第11話 霧の都と、永遠を刻む狂詩曲(前編)
「……ロンドン。
霧と煉瓦、そして切り裂き魔の街」
どんよりとした鉛色の空から、霧雨がそぼ降るイギリス・ロンドン。
テムズ川のほとりを歩きながら、漆黒のトレンチコートに身を包んだ葛城美音が、濡れた石畳をヒールで鳴らして微かに笑った。
「19世紀のヴィクトリア朝時代、この国は産業革命によって『世界の工場』と呼ばれるほどの圧倒的な富と繁栄を築き上げたわ。
ビッグ・ベン、ウェストミンスター宮殿、そして美しい馬車が行き交う華やかな社交界。
……でも、その光が強すぎたせいで、この街の足元には、人間が目を背けたくなるほどの『濃い影』が落ちたの」
美音の隣を歩く太陽は、深く襟を立てながら、歴史ある街並みを見渡した。
近代的なビル群と、何百年も変わらない重厚なゴシック建築が混在する風景。
確かにこの街には、他のヨーロッパの都市とは違う、独特の「重圧」のようなものが漂っている。
「光と影、か。
……まるで、僕のEgo Cubeだな」
太陽が自身の胸元に触れると、前を歩いていた奏音が振り返り、真紅の傘をくるりと回した。
「そうよ、太陽さん。
この街の二面性は、異常だったの」
奏音の瞳には、かつての純粋な焦燥感はなく、歴史の闇を愛でるような魔女の知性が宿っている。
「当時のイギリスは、キリスト教的な道徳観念……『ヴィクトリアン・モラル』と呼ばれる、極端なまでに厳格な禁欲主義が支配していた。
特に女性の『純潔』は神聖視され、少しでも性的なものを匂わせることは絶対のタブーだったの」
「だが、人間の本質はそんなに綺麗に統制できるものじゃない」
太陽の言葉に、姉妹は同時に頷いた。
「ええ。
抑圧された欲望は、地下でドロドロに腐敗し、暴走した」
美音が、霧の向こうに霞むイーストエンド(東部)の貧民街の方向を見つめる。
「表向きは純潔と道徳を説く紳士たちが、夜になれば娼婦の街『ホワイトチャペル』で獣のように欲望を貪った。
そして、その極限の歪みから生まれたのが……売春婦たちを次々と残酷な手口で解体した、歴史上最も有名な連続殺人鬼『ジャック・ザ・リッパー』よ」
極端な道徳と純潔の裏側で、それを蹂躙し、切り裂くことに快楽を見出した狂気。
太陽は、次なる巡礼地である第七層【大焦熱地獄】のことを思い出し、背筋に冷たいものを感じた。
『……その通りだ、太陽くん』
通信デバイスから、深海真澄の声がロンドンの霧に溶け込むように響く。
『大焦熱地獄。
これまでの六つの罪(殺生、偸盗、邪淫、飲酒、妄語、邪見)に加え、さらに【純潔を汚す罪】……すなわち、神に仕える尼僧や、無垢なる者の尊厳を暴力的に凌辱し、魂を根本から破壊した者が堕ちる地獄だ。
……ヴィクトリア朝の抑圧と凌辱の歴史は、この地獄のゲートを開くのに十分すぎるほど共鳴するだろう』
その夜。
ロンドン中心部に位置する、赤煉瓦の巨大な円形劇場「ロイヤル・アルバート・ホール」。
ヴィクトリア女王の夫、アルバート公に捧げられたこの神聖なる殿堂の控室で、太陽は信じがたい事実を突きつけられていた。
「……時間の流れが、違う?」
ソファに腰を下ろす太陽の向かいで、ヴァイオリンの弓に松脂を塗りながら、奏音が静かに頷いた。
「ええ。
今まで気づいていなかったの?
