第45話「リヴァイアサン」
波が壁のように立ち上がる。
その向こうで、無数のセイレーンが歌っていた。
甘く、冷たく、耳の奥へ絡みついてくるような歌声。意味のある言葉には聞こえないのに、意識だけが勝手に引き寄せられそうになる。
「耳を貸すな! 気を抜けば持っていかれるぞ!」
ティアの声が飛ぶ。
その声で意識を繋ぎ止めながら、俺は揺れる甲板の上で黄泉の柄を握った。
《海燕》は大きく傾き、船体が軋む音を立てている。バロンが舵を切るたびに船首が波を斜めに裂いていくが、セイレーンたちはまるでこちらの進路を読んでいるかのように、前方へ前方へと回り込んできた。
「くそっ、数が増えてやがる!」
バロンが歯を食いしばる。
最初は十体ほどに見えたセイレーンの影は、今や船の周囲を埋め尽くすほどになっていた。波間から顔を出し、青白い腕を伸ばし、笑うように歌いながら《海燕》へ近づいてくる。
近づかれれば終わりだ。
船腹に取りつかれるだけでも危ない。ましてや、この荒れた海で船を傾けられたら、俺たちは海へ放り出される。
「バロンさん、振り切れますか!」
「やってる! だが、こいつら波の中を泳ぐのが速すぎる!」
バロンは舵を握ったまま叫ぶ。
その額には汗が浮かんでいた。海を知る男がここまで余裕を失っている。それだけで、状況の悪さは十分に伝わってくる。
「ティア」
「分かっておる」
ティアは船の中央で片手をかざし、黒紫の魔力を練り上げていた。だが、撃てない。セイレーンは船を囲むように散っていて、波も激しく揺れている。下手に大きな魔法を撃てば、敵ごと海面を爆ぜさせて、船まで巻き込みかねなかった。
「面倒じゃな。海の上では、本当にやりづらい」
「同感だ」
俺も黄泉を抜ける体勢を取りながら、舌打ちしたくなる気持ちを抑える。
居合なら、一瞬の斬撃で敵を断てる。
だが、ここは揺れる船の上だ。踏み込みは安定しないし、斬った後に納刀するまでのわずかな隙も怖い。何より相手は波間を泳ぐセイレーンで、陸の魔物のように足場の上へ立っているわけではなかった。
それでも、このまま囲まれ続ければ終わる。
「これ以上は無理だな」
「うむ。多少船が揺れても、数を減らすしかあるまい」
ティアの声が低くなる。
俺は頷き、黄泉の柄に指を添えた。
次に波が下がった瞬間、右舷側のセイレーンを斬る。ティアは左舷側へ魔法を絞って撃つ。それで一瞬でも道が開けば、バロンが船を逃がせるはずだ。
「バロンさん、合図したら右へ切ってください!」
「分かった! やるなら早くしろ!」
「ティア!」
「いつでもよい!」
俺は腰を落とす。
船が大きく持ち上がる。
波の頂点。
次に落ちる。
その瞬間を狙う。
だが、俺が黄泉を抜こうとした、その時だった。
海が爆ぜた。
船の前方で、巨大な水柱が天へ向かって噴き上がる。
「うおっ!?」
バロンが反射的に舵を切った。
《海燕》が横へ流され、甲板に海水が叩きつけられる。俺は手すりを掴んで踏ん張り、ティアも魔力を散らさないように片足で体を支えた。
水柱は、ただの波ではなかった。
海そのものが意思を持って立ち上がったような、巨大な水の柱。渦を巻き、青白い光を帯び、周囲のセイレーンたちを押し退けるようにそびえ立っている。
「ん? この気配は……」
ティアが目を細めた。
その声には、驚きと、わずかな面倒くささが混じっていた。
「知ってるのか?」
「知っているというか……厄介なのが出てきたのう」
「厄介?」
俺が聞き返す前に、水柱の中から人影が現れた。
長身の女性だった。
水色の髪が、濡れてもいないのに波のように揺れている。肌は白く、瞳は深い海を閉じ込めたような青。身にまとっている衣は、水で編まれた布のように淡く揺らめき、足元は海面に触れているにもかかわらず沈まない。
美しい。
だが、それ以上に得体が知れない。
セイレーンとは違う。あれが魔物なら、魔物という言葉が急に薄っぺらく思えるほど、纏っている気配の格が違っていた。
彼女が現れた瞬間、船を囲んでいたセイレーンたちの歌が止まった。
まるで、上位者の前で息を潜めるように。
女性はゆっくりとこちらへ視線を向けた。
「妙な気配がすると思えば、魔王の娘か」
その声は静かだった。
けれど、波音の中でもはっきりと届く。耳で聞いているというより、海そのものが言葉を運んでくるような声だった。
ティアが腕を組む。
「今は妾が魔王じゃがな」
「はあ!? 魔王!?」
バロンが悲鳴に近い声を上げた。
今さらそこに反応するのか、と思ったが、普通は反応するよな。俺も初めて聞いた時は似たような反応をした気がする。
だが、水色の髪の女性はバロンの驚きを完全に無視した。
「そうか」
彼女はティアを見据えたまま、わずかに目を細める。
「ならば聞くが、何故貴様が神楽様と共にいる」
「神楽……?」
思わず声が漏れた。
神楽様。
それは、俺のことを言っているのだろうか。
神楽の一族かもしれないとは言われたことはあるが。
だが、様付けされるような覚えはない。少なくとも、海の上で突然現れた得体の知れない美女に跪かれるような人生は、前世にも今世にもなかったはずだ。
「成り行きじゃ」
ティアはあっさり答えた。
「そもそも、おぬしもいちいち突っかかってくるでない。鬱陶しい。色々あったのは一昔前のことであろう?」
「一昔前、か。貴様ら魔族は都合よく過去を薄める」
「お主らも大概しつこいわ」
ティアの声に少しだけ苛立ちが混じる。
どうやら、完全な初対面ではないらしい。
俺はティアと女性を交互に見る。
「ティア、あの得体の知れなさそうなのと知り合いなのか?」
「得体の知れなさそうな、はなかなか正しい表現じゃな。知り合いというか……」
ティアが言いかけた、その時だった。
水色の髪の女性が、海面の上でゆっくりと膝をついた。
波が彼女の周囲だけ静まり、まるで床のように凪いでいる。
彼女は俺に向かって、深々と頭を下げた。
「お初にお目にかかります、現代の神楽様」
その声は、先ほどまでとは違っていた。
冷たさは消え、敬意だけが残っている。
「私の名は、リヴァイアサンと申します」
リヴァイアサン。
その名を聞いた瞬間、バロンが息を呑む音がした。
ティアも黙っている。
俺は、ただその女性を見下ろすことしかできなかった。
海面に跪く、美しい女。
船を囲むセイレーンたちを黙らせた存在。
そして、俺を神楽様と呼ぶ者。
リヴァイアサンは頭を下げたまま、静かに言った。
「貴方の力の一柱でございます」
「……俺の、力?」
意味が分からなかった。
神楽。
リヴァイアサン。
俺の力。
言葉だけが頭の中に積み上がっていくのに、どれも繋がらない。
俺は黄泉の柄から手を離せないまま、ただ立ち尽くしていた。
「いったい、どういうことだ……?」
荒れていたはずの海が、いつの間にか静まり始めていた。
けれど、俺の中だけは、さっきよりもずっと大きく波立っていた。
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