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第12話 霧の都と、永遠を刻む狂詩曲(後編)

数十年。あるいは、数百年。


第七層【大焦熱地獄】の白熱する炎の中で、神野太陽の主観時間はすでに人間の脳が処理できる限界をとうに超えていた。


「……ハァ……ガァッ……」


全身の皮膚が炭化し、再生し、また焼かれる。

その激痛のループの中で、太陽の意識をかろうじて現実世界へと繋ぎ止めていたのは、頭上から降り注ぐニコロ・パガニーニの『カプリース第24番』の旋律だけだった。


極限まで引き延ばされた、一つの音符。

それが鳴り終わるまでの数ヶ月間、太陽はただひたすらに、進化したEgo Cubeで「純潔を汚した者たちの憎悪と快楽」という絶対値の闇を吸収し、変換し続けていた。


(……そろそろ、だ。

……曲の終盤、第11変奏のアルペジオが来るはずだ……)


永遠にも等しい拷問の中で、太陽は曲の進行だけを道標に生き永らえていた。

美音と奏音が、必ず自分を引き上げてくれる。

その確信だけが、太陽の自我を維持する唯一の重力だった。


だが、その時。


ギィィィッ……!!

バツンッ!


突然、空から降っていたヴァイオリンとピアノの音が、耳障りなノイズと共に不自然に途切れた。


「……え?」


太陽は、炎の中で頭上を見上げた。

次の音が来ない。

数年待っても、数十年待っても、あの悪魔的な旋律が再開されることはなかった。

同時に、深海真澄と繋がっていた微かな通信のノイズすらも、完全に沈黙した。


「……音楽が、消えた……?」


それは、深海用の潜水服の酸素チューブを、ハサミでプツリと切断されたのと同じだった。

太陽は、大焦熱地獄の「永遠の時間の檻」の中に、完全に一人で置き去りにされたのだ。


その頃、現実世界のロンドン、ロイヤル・アルバート・ホール。

客席は、ヴィクトリア朝の狂気を再現したかのような、血に飢えた暴動の坩堝るつぼと化していた。


「壊せぇぇっ!

あの偽善者どもを、引き摺り下ろせぇぇっ!!」


「私の中の獣が、血を求めている……っ!!」


ヴィクトル・黒須が美音たちの音楽に仕掛けた「無意識のハッキング」。

それが、ロンドン市民の心の奥底に眠っていた「抑圧への反発と暴力衝動」を、想定以上の規模で暴発させてしまったのだ。


理性を失い、獣のように眼を血走らせた観客たちが、次々とステージに殺到する。

彼らは美音の弾くグランドピアノによじ登り、警備員たちに殴りかかり、暴徒と化していた。


「お姉ちゃんッ!

危ない!」


奏音が、襲いかかってきた暴徒の一人をヴァイオリンのケースで殴り飛ばし、美音の手を引いた。


「くっ……!

演奏が、まだ終わっていないのに……!」


美音は、血の滲む唇を噛み締め、劇場の床下を睨みつけた。

このままでは、太陽は永遠の時間の底に取り残されてしまう。

もう一度鍵盤に向かおうとしたその時、背後から漆黒のスーツの男が二人の腕を強引に掴んだ。


「ここまでです、お二人とも。

……すぐに地下の車へ避難を!」


ヴィクトル・黒須だった。彼は暴動の熱気の中でも全く表情を変えず、冷徹に事態を収拾しようとしていた。


「離して、ヴィクトル!

太陽がまだ、地獄の底にいるのよ!」


美音がヒステリックに叫び、ヴィクトルの頬を平手打ちした。


「分かっています!

だが、ここであなた方が群衆に引き裂かれれば、彼を助け出す手段は永遠に失われる!

……来なさい!!」


ヴィクトルは、美音の抵抗を力ずくでねじ伏せ、奏音と共にステージ袖の隠し通路へと二人を突き飛ばした。


「太陽さん……!

太陽さんッ!!」


奏音の絶望的な悲鳴が、暴動の轟音にかき消されていく。

ゲートを開くプリズムであった二人の魔女がステージから離れた瞬間、物理世界と事象の地平面を繋いでいた「重力の糸」は、完全に断ち切られたのだった。


「……アァァッ……!

グ、アァァァッ!!」


大焦熱の底で、太陽は絶叫していた。

音楽が消え、絶対的な永遠に隔離された瞬間。

進化したEgo Cubeの変換処理が限界を突破し、吸収した莫大な「マイナスの絶対値」が太陽の自我を内側から食い破り始めた。


(帰れない。

……もう、二度と……明日美の元にも……美音たちの元にも……!)


