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第15話深淵の残響と、目覚めゆく神の箱

永遠の都、ローマの夜が白み始めていた。

サン・クレメンテ教会の地下神殿から地上へと戻った太陽、美音、奏音の三人は、ヴィクトル・黒須が手配した黒塗りのリムジンに乗り込み、滞在先のホテルへと向かっていた。


車内には、深い疲労と、それ以上の恐ろしいほどの充実感が漂っていた。

太陽の胸元では、進化したEgo Cubeが、無間地獄の絶対的な虚無をも取り込み、黄金の多面体と漆黒の特異点が、もはや芸術品のような完璧なバランスで静かに回転している。


「……お疲れ様でした、神野さん。

そして、お二人の『魔女』も」


運転席との仕切りを下ろし、ヴィクトルが後部座席の三人にシャンパングラスを差し出した。


「ローマでの最終公演、そして全世界への『波形配信』は、完璧な形で完了しました。

……あなた方が地下で開けたパンドラの箱のエネルギーは、今この瞬間も、ネットワークを通じて世界中の旧世代Ego Cubeへと浸透しつつあります」


ヴィクトルの瞳は、夜明けの光を反射して冷たく光っていた。


「大衆がこの『マイナスの自己一致の絶対値化』のパッチをどう受け取るか。

……救済となるか、それとも世界を終わらせる狂気の引き金となるか。

私は興行師として、特等席でこのショーの続きを見届けることにしますよ」


太陽は、シャンパングラスを受け取り、静かに答えた。


「ヴィクトル。

あなたが僕の巡礼に対してここまで興味を示してくれるとは意外でした。

一つだけ言えることは……、人間の自我エゴの強度には個人差がある。

地獄の底を覗き込んだからといって、誰もが狂気に沈むわけじゃないと願いたい……」


「ええ、分かっていますとも。

あなた方の存在がその証明ですからね」


ヴィクトルは恭しくグラスを掲げ、自らの喉を潤した。


「ヴィクトル。

私たちのワールドツアーは、これで一旦終了ね」


美音が、疲れ切った体をシートに沈めながら言った。

彼女の漆黒のドレスは、地下神殿の埃と太陽の瘴気を浴びて酷く汚れていたが、その表情には後悔も不満もなかった。


「しばらくは、公演のスケジュールを入れないでちょうだい……。

太陽の『無間の業』を、私と奏音の中で音楽として昇華させるためには、少し時間が必要になりそうなの」


「承知いたしました。

……次にお二人がステージに立つ時、世界はかつてないほどの『毒と癒やし』を求めることになっているでしょう。

その日を楽しみにしていますよ」


リムジンは、朝焼けに染まるコロッセオの横を滑るように走り抜け、最高級ホテルの車寄せへと到着した。


ホテルの重厚なドアが閉まり、スイートルームの静寂が三人を取り囲む。

これが、背徳の巡礼を共にした三人にとっての「最後の時間」だった。


「……太陽さん」


奏音が、真紅のドレスをわずかに揺らしながら、太陽の胸に飛び込んできた。

彼女の透明だったEgo Cube『響』は、今や深いガーネット色に染まり、一人の立派な「魔女」としての凄みと美しさを放っている。


「本当に、帰ってしまうのね。

……あの『完璧な女神様』のところへ」


奏音の声には、微かな寂しさと、抑えきれない嫉妬が混じっていた。


「ああ。

……僕の帰る場所は、あそこしかないんだ」


太陽は、奏音の背中に腕を回し、その熱い体温をしっかりと記憶に刻み込むように抱きしめた。


「でも、奏音。君たちの音楽がなければ、僕は第一層の地獄ですら生き残れなかった。