……まあ、無理もないわ。
今までのあなたのEgo Cubeは、あそこに長居するには脆弱すぎたから、脳が勝手に感覚を『麻痺』させて防衛していたのよ」
「どういうことだ、美音」
太陽は、鏡の前でルージュを引く美音を険しい目で見つめた。
「事象の地平面の向こう側は、巨大な重力によって物理法則が歪んでいるわ。
当然、『時間の流れ』もね」
美音は鏡越しに太陽と視線を合わせ、残酷な真実を口にした。
「私たちが現実世界でステージで曲を演奏している時間……せいぜい15分か20分。
でも、その間、奈落の底にいるあなたにとっては、どれくらいの時間が流れていると思う?」
太陽は息を呑んだ。
これまでの地獄での記憶を呼び起こす。
亡者たちの絶叫、炎、泥。確かに、地獄での体験は永遠のように感じられた。
だが、それは単なる「苦痛による心理的な錯覚」だと思っていた。
「……相対性理論と同じよ。
重力の底では、時間は果てしなく引き延ばされる」
美音が振り返り、太陽の頬に冷たい指先を這わせた。
「現実の1分は、あちらの世界の1年……あるいはもっとかもしれない。
あなたがパリやヴェネツィアで潜っていた15分間、あなたは実際には『数十年』もの間、あの地獄を彷徨っていたことになるのよ」
「数十年……!?」
太陽は絶句した。
自分がそれほどの長い時間を、あの狂気の空間で過ごしていたというのか。
「そうよ。
でも、これまでのあなたの旧世代Ego Cubeは、その『主観的な永遠の苦痛』に耐えきれず、意識をブラックアウトさせたり、記憶を圧縮したりして、どうにか精神を保っていた。
……だから、現実に戻ってきた時、ただの『十数分程度の悪夢』のように感じられていたの」
奏音が、残酷な事実を補足する。
「だけど……今のあなたは違うわ。
自分のEgo Cubeが進化したことを認知している」
美音の指先が、太陽の胸元で明滅するEgo Cubeをトントンと叩いた。
「モスクワで、私たちはあなたの器を調律して再構築した。
マイナスの絶対値を完全に内包できる、強靭で耐性を身に付けた。
……その進化したEgo Cubeは、もうあなたの意識を『麻痺』させてはくれないわ」
太陽の背中を、氷の刃で撫でられたような悪寒が走った。
「つまり……」
「ええ。
今回の大焦熱地獄での主観時間……おそらく数十年から数百年。
あなたは、その間ずっと『完全なシラフ』で、意識を保ったままあの猛火に焼かれ続けることになるわ」
狂うことすら許されない、真の永遠。
太陽は初めて、自分が手に入れた「進化」の恐ろしさを実感した。
人間の脳が数百年分の苦痛の記憶を完璧に保持したまま、現実世界に帰還する。
果たして、それは「生きて帰ってきた」と言えるのだろうか?
精神のキャパシティが拡張されたとはいえ、蓄積される絶対的な絶望の時間は、確実に太陽から「人間らしさ」を摩耗させていくはずだ。
「怖い?
太陽さん」
奏音が、不安と嗜虐の入り混じった瞳で太陽の顔を覗き込む。
「……ああ。
恐ろしいよ。
だが、今更引き返すことはできない」
太陽は、震えそうになる自らの拳を固く握りしめた。
「どれだけ途方もない時間がかかろうと、君たちの音楽が必ず僕を現実に引き戻してくれる。
……そうだろう?」
太陽の言葉に、姉妹は妖しく、そして深い愛情と狂気を込めて微笑んだ。
「もちろんよ。
私たちが奏でる『現実の15分間』の旋律だけが、数百年を彷徨うあなたにとっての唯一の命綱になる。
……絶対に、その音を見失わないでね」
開演のベルが鳴り響く。
ロイヤル・アルバート・ホールの客席は、ヴィクトル・黒須が裏で仕掛けた「無意識のハッキング」に飢えた観客たちで、異様な熱気と静寂に包まれていた。
「今日、あなたを地獄へ送り出す曲は……ニコロ・パガニーニの『カプリース(奇想曲)第24番』」
ステージへ向かう直前、美音が太陽の耳元で囁いた。
「19世紀、ロンドンの劇場で彼が演奏した時、あまりの超絶技巧と魔を孕んだ音色に、観客たちはパニックを起こし、失神者が続出したわ。
極端な道徳で自分たちを縛り付けていたヴィクトリア朝の紳士淑女たちは、彼のヴァイオリンに『悪魔』を見出し、同時に、自分たちの中に眠る『暴虐的なエロスと暴力』を刺激されて狂喜乱舞したの」
奏音が、自らのヴァイオリンを愛おしそうに撫でる。
「純潔を重んじる社会ほど、それを汚し、切り裂くことへの欲望はドロドロと深くなる。
パガニーニの音は、その偽善の皮を剥ぎ取るメスだったのよ。
……太陽さん、数百年後の現実で待っているわ」
二人の魔女が光の当たるステージへと歩み出ていく。
太陽は一人、劇場の巨大なパイプオルガンの裏側に広がる、冷たく暗い地下空間へと足を踏み入れた。
地上のステージから、奏音のヴァイオリンが空気を切り裂くように響き始めた。
タタタタ、タン、タン。
誰もが一度は耳にしたことがある、あの有名な、しかし恐ろしく難解な主題。
そこに美音のピアノが、悪魔の嘲笑のような激しい和音で覆い被さる。
パガニーニの『カプリース第24番』。
人間の指の限界に挑むかのような左手のピッツィカート、重音、そして不気味なフラジオレット。
ヴィクトリア朝の抑圧されたロンドン市民の無意識と、葛城姉妹の奏でる悪魔の旋律が共鳴し、劇場の地下空間がメリメリと音を立てて歪み始めた。
「……開く」
太陽が呟いた瞬間。
床の石材がドロドロに溶け、そこから、これまで見たこともないような「白熱した光」が噴き出した。
赤でも黒でもない。
あまりにも温度が高すぎるために、白く発光している「大焦熱」の炎だ。
太陽は、進化したEgo Cubeを限界まで回転させ、自らの周囲に防護の重力場を展開しながら、その白熱の光の中へと飛び込んだ。
ドサッ。
着地した瞬間、太陽は自分が「呼吸できない」ことに気づいた。
「……ッ、ガァッ……!」
空気が、無い。
周囲を満たしているのは、酸素ではなく「超高熱のプラズマ」のような何かだった。肺に吸い込むだけで、内臓が瞬時に炭化しそうになる激痛。
そして、太陽の脳を直撃したのは、熱よりも何よりも、「永遠」という感覚だった。
(……時間が、止まっている……?)
