瞼に見えた青空
娘と二人で京都へ行く。
お世話になった人達へ別れの挨拶をし、僅かばかりのお礼の品を渡した。
「恵子ちゃんに会えなくなるのは寂しいよ。」と言ってくれた。
「元気で。」という声に「御元気で。」と妻は答えた。
京都駅で夫は待ってくれていた。
恵子は大喜びで「おとちゃん!」と駆け寄った。
夫は満面の笑みで娘を抱き上げた。
⦅これで良かったのよね。これで……。⦆と妻は思うしかない。
もう新たな生活が始まるのだ。
◇◇◇◇
京都では慣れない日々だった。
先ず、言葉が違う。
「おはようございます。」と挨拶すると、「おはようさん。」と返って来る。
「ありがとう。」ではなく「おおきに。」だったり……慣れるのに時間が掛かりそうだと妻は思った。
そして、何よりも妻は夫を許せてはいない。
夫が近づいて抱き締めただけで苦しくなる。
あの初恋の女性……あの最愛の女性は、余命宣告を受けた身。
性的な接触は無かったかもしれない。
でも、口づけはしていただろう。
それが、妻には苦しくて堪らなかった。
今の夫の身体に亡くなった最愛の女性の香りが移って沁み込んでいるように感じた。
それでも、夫を拒否出来なかった。
拒否したら、もう夫婦ではなくなる。
もう後戻り出来ないのだ。
妻にとって夫に捨てられたら、二度と就職出来ないかもしれない。
自分で稼いでいないことが重苦しく妻に圧し掛かった。
◇◇◇◇
恵子の幼稚園入園前に夫が「うちにも電話が来るぞ!」と嬉しそうに言った。
その通りに3人家族の我が家にも電話が敷かれた。
電話で上司夫婦と話した娘の顔は輝いている。
それから日が経ち、娘は幼稚園に通うようになった。
◇◇◇◇
夫は仕事が忙しくなり、帰宅が遅くなる日々を過ごしている。
娘は「お父ちゃん、まだ? 恵子、寂しい。」と呟く日が増えた。
妻は恐怖に包まれて、知らぬ間に娘を抱き締めていた。
「恵子、大丈夫だからね。お父ちゃん、帰って来るからね。」と言いながら、娘を抱き締めている。
娘は「うん。」と返事をした。
その日、京都へ来てから初めて夫は帰って来なかった。
妻の瞼にあの日の晴れた青空が見え、段々と広がっていった。