君たちは、僕にとってかけがえのない『共犯者』であり、最高のアーティストだ」


「……ずるい人」


奏音は、涙ぐみながら太陽の首筋に顔を埋め、最後に、狂おしいほどの愛を込めて深く歯を立てた。

チクリとした痛みと共に、太陽の中に残っていた僅かな「無間の冷気」が、彼女の身体へと吸い込まれていく。


「奏音の言う通り。

あなたは本当に、残酷で強欲な男よ」


美音が、ガウンを羽織りながらゆっくりと近づいてきた。

彼女は、太陽と奏音を引き離すことなく、後ろから太陽の背中に腕を回した。


「光の世界で女神に愛されながら、闇の世界で私たちに毒を吸わせる。

……でも、それでいいわ、太陽。あなたがその圧倒的なエゴ(重力)で世界を支え続ける限り、私たちは何度でもあなたの闇を喰らい、極上の旋律を奏でてあげる」


美音は、太陽の耳元に赤い唇を寄せ、呪いのような、そして究極の愛の告白のような言葉を囁いた。


「忘れないで、太陽。

……あなたがどれだけ光の世界で微笑もうと、あなたの魂の最も深い『底』を知っているのは、私と奏音だけよ。

……いつでも、こちら側へ堕ちてきなさい」


太陽は、二人の魔女の甘い香水と、業火のような熱気に包まれながら、静かに目を閉じた。

決して交わることのない、光の伴侶と闇の共犯者。

太陽は、その巨大な矛盾(神秘和音)を自らの内に完全に内包したまま、ヨーロッパの地を後にした。


数日後。

春の陽気に包まれた、日本の東京。

太陽は、マンションの部屋のドアを、静かに開けた。


「……お帰りなさい、太陽さん」


エントランスの向こう、陽光が差し込むリビングで、深海明日美が微笑んで立っていた。

彼女の胸元では、世界中のノイズを浄化し、循環させる『母なるマザー』のEgo Cubeが、美しく澄んだ青い光を放っている。


「……ただいま、明日美」


太陽は、手に持っていたトランクを置き、ゆっくりと彼女の元へ歩み寄った。

明日美は、太陽の顔を見上げ、その頬にそっと手を当てた。


「……随分と、遠くまで行ってきたのね。あなたの目が、前よりもずっと、ずっと深くなっている」


明日美は、太陽から漂う「匂い」に気づいていた。

それは、他の女性の香水というような単純なものではない。

人間の理解を超えた絶望、狂気、そして果てしない時間の重み。

太陽が一人で(あるいは別の誰かと共に)背負い込んできた、途方もない『闇の絶対値』の匂いだ。


だが、明日美はそれを拒絶しなかった。


「……ごめん。

僕は、君が想像もできないような、汚くて重いものをたくさん見てきた。

……君の海を、汚してしまうかもしれない」


太陽は、自らの内に渦巻く漆黒の特異点を意識し、わずかに身を引こうとした。

しかし、明日美はそれを許さず、太陽の背中に腕を回し、力強く抱きしめた。


「汚れないわ。

……だって、私の海は、あなたがその重力で繋ぎ止めてくれているからこそ、存在できるんだもの」


明日美の青いEgo Cubeの光が、太陽の進化したEgo Cubeの波形と静かに同調していく。

太陽の黄金と漆黒の多面体は、明日美の青い海を拒絶することなく、まるで宇宙空間に浮かぶ美しい惑星を受け入れるように、柔らかくその光を包み込んだ。


「あなたがどれだけ深い闇を抱えてきても、私はあなたを信じている。

……あなたは、世界を支えるために、その闇を引き受けてくれたんでしょう?」


明日美の言葉に、太陽は胸の奥が熱くなるのを感じた。


(ああ、そうか。

……美音たちが僕の『闇の底』を知っているように、明日美は僕の『光の理由』を知ってくれているんだ)