心が折れた。

数百年の苦痛に耐えてきた鋼の理性が、砂のように崩れ去っていく。

太陽の身体が、白熱する炎の中にドロドロと溶け始め、彼自身が大焦熱地獄の「亡者」の一人に成り下がろうとしていた。


その時だった。


『……随分と、不格好な死に様だな。

新世代の若造』


炎のノイズではない。

明確な、人間の男の声だった。


「……!?」


太陽が溶けかけた視界を向けると、白熱する業火のど真ん中に、一人の男が立っていた。

擦り切れた灰色のコート。

年代物の丸眼鏡。

そして、その胸元には、太陽のものよりもさらに古く、無骨な真鍮製の「初期型Ego Cube」が鈍く光っていた。


「あなたは……」


『私の名前は……、とうに忘れた。

オメガがまだ「真理の探求」を夢見ていた時代に、この深淵に送り込まれ……そして、帰る道を失った名もなき観測者の一人だ』


男は、周囲の白熱の炎を、自身のEgo Cubeから放つ微弱な「灰色の中和場」で弾き返しながら、太陽を見下ろした。


『外部からの「命綱テザー」が切れたようだな。

……哀れだが、君もこれで私と同じだ。

この永遠の責め苦の中で、発狂することも死ぬことも許されず、ただひたすらに人間の業を観測し続けるだけの「石」になるのだよ』


男の目には、絶望すらもとうに風化した、完全な虚無が宿っていた。

彼は、外部の助けを失った時点で、太陽の運命が決まったと確信していた。


「……ふざ、けるな……!」


太陽は、ドロドロに溶けかけた腕で、地面の灼熱の泥を掴んだ。


「僕は……石になんか、ならない。

……待っている、人がいるんだ……!」


『無駄だ。

事象の地平面の重力は絶対だ。

外部からの命綱テザーなしに、内部から自力でゲートを開くことなど、物理的に不可能だ。

……諦めて、受け入れろ』


「不可能じゃ、ない……っ!」


太陽は、震える手で自らの胸のEgo Cubeを強く握りしめた。

進化したEgo Cube。黄金の多面体の中心にある、漆黒の特異点。

外部の引力がないなら、自分自身が「重力源」になればいい。


「教えてやるよ、先輩。

……現代のEgo Cubeは進化してるってことを……っ!」


太陽は、目を閉じ、自らの内宇宙の深淵へと意識を沈めた。

彼の中には、これまでの地獄で吸収してきた「殺生、略奪、愛欲、酩酊、欺瞞、扇動」そして「純潔の蹂躙」という、途方もない質量を持った人間の業(マイナスの絶対値)が圧縮されている。

太陽は、その恐るべき質量の塊(特異点)の回転を、意図的に暴走させた。


『何をする気だ!?

自爆でもする気か!』


灰色の男が、驚愕の声を上げる。


「自爆じゃない。……特異点の、反転だ!」


太陽は、内側に極限まで圧縮した「闇の質量」を、一気に外側へと向けて爆発させた。

ビッグバンのような凄まじいエネルギーの奔流。

プラスとマイナスの概念が崩壊し、大焦熱地獄の空間そのものが、太陽を中心にしてバリバリと音を立ててひび割れていく。


「外部からの引力で引っ張り上げてもらうんじゃない……!

僕自身が、この地獄の底から現実世界あっちの空間を引きずり下ろして繋げてやるんだよぉぉっ!!」


太陽のEgo Cubeから、漆黒と黄金の閃光が放たれた。

それは、事象の地平面のルールを完全に無視した、傲慢極まりない「人外の力」だった。

永遠の時間を刻んでいた白熱の炎が、太陽の放つ異常な重力場によって時空ごとねじ曲げられ、上空に向かって巨大な竜巻となって立ち昇っていく。

灰色の男は、自らの中和場を吹き飛ばされながら、その光景を呆然と見上げていた。


『……あり得ん。

……自らが重力の特異点となり、次元を穿つというのか……。

君は、一体どれほどの「業」を背負い込んでいるんだ……』


竜巻の中心に、現実世界へと続く亀裂が口を開けた。


「……帰るぞ。

俺の、愛する狂人たちの元へ!」


太陽は、灰色の観測者に一瞥をくれると、重力反転のベクトルに乗って、自ら亀裂の中へと飛び込んでいった。


ロンドン、ロイヤル・アルバート・ホールの地下駐車場の奥深く。

暴動の熱狂からは隔離された、コンクリート打ちっ放しの冷たい資材室。

美音と奏音は、床にへたり込み、絶望の涙を流していた。


「ああ……。

私のせいだ……。

私が、最後まで弾き切っていれば……!」


奏音が、自らの手首を掻きむしりながら嗚咽する。


「ヴィクトルの馬鹿!

