第43話「海獣と漁師」
俺とティアの声が、受付所の中で綺麗に重なった。
ファミート王国行きの船は、すべて欠航中。
次の便も未定。
早ければ数週間、悪ければ数か月は動かないかもしれない。
「どうする? これじゃ、ファミート王国には行けないぞ」
俺が小声で言うと、ティアは腕を組んで眉を寄せた。
さっきまで刺身のことで目を輝かせていたのに、今はその輝きがだいぶ曇っている。
「そもそも、なぜ欠航しておるのじゃ?」
ティアが受付の女性へ問いかける。
すると、女性は少し困ったように眉を下げた。
「最近、ファミート王国行きの航路に海獣が出るのさね」
「海獣か。また難儀じゃのう」
ティアの表情が、分かりやすく曇った。
さっきまでの食欲全開の顔ではない。
警戒。
それに近い色が、琥珀色の瞳に浮かんでいる。
「そんなに厄介なのか?」
俺が聞くと、ティアは小さくため息を吐いた。
「海獣と言っても色々おる。小舟をひっくり返す程度のものから、島と見間違うほど巨大なものまでな。じゃが、共通しておるのは、一種の天災じゃということじゃ」
「天災……」
地震や台風みたいな、自然の脅威ということだろうか。
そう考えると、かなり厄介だ。
生き物なら対処のしようがありそうにも思えるが、海の上では話が違う。足場は船で、逃げ場は限られている。相手の土俵で戦うことになる以上、ただ強ければどうにかなるというものでもない。
受付の女性も、ティアの言葉に同意するように頷いた。
「お嬢ちゃんの言う通りさね。腕に覚えのある冒険者でも、海の上じゃ勝手が違う。大人しく待つのが一番だよ」
「そうですか……」
俺は肩を落とした。
ファミート王国。
獣人の国。
刺身。
全部、目の前で遠ざかっていく。
「むぅ……サシミが……」
「そこなんだよな、問題は」
「重大問題じゃろうが」
「いや、まあ、俺も食べたいけど」
そうは言っても、海獣が出る航路へ無理やり船を出せとは言えない。
命あっての刺身だ。
俺たちはひとまず受付所を出ることにした。
外へ出ると、潮風が頬を撫でる。
港では相変わらず人が行き交い、船乗りたちが縄を引いたり、荷を積み込んだりしていた。ただ、受付所の中で聞いた後だと、その活気の裏に少しだけ重いものが混じっているように感じる。
ファミート王国行きの船が止まっているなら、この港にも影響は出ているはずだ。
商人。
船乗り。
魚を扱う店。
そして、海を渡れずに困っている人たち。
欠航という一言の裏には、思った以上に多くの足止めがあるのだろう。
「さて、どうするか……」
「待つのは性に合わぬのう」
「だからって海獣に突っ込むのもな」
「妾は止めぬぞ?」
「止めてくれ」
そんな話をしながら、俺たちは乗船場の近くで足を止めた。
港の向こうには青い海が広がっている。
太陽の光を受けて、波は穏やかに輝いていた。今見える範囲だけなら、とても天災と呼ばれるような怪物が潜んでいるとは思えない。
だが、海は広い。
見えているものだけがすべてではない。
「なぁ、あんたら」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、そこには一人の男が立っていた。
髪を後ろで一本に束ね、日に焼けた肌をしている。背は高く、肩幅も広い。服装は丈夫な布でできた船乗り風のもので、腕には縄の擦れた跡のようなものがあった。
見るからに海の男だ。
「あんたら、ファミート王国に行きたいのか?」
「ああ、そうだけど……あんたは?」
「わりぃわりぃ。いきなり声をかけちまって。俺はバロン。漁師をやってるもんだ」
「俺はユウマ。こっちは連れのティアだ」
「妾がティアじゃ」
俺たちは簡単に名乗り、バロンと握手を交わした。
バロンの手は硬かった。
厚い皮膚と、ところどころにできた古傷。毎日、網や舵や縄に触れている手だと分かる。
バロンの視線が、俺の腰の黄泉へ向かう。
それから、ティアへ。
小柄な少女にしか見えないはずなのに、何かを感じ取ったのか、バロンは少しだけ目を細めた。
「あんたら、普通の旅人って感じじゃねぇな」
「まあ、多少は荒事にも慣れてます」
「そいつは助かる」
バロンは周囲を軽く見回したあと、少し声を落とした。