美音と奏音との背徳的な交わりは、決して明日美には語ることはできない。

それは、光の世界を守るための「必要な嘘」であり、太陽自身が永遠に背負っていくべき業だ。

だが、その業すらも、今の太陽の進化したEgo Cubeの中では、明日美への絶対的な愛と完全に同居し、一つの宇宙を形成している。


「ありがとう、明日美。

……僕は、君のいるこの世界を守るよ。

どんな代償を払ってでも」


太陽は、明日美の髪を撫で、その澄み切った唇に、優しく、深い口づけを落とした。

無間地獄の絶対零度の虚無から、ようやく真の「帰港」を果たした瞬間だった。


太陽が日本に帰還した翌日。

彼は、深海大学のさらに地下深く、地図にない「忘却の霊廟れいびょう」へと足を運んでいた。


「……見事な帰還だ、太陽くん。

君のそのEgo Cubeの波形……もはや、私や源の知るシステムを完全に超越している」


深海真澄が感嘆の声を漏らした。

彼の隣では、生命維持装置に繋がれた車椅子の上で、老いさらばえた深海源が、深い眠りの中で微かに呼吸をしている。


「ええ。

マイナスの自己一致の観測は、完了しました。ただ……」


太陽は、真澄の前に立ち、無間地獄での一部始終を報告した。

ヴィクトルの配信による大衆への影響、絶対値化の成功、そして……無間の底で自らが『創造の力』を使って空間を構築したこと。

真澄は、太陽の報告を静かに聞いていたが、太陽が最後に語った「ある事実」に、顔色を劇的に変えた。


「……無間の底で、声を聞いた、だと?」


「はい」


太陽は、あの絶対的な虚無の奥底から響いてきた、機械的で哀しげな声を正確に思い出し、真澄に告げた。


「『……アナタハ……、ワタシノ、管理者マスターデスカ……?』と。

……真澄さん。

あれは、人間の業や亡者の声ではありません。

もっと巨大で、システムそのものの根源に関わるような意思です」


真澄の瞳孔が、恐怖とも驚愕ともつかない感情で見開かれた。


「……馬鹿な。

無間地獄は、事象の地平面の最下層、ただの『特異点のゴミ捨て場』のはずだ。

そこに、システムそのものの意思が存在するなど……」


真澄は、コンソールを叩き、ホログラムの空間にGaeaの深層構造モデルを投影した。

だが、どれだけデータを検索しても、無間の底にそのような「意思」が存在する痕跡は見当たらない。


「オメガの創設者である源でさえ、そんな領域のことは何も書き残していない……!」


真澄は、隣で眠る父・源を睨みつけた。


「真澄さん。

……僕たちが『Gaea』と呼んでいるこの世界システムには、まだオメガすらも知らない、真の『創造主』が存在しているんじゃないですか?」


太陽の言葉は、氷のように冷たく、霊廟れいびょうの空気を凍りつかせた。


「深淵の少女は、ただの主記憶媒体メインメモリに過ぎなかった。

……では、その記憶媒体という存在を最初に作ったのは誰だ?

このGaeaという狂ったシステムを、人間に与えた『管理者マスター』とは何者なんだ?」


太陽の問いに、真澄は答えることができなかった。

世界を裏から支配してきた暗躍組織オメガの総帥が、自らの信じてきた世界の構造が、さらに巨大な『何者かの手のひらの上』にあった可能性に直面し、完全に絶句してしまったのだ。


「……僕が無間で『創造の力』を使ったことで、その封印の扉を叩いてしまったのかもしれない」


太陽は、自らのEgo Cubeを見つめた。

黄金の多面体と漆黒の特異点。

これは、人間の限界を超えるための進化だったが、同時に「神の領域」へとアクセスするための『鍵』になってしまったのではないか。


「……警戒を強めておこう、太陽くん」


真澄が、絞り出すような声で言った。


「もし、その無間の底にいる『何か』が目覚め、こちら側(現実世界)へ干渉してくれば……かつてのクロノス・コアの暴走など比較にならない、次元そのものの崩壊が起こる可能性もある」


