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第13話 霧雨の休息と、創造のシャコンヌ

「ええ、タイムズ紙の編集長には私から説明しておきました。

……昨晩のロイヤル・アルバート・ホールでの騒動は、劇場の音響システムが偶然引き起こした『特定の低周波による集団パニック』であると。

テロでも暴動でもありません」


ロンドン最高峰の格式を誇るサヴォイ・ホテルのスイートルーム。

ヴィクトル・黒須は、窓辺で優雅にイングリッシュ・ティーを傾けながら、スマートフォンの向こうの相手に冷徹な指示を飛ばしていた。


「怪我人の治療費と見舞金は全てこちらの財団で持ちます。

……ええ、もちろん。ツアーは続行しますよ。

三日後、ウィグモア・ホールを押さえました。

招待客のみの、アコースティックな再公演です」


通話を切ったヴィクトルは、ソファで横たわる神野太陽と、彼を囲む葛城姉妹の方へと振り返り、肩をすくめた。


「やれやれ。大衆の無意識をハッキングする実験とはいえ、ロンドンの観客の暴発ぶりは想定以上でした。

……ですが、事態の収拾(火消し)は完了しましたよ。

警察もメディアも、ただの音響事故として処理します」


「……さすがね、ヴィクトル。

裏工作の手際だけは世界一だわ」


美音が、皮肉めいた笑みを浮かべてヴィクトルに言った。


「私は興行師です。

最高のショーを演出し続けるためなら、いくらでも泥を被りますよ。

……さて、三日後のウィグモア・ホールでの再公演ですが、今回は『ゲート』を開く必要はありません。

神野さんには、客席でゆっくりと二人の演奏を聴いていただきます」


ヴィクトルの眼鏡の奥の瞳が、静かに太陽を捉える。


「神野さん。

あなたは昨晩の『数百年の地獄』で、完全に人間の認知の枠組みを超えてしまった。

……まずはこのロンドンの地で、そのきしんだ感覚を現世に合わせるためには二人から受ける『調律』が必要でしょう」


ヴィクトルは一礼し、

「では、私は会場の手配がありますので」

と部屋を後にした。


ヴィクトルが去った後のスイートルームは、雨のロンドンの静寂に包まれていた。

太陽は、ソファに深く背を預けたまま、テーブルの上に置かれたティーカップから立ち昇る湯気を見つめていた。


(……遅い)


