第44話「波間の歌声」
《海燕》は、ゆっくりと港を離れていく。
帆が風を受け、船体がぎしりと音を立てる。波に押されるようにして進み出した船の上で、俺は思わず甲板の手すりを掴んだ。
足元が揺れる。
地面ではない。
当然だが、船の床は常に小さく動いている。最初はその感覚が妙に落ち着かず、体の重心がどこにあるのか分からなくなりそうだった。
「大丈夫か?」
舵の近くに立つバロンが、こちらを見て笑う。
「初めての船か?」
「この手の船は初めてですね」
「なら最初はそんなもんだ。遠くを見ると楽になる。足元ばかり見てると酔うぞ」
「覚えておきます」
俺は頷き、港の方へ視線を向けた。
グラハの町が、少しずつ遠ざかっていく。坂道に並ぶ建物、港に停泊している船、こちらを見送るように揺れる旗。それらがだんだん小さくなり、代わりに視界のほとんどを青い海が占め始めた。
風が気持ちいい。
潮の匂いが混じった空気は、山や工房街のものとはまるで違う。ガリアの火と鉄の熱気から離れたせいか、胸の奥まで少し軽くなるようだった。
「ふむ。これはなかなかよいのう」
ティアは船の縁に手をかけ、身を乗り出すように海面を覗き込んでいた。
白い髪が潮風に揺れ、金の薔薇の髪飾りが陽の光を受けて小さく光っている。
「ティア、そんな風に下ばかり見てると酔うぞ」
「妾がこの程度で酔うわけなかろう」
「いや、船酔いって強さとか関係ないと思うけど」
「妾は魔王じゃぞ?」
「魔王でも三半規管はあるだろ」
「さんはん……? よく分からぬが、妾に弱点などない」
そう言い切るティアの横顔は、妙に自信満々だった。
まあ、本人がそう言うなら好きにさせておくか。
そう思っていたのだが。
数十分後。
「……海とは、卑怯なものじゃな」
ティアは甲板の端で座り込み、明らかに顔色を悪くしていた。
さっきまで楽しそうに海を覗き込んでいた面影はない。片手で口元を押さえ、もう片方の手で船縁を掴んでいる。
「だから言ったのに」
「うるさい……妾は負けておらぬ……」
「完全に負けてる顔してるぞ」
「これは戦略的休息じゃ」
「船酔いに戦略とかあるのか?」
ティアは恨めしそうに俺を睨んだが、すぐに小さく呻いて海の方へ顔を向けた。
さすがに少し可哀想になってきたので、俺はバロンからもらった水筒を差し出す。
「水、飲めるか?」
「……飲む」
「遠くを見ろってさ。海面じゃなくて、水平線の方」
「むぅ……」
ティアは渋々と顔を上げ、遠くの海を見た。
魔王でも船酔いはする。
そう思うと、少しだけ安心した。いや、本人に言ったら確実に怒られるので、もちろん口には出さない。
「嬢ちゃん、大丈夫か?」
バロンが舵を取りながら声をかけてくる。
「問題ない……妾は平気じゃ……」
「無理して喋ると余計に来るぞ」
「分かっておる……」
全然分かっていなさそうな声で答えた。
それでもしばらくすると、ティアの顔色は少しずつ戻っていった。船の揺れに慣れてきたのか、それとも意地で押さえ込んだのかは分からないが、少なくとも倒れるほどではなさそうだ。
海は穏やかだった。
空はよく晴れ、太陽の光が水面をきらきらと照らしている。船の周囲を小さな魚が跳ね、遠くでは海鳥が鳴きながら飛んでいた。
バロンは慣れた様子で帆と舵を操っている。
その動きには無駄がなかった。風向きを見て帆を調整し、波の角度に合わせて船首を少しずつ変える。俺には何を基準にしているのか分からないが、この人にとって海は道のようなものなのだろう。
「バロンさん、ファミート王国まではどれくらいなんですか?」
「本来なら半日ちょいってところだな。風が良けりゃ日が落ちる前には近くまで行ける。だが、今はなるべく海獣が出るって噂の海域を避けて進んでるから、もう少しかかる」
「やっぱり海獣は避けるんですね」
「当たり前だ。腕に覚えがあるやつほど、海の怖さを知ってる。海獣とやり合うなんざ、最後の最後だ」
バロンの言葉は淡々としていた。
それが逆に、海獣という存在の厄介さを物語っている。
「天災、か」
「ティア嬢ちゃんが言ってたやつだな。まあ、そう思っておいた方がいい。海じゃ、人は小さい。どれだけ強くても、船を沈められたら終わりだ」
それはそうだ。
俺が黄泉で何かを斬れるとしても、海に落ちれば話は変わる。足場もなければ、自由に動くこともできない。ティアの魔法も、船や海を巻き込むような大技は使いづらいだろう。
戦う場所が変わるだけで、できることがこんなにも変わる。
それを思うと、ガリアの坑道とはまた別の緊張感があった。
