第10話 ダンテの業火と、狂信のプリズム
ルネサンスの都、イタリア・フィレンツェ。
街の最古の劇場である「ペルゴラ劇場」は、今夜、異様な熱気に包まれていた。
チケットは瞬く間に完売し、客席は着飾った観客たちで立錐の余地もない。
舞台袖の暗がりで、神野太陽は観客席から漂う熱っぽい空気を感じ取っていた。
彼らは皆、葛城美音と奏音の音楽を求めて集まった純粋な芸術愛好家のはずだ。
だが、その期待の中には、どこか無意識のうちに「自分を壊してほしい」「隠された欲望を暴き出してほしい」という、危うい渇望が混じっているように思えた。
(……ヴィクトルの言う通り、彼女たちの音楽はすでに大衆の無意識をハッキングし始めている)
ヴィクトル・黒須は、フィレンツェに到着するや否や「準備がある」と言い残し、太陽たちの前から姿を消した。
今後のツアーの采配や舞台演出を裏で操りながらも、彼は決して表舞台には立たない。
太陽の「絶対値化」の波形を音楽に組み込むという恐るべき実験を仕掛けたまま、どこかの特等席でこの世界がどう狂っていくのかを、冷ややかに見下ろしているのだろう。
「太陽さん。緊張しているの?」
ふいに、背後から奏音が声をかけてきた。
真紅のドレスを身に纏い、ヴァイオリンを手にした彼女は、今や迷いのない魔女の眼差しを持っている。
「いや。ただ、自分のEgo Cubeの構造が変わったことが、まだ少し実感がなくてね」
太陽は、シャツの下で静かに明滅する進化したEgo Cubeに触れた。
黄金の多面体の中心で、漆黒の特異点が回転している。
「大丈夫よ。
私たちが調律してあげたんだから、完璧に決まってるわ」
美音が、漆黒のドレスの裾を揺らして二人の横に並んだ。
彼女の唇には、これから始まる「儀式」への嗜虐的な笑みが浮かんでいる。
「今日の曲目、リストの『ダンテを読んで(ダンテ・ソナタ)』。
……ダンテの『神曲』地獄篇に描かれた、凄まじい炎と絶望、そして罪人たちの叫びを音にしたものよ。
そこに、太陽の『調律波形』をサブリミナルとして編み込んである」
美音は、劇場の床下、フィレンツェの地下深くを視線で指し示した。
「かつてこの街で、サヴォナローラという修道士が『虚栄の焼却』を行い、芸術や贅沢品を火にくべ、大衆を熱狂的な狂信へと導いた。
……今日のゲートの先にあるのは、その『狂信と扇動の炎』よ」
『……通信チェック。
太陽くん、聞こえるか』
右耳のデバイスから、無限の記憶の深淵にいる深海真澄の声が響く。
「ええ、真澄さん。
問題ありません」
『第六層【焦熱地獄】。
これまでの罪に加え、「邪見」……すなわち、誤った思想で人々を惑わし、扇動した者が堕ちる地獄だ。
そこでは亡者たちは鉄の串に刺され、巨大な鉄板の上で永遠に業火で焼かれ続ける。
……進化したEgo Cubeの初陣だ。
くれぐれも油断するな』
「分かっています」
太陽は短く答え、姿勢を正した。
ステージの幕が上がり、美音と奏音が眩いスポットライトの中へ歩み出ていく。
割れんばかりの拍手が、やがて水を打ったような静寂へと変わる。
ズゥン……!
美音の指が鍵盤を叩き下ろした瞬間、地獄の門が開くような重低音が劇場を震わせた。
リストの『ダンテを読んで』。
不吉な増四度(悪魔の音程)の和音が連続し、奏音のヴァイオリンが亡者の叫びのように絡みつく。
太陽の足元で、劇場の床が真っ赤に焼け焦げ、炎の渦巻く奈落へのゲートが開いた。
「……行ってくる」
太陽は、黄金と漆黒のオーラを纏い、焦熱の底へと身を投げた。
熱い。
着地した瞬間、太陽の皮膚をチリチリと焼くような超高温の空気が襲いかかってきた。
見渡す限りの赤。
空も、大地も、すべてが燃え盛っている。
「アアァァッ!!
熱イッ!焼ケテシマウゥゥッ!!」
炎の海の中、巨大な鉄板の上に何万という亡者たちが並べられ、彼らの体には頭から足の先まで、真っ赤に焼けた極太の鉄串が貫通していた。
彼らは身をよじり、自らの脂でジュウジュウと肉を焼かれながら、絶え間なく絶叫を上げている。
だが、太陽は進化したEgo Cubeを通して、彼らの叫びの「本質」を正確に読み取っていた。
彼らは炎に焼かれながらも、時折、恍惚とした表情を浮かべて叫ぶのだ。
「私ハ間違ッテイナイ……!
私ノ思想コソガ、世界ヲ正シク導クノダ……ッ!」
「燃ヤセ……!