なんで私たちを止めたのよ!

太陽が……太陽が帰ってこられないじゃないっ!!」


美音は、壁に寄りかかるヴィクトルに向かって、靴を投げつけた。

ヴィクトルは、投げつけられた靴を避けることもせず、ただ静かに床を見つめていた。


「……私の見込みが甘かったようです。

あの波形は、大衆には劇薬すぎた。

……神野さんには、申し訳ないことをしました。

ただ、あなた方さえいれば可能性はあります……」


三人の間に、取り返しのつかない沈黙が降りた。

もはや、事象の地平面は完全に閉じている。

今から演奏を再開したところで、時間の座標がずれてしまった太陽をピンポイントで見つけ出すことはほぼ不可能だ。


だが、その時。


ゴゴゴゴォォッ……!!


突如として、地下室のコンクリートの床が激しく震動し、巨大な地鳴りが響き渡った。


「な、何だ!?」


ヴィクトルが身構える。

部屋の中央の空間が、水面に石を投げ込んだように歪み、そこから真っ黒な「泥」と「白熱の炎」が入り混じったような恐るべき瘴気が噴き出した。


そして、その瘴気を切り裂くように、一人の男が姿を現した。


「……ハァッ……ハァッ……!」


焼け焦げたトレンチコート。

肌の至る所に残る火傷の痕。

だが、その胸元で恐ろしいほどの黄金と漆黒の光を放つEgo Cubeを持った男、神野太陽は、自らの足でしっかりと現実世界の床に立っていた。


「た、太陽……っ!?」


美音が、信じられないものを見るように目を見開いた。


「……何があった?

美音、奏音。

……お前たちの音楽が途切れたせいで、何百年か余分に焼かれる羽目になったぞ。」


太陽は、血だらけの唇を歪めて、ニヤリと笑った。

外部からの命綱なしに、自らの「闇の重力」だけで次元をこじ開けて帰還した。

それは、太陽がもはや「人間に救済される存在」ではなく、自らが世界のルールを書き換える「魔王」のような存在へと変貌したことを意味していた。


「太陽さんっ!!」


奏音が、弾かれたように飛び起き、太陽の胸に飛び込んだ。

彼女の熱い涙が、太陽の焼け焦げたシャツを濡らす。


「生きて……生きてたぁ……っ!

ごめんなさい、私……私……!」


「泣くな、奏音。

……お前たちの狂気に溺れていたからこそ戻ってこれた。

そののおかげで、進化したEgo Cubeの本当の使い方が分かったぞ」


美音もまた、震える足で太陽に歩み寄り、その頬にそっと触れた。


「……あなた、本当に人間なの?

……あんな永遠の地獄から、自力で這い上がってくるなんて」


美音の瞳には、恐怖と、それ以上の狂おしいほどの愛情と畏怖が入り混じっていた。


「ああ。俺は人間だ。

……最も深く、最も重い業を背負った人間だ」


太陽は、二人の魔女を同時に強く抱きしめた。


ロンドンの地下室に、大焦熱地獄の「純潔を汚す業」の異常な熱気が充満する。

美音と奏音のEgo Cubeが、悲鳴を上げるような勢いで太陽の熱を吸収し、真っ赤に明滅を始めた。

部屋の隅で、ヴィクトル・黒須は、信じがたい光景を目の当たりにして、震える手で眼鏡を押し上げた。


(……想定外とは言え、何という化け物を私は生み出してしまったんだ……)


ヴィクトルは、自らの仕掛けた実験が、想像を絶する怪物(特異点)を覚醒させてしまったことを悟り、歓喜にも近い感情を抱きながら初めて冷や汗を流していた。


第七層【大焦熱地獄】。

永遠の時間を自力でねじ伏せ、帰還を果たした太陽。

彼の瞳の奥には、もはや一切の迷いはなかった。


残るは、最終最下層。

全てが終わる場所であり、全てが始まる場所、【無間むげん地獄】。


三人の背徳の巡礼者は、世界の底へと向かう最後の階段の前に、絶対的な重力を持って立ち尽くしていた。

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