「しかし、魚の匂いが近づいてきた気がするのう」
少し復活したティアが、鼻をひくつかせながら言う。
「本当に食べ物のことになると元気だな」
「食は命じゃからな」
「船酔いしてた人の言葉とは思えないな」
そんなやり取りをしている間にも、《海燕》は海を進んでいった。
時間が流れる。
太陽は少しずつ傾き、青かった空に薄い橙色が混じり始める。海面も昼間の眩しさとは違う色になり、波の一つ一つが夕日を受けて赤く揺れていた。
綺麗な景色だった。
このまま何事もなくファミート王国に着けるなら、それが一番いい。
そう思った直後。
風が変わった。
「……ん?」
俺は顔を上げる。
さっきまで穏やかだった風が、急に冷たくなった気がした。帆がばたつき、船体が大きく揺れる。
空を見ると、いつの間にか西の方から黒い雲が流れ込んできていた。
早い。
明らかに早すぎる。
つい少し前まで快晴だった空が、みるみるうちに暗くなっていく。
「バロンさん」
「分かってる」
バロンの声が低くなった。
彼は舵を握り直し、鋭い目で海を見ている。
波が高くなり始めていた。
船体が持ち上げられ、落ちる。甲板の木がきしみ、帆が強く鳴った。
「ティア」
「うむ。妙じゃな」
ティアも船酔いどころではなくなったのか、真剣な表情で海を見ていた。
「ただの天候悪化ではないのう。魔力の流れが、海の下から乱れておる」
「海の下から?」
「何かがおる」
その言葉とほぼ同時だった。
バロンが叫ぶ。
「来やがったかッ! 帆を絞る! お前ら、何かに掴まってろ!」
海が盛り上がった。
船の右舷側、少し離れた水面が不自然に膨らみ、白い泡が渦を巻く。次の瞬間、波間から黒い影が浮かび上がった。
一つではない。
二つ。
三つ。
さらに奥にも影がある。
「バロンさん、あれは?」
「セイレーンだ!」
バロンは歯を食いしばりながら舵を切る。
「群れで来やがった。くそっ、よりによってこいつらか!」
セイレーン。
波間に浮かび上がったそれらは、上半身だけなら人に近い姿をしていた。
長い髪。
青白い肌。
女のような顔立ち。
だが、その腕には薄い膜があり、下半身は魚とも蛇ともつかない滑らかな鱗に覆われている。美しさと不気味さを無理やり混ぜ合わせたような姿だった。
「なんじゃ、セイレーンか」
ティアが眉をひそめる。
「知ってるのか?」
「うむ。歌で人を惑わせ、船を海へ引きずり込む厄介な海獣じゃ」
「歌?」
俺が聞き返した瞬間、声が聞こえた。
歌だった。
甘い。
冷たい。
耳の奥に絡みつくような声が、波音に混じって響いてくる。
それは言葉になっているようで、なっていない。意味は分からないのに、なぜか聞き入ってしまいそうになる。
「耳を貸すな!」
ティアが叫んだ。
その声で、俺は我に返る。
まずい。
一瞬、意識が引っ張られた。
海の方へ。
波の向こうへ。
歌声のする場所へ。
「ユウマ、ぼんやりするでない!」
「悪い!」
俺は黄泉の柄に手を添え、意識を無理やり引き戻す。
歌声はまだ続いている。
しかも、周囲を見ればセイレーンの数はさらに増えていた。船の前方、左右、後方。まるで追いかけるように波間から姿を現し、《海燕》を取り囲んでいく。
「囲まれてるぞ!」
「分かってる! だが、今無理に突っ切れば船腹をやられる!」
バロンが舵を握りながら叫ぶ。
荒れた波が船を揺らし、甲板に海水が叩きつけられた。
ティアが魔力を練る。
だが、すぐには撃たない。いや、撃てないでいた。
船の周囲に敵が多すぎる上に、波も荒れている。下手に大きな魔法を放てば、船ごと巻き込みかねない。
「相変わらず海とは面倒じゃのう」
「船酔いしてる場合じゃなくなったな」
「その話は忘れよ」
軽口を叩きながらも、ティアの目は鋭かった。
俺も黄泉に手をかける。
足元は揺れている。
風は強い。
波は荒れ、歌声は耳の奥にまとわりついてくる。
陸の上とは何もかも違う。
セイレーンたちは、船を囲んだままゆっくりと近づいてくる。
その瞳が、こちらを見ていた。
人のように笑っている。
獲物を見つけた獣のように。
そして、波間からまた歌声が重なった。
甘く、冷たく、深い海の底へ誘うような声。
バロンが舵を握りしめる。
「振り落とされるなよ! ここからが本番だ!」
《海燕》が大きく揺れた。
目の前の波が、壁のように立ち上がる。
その向こうで、無数のセイレーンが歌っていた。
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