愚カ者ドモヲ燃ヤシ尽クセ……!
俺ノ言葉ニ熱狂シタ群衆ノ熱気ハ、コンナモノデハナカッタゾォォッ!!」
『……見えるか、太陽くん』
真澄の通信が、ノイズと炎の弾ける音に混じって届く。
『彼らは、己の誤った思想(邪見)に完全に「自己一致」している。
自分が絶対的に正しいと信じ込み、他者を扇動し、狂信の渦に巻き込んだ快楽。
……その熱狂の記憶が、この地獄の炎の正体だ』
「狂信、か……」
太陽は、自らの周囲に迫る炎の壁を見据えた。
以前の太陽なら、この炎を「間違ったもの」として黄金の重力で鎮圧しようとし、結果的に猛烈な反発(マイナスの波形)を喰らって精神を汚染されていただろう。
だが、今は違う。
太陽は、胸元のEgo Cubeの回転を加速させた。
黄金の多面体の中心にある漆黒の特異点が、シュルシュルと音を立てて周囲の炎(邪見の業)を吸い込み始める。
「来い……!
お前たちのその独善も、狂熱も……全部、僕の『絶対値』として取り込んでやる……!」
太陽が両手を広げると、焦熱地獄の炎が竜巻となって彼に殺到した。
「ガァァッ……!!」
炎が太陽の精神を直接焼く。
途方もない熱量。
自分が世界の王にでもなったかのような、他者を支配し扇動する全能感と、それがもたらす破滅の予感。
邪見の業は、太陽に「お前も大衆を扇動しているではないか」と囁きかけてくる。
(そうだ……僕は今、ヴィクトルと組んで、美音と奏音の音楽で世界をハッキングしようとしている。
……僕も、この亡者たちと同じ『邪見』の罪人だ!)
太陽は、その事実から目を背けなかった。
自分は決して潔白な救世主ではない。
明日美の光を守るためなら、世界に毒を撒き散らすことも辞さないという、傲慢な思想を持った一人の男だ。
「だからどうした……。
それが、僕のエゴだ……ッ!」
太陽の漆黒の特異点が、炎の熱量を「エネルギー(絶対値)」へと強制的に変換していく。
熱い。
痛い。
だが、以前のような「自我が崩壊する恐怖」はなかった。
スクリャービンの神秘和音の構造が、どれほど強大なマイナスの感情であろうと、太陽の宇宙の中に「一つの要素」として強引に定着させていく。
炎を吸収するごとに、太陽の放つ黄金と漆黒のオーラは分厚くなり、圧倒的な重力場となって周囲の地獄の空間そのものを歪ませ始めた。
鉄の串に刺された亡者たちが、太陽の放つ凄まじい「Ego Cubeの質量」に圧倒され、悲鳴を上げて静まり返る。
『……見事だ』
真澄の感嘆の声が響く。
『君は、焦熱の業火すらも己の一部として取り込めている。
……進化したEgo Cubeは、完璧に機能している』
「……ええ。
ですが……」
太陽は、全身から湯気を立てながら、虚空を睨みつけた。
『……どうした?』
「真澄さん。
……現実世界の、劇場の様子はどうなっていますか?」
太陽の問いに、真澄は一瞬の沈黙を置いた後、重々しい口調で答えた。
『……ヴィクトル・黒須の仕掛けた「簡易インストール」の実験は、
……恐ろしい結果を生んでいると言わざるを得ない』
真澄から送られてきた音声データが、太陽の脳内に直接再生された。
それは、ペルゴラ劇場の客席の様子だった。
クラシックのコンサートとは思えない、異様なざわめき、荒い息遣い、そして啜り泣きや狂ったような笑い声。
美音と奏音が奏でる『ダンテを読んで』に組み込まれた太陽の「調律波形」が、観客たちの無意識に眠る「絶対値(抑圧された闇)」を無理やり引きずり出しているのだ。
彼らは今、音楽の熱狂に呑まれ、自分自身の闇に直面して「狂信」の坩堝と化している。
「……やはり。
僕のやっていることは、サヴォナローラの『虚栄の焼却』と同じだ。
大衆を音楽で扇動し、狂わせているだけだ」
太陽は、自分の手の中に溜まった焦熱地獄の炎を見つめた。
自分の中に闇を内包することはできた。
だが、それを他者に強要することが果たして正解なのか。
この伏線の結論は、まだ出せない。
その時、頭上から『ダンテを読んで』の壮大なフィナーレを告げる、輝かしい長調の和音が響き渡った。
地獄の底から天国を垣間見るような、リスト特有の救済と狂気が入り混じった旋律。
現実世界で待つ、二人の魔女が太陽を引き戻そうとしている。
「……帰るぞ。
僕の、狂った共犯者たちの元へ」
太陽は、吸収しきれないほどの莫大な熱量(邪見の業)を抱え込んだまま、上空のゲートへと向かって重力を反転させた。
「……ハァッ!
