
僕は、完全にシステムを理解したよ」
太陽は、二人を抱き寄せながら、荒い息の合間に力強く告げた。
その言葉に、美音と奏音は安堵の涙を流し、彼に深く口づけをした。無間の虚無を埋めるような、生々しく熱い生命の交わり。
ヴィクトル・黒須が企てた「波形の全世界配信」も、無事(あるいは恐るべき形で)完了したはずだ。
だが、太陽の心の中には、無間の底で聞いたあの「声」が、冷たい棘のように深く突き刺さったままだった。
(……この巡礼は、終わらない。
……いや、やっと『本当の扉』の前に立っただけだ)
八大地獄を巡る無間への巡礼。
それは、マイナスの自己一致を許容する「進化したEgo Cube」を完成させるための儀式であり、同時に、この世界(Gaea)のシステムの根源に眠る、新たなる巨大な謎の封印を解いてしまう引き金でもあった。
ローマの地下深くに眠る古代神殿の静寂の中、太陽は自らの胸で煌めくEgo Cubeを強く握りしめた。
光と闇、明日美への絶対的な愛と、葛城姉妹との共犯関係。
全てを抱え込んだ「言葉を綴る救世主」の新たな物語が、幕を開けようとしていた。