否。止まっているのではない。
あまりにも遅すぎるのだ。
一瞬のまばたきをする間に、現実世界で数年分の思考ができるほどの、途方もない情報の遅延。
自分の心臓が一回ドクンと鳴るまでに、何百時間も経過しているような錯覚。
『……太…陽…くん。
……聞こ…え…る、か……』
真澄の通信の声が、まるで壊れたレコードを限界まで引き延ばしたような、恐ろしく間延びした低音で脳に響く。
無限の記憶の深淵を経由しているからこそ、かろうじて聞こえるが、この通信のタイムラグこそが、ここが現実から完全に切り離された「特異点の底」であることを証明していた。
太陽は、白熱する視界をどうにか開いた。
第七層【大焦熱地獄】。
そこには、六層までの炎とは比べ物にならない、究極の業火が渦巻いていた。
亡者たちはもはや、人間の形すら保っていなかった。
彼らは巨大な鉄の鉾で下半身から頭の先まで貫かれ、白熱する炎の中で「生きたままの肉の塊」として永遠に焼かれ続けている。
「ア……ァ……。
許シ、テ……。
モウ、壊サナイデ……」
亡者たちの口から漏れるのは、もはや絶叫ではなく、精神が完全に粉砕された者だけが出す、虚ろな掠れ声だった。
彼らは、現実世界で「最も純粋で、最も神聖なもの」を、己の暴虐な欲望のために蹂躙し、陵辱した者たちだ。
その「純潔を壊した罪」の反動として、彼ら自身の魂が、永遠に再生と破壊を繰り返され、文字通り「絶対的な凌辱」を受け続けているのだ。
(これが……大焦熱の業……。
純潔を汚した者への、究極の罰……)
太陽の進化したEgo Cubeが、容赦なくその状況を解析し、太陽の脳にクリアな情報として叩き込んでくる。
麻痺による逃避はできない。
太陽は、この究極の痛みを、数十年、あるいは数百年にわたって「一秒の狂いもなく」直視し続けなければならない。
「……ぐ、ああぁぁぁッ……!!」
太陽は、全身の皮膚が焼け焦げる激痛の中で、自らの黄金の重力を展開した。
だが、白熱の炎は、太陽の重力場ごと彼を焼き尽くそうと迫ってくる。
(耐えろ……。
マイナスの絶対値化……!
炎を、僕の一部に変換するんだ……!)
太陽は歯を食いしばり、Ego Cubeの回転軸を調整して、炎の吸収を試みた。
だが、大焦熱の炎は、これまでの地獄とは質が違った。
それは単なる熱ではなく、「純潔への憎悪」と「暴虐の快楽」という、人間の最もドロドロとしたヘドロのような悪意が、極限まで濃縮されたものだった。
変換処理が追いつかない。
太陽の意識の端で、現実世界から繋がっている『カプリース第24番』の旋律が聞こえる。
タ……タ……タ……タ、
…………タ……ン、…………タ……ン。
だが、その音楽のテンポも、時間の歪みによって恐ろしくゆっくりになっていた。
いったん意識をそらしてしまえば、もはや音と認識することすら難しいだろう。
次の音が鳴るまでに、太陽の主観時間で「数ヶ月」が経過している。
一つ音が鳴る。
その間、太陽は炎に焼かれ、亡者たちの悲鳴を聞き続け、己の精神がすり減っていくのを完璧なシラフで感じ続ける。
(……まだ、最初のワンフレーズも終わっていない……のか……?)
絶望。
圧倒的な、無限の絶望。
美音と奏音が現実世界で15分の曲を弾き終えるまで、太陽はこの灼熱の狂気の中で、己の自我を保ち続けることができるのか。
麻痺という防衛本能を奪われた進化したEgo Cubeは、太陽に「神の視点」を与えた代わりに、「神にしか耐えられない永遠の拷問」を彼に強いていた。
「……負けるものか……!
明日美……、美音、奏音……ッ!!」
太陽は、炎の中でただ一人立ち尽くし、永遠にも等しい時間の荒野へと、決死の足を踏み出した。
彼の孤独で果てしない「大焦熱の数百年」が、今、始まったばかりだった。