ガァッ……!」
劇場の地下にある薄暗いワインセラー。
石造りの床に転がり出た太陽は、全身から凄まじい熱波を放っていた。
進化したEgo Cubeによって精神の崩壊は免れたものの、焦熱地獄で吸い込んだ「邪見の業」の熱量は物理的な限界を超え、太陽の体温を異常なまでに引き上げていた。
触れれば火傷しそうなほどの熱気が、地下室の空気を歪ませる。
「……お帰りなさい、太陽」
熱気に揺らぐ視界の先に、美音と奏音が立っていた。
ステージを終えたばかりの二人は、観客の異常な熱狂をその身に浴びた興奮で、瞳をギラギラと輝かせている。
「二人とも……近づくな……、今回の業は、熱すぎる……」
太陽は、床に両手をつきながら警告した。
だが、葛城姉妹にとって、太陽が抱え込んでくる闇の深さと熱量は、彼女たちの音楽的インスピレーションを爆発させるための「極上の餌」でしかない。
「熱いからいいのよ。
……太陽さんが抱えてきたその熱で、私たちを燃やして」
奏音が、真紅のドレスの裾を翻し、太陽の背中に背後から抱きついた。
「あっ……!」
太陽の放つ異常な熱に、奏音は一瞬悲鳴を上げたが、彼女は決して腕を離さなかった。
彼女のEgo Cube『響』が、太陽の熱を吸収し、真っ赤に明滅する。
「本当に、素晴らしい熱量だわ。
……劇場の観客たちも、この熱にあてられて、みんな狂ったように泣き叫んでいたわよ」
美音が、漆黒のドレスの胸元をはだけさせながら、太陽の正面にひざまずいた。
彼女は、太陽の燃えるような頬を両手で包み込み、そのまま深く、濃厚なキスをした。
「んぅっ……!
ハァ……ッ」
太陽の口内から、焦熱地獄の「邪見の業」が、美音の『奏』へと急速に吸い出されていく。
美音は、その熱さに身を捩りながらも、恍惚とした表情で太陽の舌に絡みつく。
「もっとよ、太陽……。
あなたが地獄で見た狂気を、あなたの細胞の隅々まで染み込んだ扇動の熱を、全部私に注ぎ込みなさい」
太陽は、もはや抗うことをやめた。
自分は進化した。
だが、人間としての限界を超えたエネルギーを循環させるためには、この二人の魔女という「放熱器官」が絶対に不可欠なのだ。
太陽の黄金と漆黒のオーラが、美音と奏音を包み込む。
地下室の石壁が、三人の交わる熱気でうっすらと結露し始める。
大衆を扇動した罪悪感も、地獄で焼かれた痛みも、すべてがこの背徳的な愛欲の坩堝の中で溶かされ、彼女たちの次なる音楽のための「魔力」へと変換されていく。
(……明日美。
……僕は、どこまで堕ちれば、君のいる光の世界を完全に支えることができるんだろうか)
太陽の意識は、快感と熱の中で白く飛んでいった。
数時間後。
熱狂が去ったペルゴラ劇場の客席には、誰もいなかった。
だが、空間にはまだ、観客たちが落としていった「自らの闇を直視したことによる異様な波形」が色濃く残留していた。
劇場の最後列。
暗がりの中に、ヴィクトル・黒須が一人で座っていた。
「……素晴らしい。
大衆の無意識のハッキングは、想定以上の効果をもたらした」
彼は、手元のタブレット端末に表示された、世界中のネットワークから集まる異常な波形データを見つめ、冷ややかに微笑んだ。
「神野さんは、見事に『マイナスの絶対値化』を証明して見せた。
だが、このパッチを大衆が受け入れられるかどうかは、また別の話……。
世界が進化するか、それとも狂気に沈むか。
……ショーは、これからが本番です」
ヴィクトルはタブレットを閉じ、闇の中へと姿を消した。
彼の仕掛けた伏線は、すぐには結論を出さない。
だが、確実に世界の裏側で、時限爆弾のように時を刻み始めていた。
一方、地下室でようやく熱を冷ました太陽は、身支度を整えながら、次なる巡礼地へと想いを馳せていた。
残る地獄は、あと二つ。
第七層【大焦熱地獄】。
そして、最終最下層、【無間地獄】。
進化したEgo Cubeを手に入れ、魔女たちとの共犯関係を完璧なものにした太陽。
だが、事象の地平面の最深部に横たわるのは、人間の理解を超えた「究極の業」だ。
「……次は、どこだ?」
太陽が問うと、美音と奏音は、まだ火照りの残る顔を見合わせて、同時に妖しく微笑んだ。
「次の舞台は、ロンドンよ。
……霧と切り裂き魔の街で、もう一度、あなたを徹底的に狂わせてあげる」
無間への巡礼は、いよいよその底無しの深淵へと、真っ逆さまに堕ちていく。