それが、大焦熱地獄から帰還した太陽の、偽らざる感覚だった。

湯気が空中で形を変える速度も、窓ガラスを伝い落ちる雨粒の速度も、太陽の目にはすべてが「極端なスローモーション」に感じていた。


地獄での数百年に及ぶディレイ(時間の引き延ばし)をシラフで耐え抜いた彼の脳は、情報の処理速度が常人の何万倍にも跳ね上がってしまっていた。

人間が一生かけて処理しきれないほどの絶望と苦痛の時間を、彼は自らのEgo Cubeに完璧に圧縮・収納して帰ってきたのだ。


「太陽さん……。

ねえ、私の声、聞こえてる?」


奏音が、不安そうに太陽の顔を覗き込み、彼の頬にそっと手を当てた。


「……ああ。すまない。

聞こえているよ、奏音」


太陽が答えるまでに、彼の中では数分間にも及ぶ思考の空白があった。

身体の動きが、脳の知覚速度に全く追いついていないのだ。


「……ウラシマ効果ね。

浦島太郎が竜宮城から帰ってきたら、世界が全く違って見えたように」


美音が、太陽の隣に腰を下ろし、彼のシャツのボタンをゆっくりと外し始めた。


「今のあなたは、数百年の『永遠』をその小さな頭に詰め込んで、脳が焼き切れそうになっているのよ。

……現実の時間の流れ(リズム)を、もう一度身体に教え込んであげないと」


美音の白く冷たい手が、太陽の胸板をなぞる。

そして、奏音が太陽の背中に回り、彼を優しく抱きしめた。


「太陽さん……。

昨日は、途中で演奏を止めてごめんなさい。

……あんな怖い場所に、一人で置き去りにして……」


奏音の目から、大粒の涙がこぼれ、太陽の肩を濡らした。


「君たちのせいじゃない。

……それに、あの永遠があったからこそ、僕は自分の認知の限界を超えられた」


太陽は、ゆっくりと、ひどくゆっくりと腕を動かし、奏音の頭を撫でた。


「でも、今のあなたのEgo Cubeは、重すぎて悲鳴を上げているわ」


美音が、太陽の胸元で重鈍な光を放つ特異点を見つめ、妖艶な息を吹きかけた。


「……数百年の間に溜め込んだ大焦熱の業。

私たちが、三日三晩かけて、ゆっくりと抜いてあげる」


それは、これまでの狂気的な中和(ディープキスによる劇毒の吸引)とは違う、極めて優しく、母性的ですらある「癒やし」の調律だった。


美音の唇が、太陽の火傷の痕を一つ一つ労るように啄み、奏音の柔らかな肌が、太陽の凍りついた時間感覚をゆっくりと溶かしていく。


(……温かい)


数百年の間、白熱する炎の中で亡者の悲鳴だけを聞き続けてきた太陽にとって、二人の魔女が与えてくれる「現実の肉体の感触」と「鼓動の音」は、何よりも確かな現世への命綱だった。


太陽は、美音と奏音の甘い香水と、柔らかな体温の海に身を沈めながら、極限まで張り詰めていた神経の糸を、少しずつ緩めていった。


三日後。

ロンドンの中心部にひっそりと佇む「ウィグモア・ホール」。


室内楽の殿堂として世界中の音楽家から愛されるこのホールは、素晴らしい音響と、親密で温かみのある空間が特徴だった。

暴動の起きたアルバート・ホールとは打って変わり、今夜の客席には、ヴィクトルが厳選した招待客のみが座っている。

太陽は、ホールの2階にある関係者席に、ヴィクトルと共に座っていた。


「……神野さん。

体調はいかがですか?」


ヴィクトルが、ステージを見下ろしながら静かに問う。


「悪くありません。

美音と奏音から受けた調律のおかげで、現実の時間の流れにも適応できました」


太陽の胸元にある進化したEgo Cubeは、暴走することなく、黄金の多面体の中で漆黒の特異点を静かに回転させていた。

数百年の業は、彼の中で完全に「絶対値」として消化されていた。


「それは重畳ちょうじょう

……今夜は、地獄へのゲートは開きません。

あなたはただの観客として、彼女たちの音楽の『美しさ』だけを堪能してください」


客席の照明が落ち、ステージに美音と奏音が現れた。

これまでの禍々しいドレスとは違い、今夜の二人は純白と淡いブルーの、清廉なドレスを身に纏っていた。


「今夜の曲目は……ヨハン・ゼバスティアン・バッハ。

『無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番』より、終曲【シャコンヌ】」


ヴィクトルが、プログラムを見ながら解説する。


「本来はヴァイオリンの独奏曲ですが、今回はメンデルスゾーンが後年に追加した『ピアノ伴奏付き』の特別アレンジです。

……太陽さん、この『シャコンヌ』がどのようにして生まれたか、知っていますか?」


太陽が首を振ると、ヴィクトルはステージを見つめたまま語り続けた。


「バッハが旅行から帰宅した時、愛する妻マリア・バルバラはすでに急死し、埋葬すら終わっていました。

……その絶対的な喪失感と絶望のどん底で、バッハが宇宙に祈りを捧げるように書き上げたのが、この曲だと言われています」


ステージ上で、奏音のヴァイオリンが、深く、重々しい和音テーマを弾き下ろした。

同時に、美音のピアノが、そのテーマを下から支えるように、静かで厳かな低音を響かせる。


「……シャコンヌは、たった4小節のシンプルな下降音型テーマを、延々と繰り返す変奏曲です」


ヴィクトルの声が、音楽の邪魔にならないように静かに響く。


「しかしバッハは、そのたった一つの絶望のテーマから、なんと64回もの変奏を行い、

一つの巨大な『宇宙』を構築してしまった。

……悲しみをただ嘆くのではなく、悲しみを土台にして、天を突くような大聖堂を『建築』したのです」


奏音のヴァイオリンが、哀しみに咽び泣くような旋律から、次第に細やかなアルペジオへと姿を変えていく。

美音のピアノが、そのヴァイオリンの旋律に完璧な重力ベースを与え、楽曲の構造を立体的にしていく。


客席に座る太陽は、その音楽を聴きながら、自分の目が「音」を視覚的に捉えていることに気がついた。


(……何かが見える)


大焦熱地獄で数百年の時間を知覚した太陽の脳は、音楽をただの「音の波」としてではなく、高度な「幾何学的な建築物」として認識していた。

たった一つの絶望テーマが、組み合わさり、反転し、拡張され、一つの巨大なシステムへと成長していく過程。


(これだ……。

バッハは、自分の『マイナスの感情(妻の死)』を、ただの絶対値として抱え込んだんじゃない。

……その絶対値を使って、新しい世界を『創り出した』んだ!)