「分かっています。

……もしそうなれば、僕がこの重力で、安定させるまでです」


太陽の言葉には、もはや迷いはなかった。

無間を巡礼し、全ての業を己の絶対値として取り込んだ彼にとって、恐怖はとうに克服すべき「素材」でしかなかった。


太陽が霊廟れいびょうを後にした頃、現実世界では、ヴィクトル・黒須が仕掛けた「見えない実験」が、静かに、しかし確実に世界を蝕み始めていた。


東京の路地裏。

古い雑居ビルの一室で、一人の若者が旧世代のEgo Cubeを握りしめながら、暗い部屋の隅でうずくまっていた。

彼のスマートフォンからは、葛城姉妹がローマで演奏した『ラクリモーサ』の音源がリピート再生されている。


「……ああ……。

なんだ、これは……」


若者の目は、異常な熱を帯びていた。

彼はこれまで、社会に適合できず、自分自身の純粋な悪意(マイナスの自己一致)に抗ってきた。

AI歌姫ASUMIの歌う「浄化の歌(Spell)」を聴いても、彼の中の感情は消化されることは無かった。

光が眩しすぎて、自分の惨めさが余計に浮き彫りになるだけだったからだ。


だが、この『ラクリモーサ』は違った。

曲の奥底にサブリミナルとして組み込まれた、太陽のマイナスの自己一致を絶対値化するための波形。

それが若者の脳内に入り込んだ瞬間、彼の抱えていた自己嫌悪や絶望は、決して否定されることなく、そのまま『圧倒的な肯定感エネルギー』へと反転させられたのだ。


「……俺は、狂っていてもいいんだ。

……この絶望こそが、俺の本当の『力』……!」


若者のEgo Cubeが、不気味な黒紫色の光を放ち始めた。

それは、太陽のように「光と闇を同居させる」完璧な進化ではない。

ただ単に悪意を肯定し、狂気を暴走させる『歪んだ特異点』の誕生だった。


同じような現象が、世界中のあちこちで同時多発的に発生し始めていた。

パリで、ロンドンで、モスクワで。

光のシステムに適合できなかった人々が、ヴィクトルのばら撒いた「魔女の毒」をあおり、自らの闇を自我エゴとして覚醒し始めている。


「……ふふっ。

非常におもしろい結果になりそうですね」


スイス・ジュネーヴの湖畔に建つ別荘で、ヴィクトル・黒須は、世界地図のホログラムに次々と点灯していく「ブラック・キューブ」の反応を見つめ、ワイングラスを傾けていた。


「神野さん。

あなたが地獄から持ち帰った『概念』は、見事に大衆の無意識に根付きましたよ。

……光のピア・トゥ・ピア(ガイア理論)の対になる、闇のネットワーク(アンチ・ガイア理論)として」


ヴィクトルは、タブレット端末に表示された葛城姉妹の次なるスケジュール帳を指先でなぞった。


「さあ、世界が光と闇に二分され、本当の意味での『カオス』が訪れる日も近い。

……最高のエンターテインメントの第二幕へ向けて、私も準備を進めるとしましょうか」


桜の花びらが舞う、東京の空。

マンションのベランダで、太陽は一人、風に吹かれていた。


世界は、表面上は何事もなかったかのように平穏な日常を繰り返している。

ニュースでは、AI歌姫ASUMIの新しいライブ・セッションの告知が華やかに報じられ、人々はSpell Cardを片手に、互いの心を受容し合いながら生きている。


だが、太陽の進化したEgo Cubeだけは、その平穏の裏側で蠢き始めた「無数の黒い波形」を正確に感知していた。

旧世代Ego Cubeの歪んだ覚醒。

そして、無間の底で眠る、名状しがたい『管理者』の胎動。


「……結局、僕はパンドラの箱の底を抜いてしまったのかもしれないな」


太陽は、自嘲気味に呟いた。

地獄への巡礼は、彼に「創造の力」と「絶対的な精神の器」を与えた。

だが同時に、葛城姉妹という危険な共犯者を生み出し、ヴィクトルという狂った興行師に「世界を終わらせるかもしれない劇薬」を手渡してしまったことになる。


リビングの窓越しに、明日美が淹れたてのコーヒーを持ってこちらに向かってくるのが見える。

彼女の純粋な青い光。

自分が何をしてでも守り抜かなければならない、この世界の最後の希望。


「太陽さん。

……風が冷たいわよ」


ベランダに出た明日美が、太陽の隣に並び、その肩にそっと寄り添った。


「ああ。

……でも、悪くない風だ」


太陽は、明日美の肩を抱き寄せながら、遠くの空を見つめた。


自分が背負った業は、重い。

あの地獄で数百年を過ごした記憶も、魔女たちと交わした背徳の熱も、決して消えることはない。

だが、太陽はもう、それを呪うことはなかった。

全ては、この世界という不完全で美しいシステムを支えるための、必要な『重力』なのだから。


「明日美。

……もし、いつかこの世界に、君の歌だけじゃどうにもならないほどの、途方もない闇が溢れ出したら……」


太陽の言葉に、明日美は少しだけ不思議そうに首を傾げた。


「その時は、どうするの?」


太陽は、明日美の青いEgo Cubeと、自らの黄金と漆黒のEgo Cubeを見比べ、静かに、しかし絶対の自信を持って微笑んだ。


「その時は、僕が全てを吸い込んで、新しい世界を創り直してやるさ」


言葉を綴る救世主の物語は、まだ終わらない。

無間地獄を巡礼し、神の領域へと足を踏み入れた男は、愛する者の光を背に受けながら、次なる深淵へと向けて、静かにその重力を研ぎ澄ませていた。


未来を綴る創造主の存在が少しずつ表れ始めている……。

それまでは、今世界がどうなっているのか確かめておく必要がある。

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