太陽の胸元で、進化したEgo Cubeが激しく脈動を始めた。

これまでの太陽のGaeaの力は「入力インプット」だった。

他者の悲しみや絶望を吸い込み、重力で鎮圧し、自らの中に「絶対値」として保存する。

それは圧倒的な許容量を持つ『器』としての力だった。


しかし、器に負の感情を溜め込むだけでは、いつか必ず破綻する。


(僕には、足りないものがあった。

……吸収したものを材料にして、新しい概念(光)を再構築する『創造の力』だ……!)


ステージでは、シャコンヌが中盤の「ニ長調」へと転調していた。

それまでの暗く深い短調の暗闇から一転して、天上の光が差し込むような、神々しいまでの長調の輝き。


奏音のヴァイオリンが、祈りのように高く、高く飛翔する。

美音のピアノが、それを優しく、しかし確固たる意志で肯定する。

二人の魔女が奏でる「絶望からの創造」の音楽。

それを全身に浴びた太陽のEgo Cubeの中で、特異点ブラックホールに圧縮されていた数百年の「大焦熱の業」が、凄まじい熱と光を伴って『再構築』され始めた。


「……神野さん。

あなたのCubeが……」


隣に座るヴィクトルが、驚愕に目を見開いた。

太陽の胸元に浮かぶEgo Cube。

その漆黒の特異点から、無数の「黄金の光の糸」が溢れ出し、多面体のフレームの中で複雑な幾何学模様を編み上げ始めたのだ。

それはまるで、シャコンヌの変奏曲のように、一つの闇から無数の光のバリエーションを生み出していく「宇宙の誕生」のようだった。


「……ヴィクトル。

僕は今まで、世界を救うためには、誰かが闇を『背負う』しかないと思っていました」


太陽は、ステージから目を離さずに、静かに、しかし圧倒的な確信を持って口を開いた。


「でも、違ったようです。

……絶望も、業も、狂気も。すべては新しい世界を創るための『素材ブロック』に過ぎない」


太陽のEgo Cubeの中で編み上げられた光の糸が、やがて一つの美しい「小さな結晶」を形作った。

それは、大焦熱地獄の白熱する業火を、完璧な秩序と美しさを持った「新しいGaeaの力」へと昇華させた証明だった。


(……入力インプットの先にあるもの。

それは、絶望からの『創造クリエイション』だ)


ステージ上では、シャコンヌが再び最初の暗いニ短調のテーマへと回帰し、圧倒的な精神の高みを持ったまま、最後の力強い和音を叩きつけて終わった。


ウィグモア・ホールは、一瞬の、本当に息を呑むような完全な静寂に包まれ、次の瞬間、観客たちの割れんばかりのスタンディングオベーションが巻き起こった。

暴動や狂気ではない。

純粋な芸術の力に魂を震わせた、人間としての正しい感動の拍手だった。


ステージ上で、美音と奏音が深くお辞儀をする。

彼女たちは、客席の2階にいる太陽の姿を見つけ、その胸元で輝く「新しい創造の光」に気づき、妖しく、そして誇らしげに微笑んだ。


「……素晴らしい。

本当に、素晴らしい実験結果だ」


ヴィクトル・黒須は、スタンディングオベーションの中でゆっくりと立ち上がり、太陽に向かって拍手を送った。


「神野さん。

あなたはついに、人間の限界を超え、世界を自らの手で『創り出す』力を手に入れた。

……これでようやく、あなたは『無間地獄』の扉を叩く資格を得たというわけですね」


太陽は、自らの内に芽生えた「創造の力」の温かい脈動を感じながら、静かに立ち上がった。

休息は、終わった。

ロンドンの霧雨の中で、魂の調律と、新たな進化を終えた太陽。


残るはついに、最終最下層。

全ての時間が止まり、全ての絶望が帰結する場所。

八大地獄の最深部、【無間むげん地獄】。


太陽と二人の魔女の巡礼は、いよいよその「特異点の底」へと向けて、最後の歩みを進めようとしていた。

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