「実はな、俺はファミート王国に住んでるんだ。漁師をしながら、向こうとこっちを行き来してる」
「ファミート王国の人なのか」
「ああ。けど、今はこっちに足止めされてる。娘が病気でな、薬を取りにグラハまで来てたんだが、海獣のせいで戻れなくなっちまった」
バロンの表情が苦くなる。
「すぐ命に関わるような病気じゃねぇ。だが、薬が切れると悪くなる。あいつは小さい頃から体が強くなくてな。できるだけ早く帰ってやりてぇんだ」
「なるほど……」
ティアが静かにバロンを見る。
さっきまで刺身のことで騒いでいた時とは、少し違う顔だった。
「それで、俺たちに声を?」
「ああ。さっき、あんたらがファミート王国に行きたいって話してるのが聞こえてな」
バロンは頭をかいた。
「定期船は出せねぇ。けど、俺の船なら出せる。もちろん、定期船ほど大きくはねぇし、海獣に見つかったら逃げ切れる保証もない。正直、危ない橋だ」
「それでも出るのか?」
「娘が待ってるからな」
その一言に、変な飾りはなかった。
だからこそ、重かった。
「もし、あんたらが護衛をやってくれるってんなら、俺の船に乗らないか? ファミート王国まで送る。俺は帰れる。あんたらも向こうに行ける。悪い話じゃないと思うんだが」
俺はティアと顔を見合わせた。
答えは、言うまでもない。
危険はある。
海獣という不安もある。
けれど、このまま何週間も港で待っているわけにはいかない。何より、目の前には娘の薬を持って帰りたい父親がいる。
見捨てる理由はなかった。
「是非頼む!」
「任せるのじゃ!」
俺とティアは、ほとんど同時に答えた。
バロンは一瞬だけ目を丸くし、それから大きく笑う。
「即答かよ。ありがてぇ」
「ただし、できるだけ海獣とは出会わない方向でお願いします」
「そりゃ俺も同じだ。海獣とやり合いたくて船を出す漁師なんざ、ろくなもんじゃねぇ」
「そう聞いて安心しました」
隣でティアが腕を組む。
「腕が鳴るのう」
「お前、今の話聞いてたか?」
「聞いておる。できれば避ける。じゃが、出たなら仕方ない。叩く」
「できるだけ戦わない方向で行こうな?」
「むぅ。つまらぬ」
「海獣を娯楽扱いするな」
なんでこんなにやる気満々なのか分からないが、天災と呼ばれているものに、できるなら関わりたくはない。
少なくとも、船の上で戦うのは嫌だ。
足場は揺れるし、逃げ場はないし、海に落ちたらそれだけでかなりまずい。
黄泉がどれだけ斬れる刀になったとしても、海そのものを相手にできるわけではない。
「じゃあ、こっちだ。船を見せる」
バロンはそう言って歩き出した。
俺たちはその後についていく。
港の奥へ進むにつれて、大きな商船は少なくなり、代わりに漁船や小型の船が増えていった。網が干され、樽が積まれ、魚の匂いが濃くなる。船乗りたちがこちらをちらりと見たが、バロンを見ると何かを察したように視線を逸らした。
たぶん、彼が船を出そうとしていることを知っているのだろう。
やがて、バロンは一隻の船の前で足を止めた。
「これが俺の船だ」
そこにあったのは、定期船と比べればずっと小さな漁船だった。
ただ、小さいと言っても二、三人しか乗れないようなものではない。帆もあり、荷を積む場所もある。手入れは行き届いていて、古びてはいるが、きちんと使い込まれた船という印象だった。
「名前は《海燕》だ。速さだけなら、そこらの船には負けねぇ」
「へえ……」
俺は船体を眺める。
木材の継ぎ目はしっかりしているし、縄や帆の状態も悪くなさそうだ。素人目だが、バロンがこの船を大事にしていることは分かった。
「いい船だな」
「分かるか?」
「鍛冶師だから船は専門外だけど、大事に使われてる道具かどうかくらいは分かる」
「ははっ、嬉しいこと言ってくれるじゃねぇか」
バロンは満足そうに船体を叩いた。
その音は乾いていて、しっかりしている。
「出発は?」
「準備ができ次第だ。薬と最低限の積み荷はもう積んである。あんたらが乗るなら、水と食料を少し増やすくらいで済む」
「早いな」
「長居してる余裕がねぇからな」
バロンの声に、父親としての焦りが滲む。
俺は頷いた。
「分かった。俺たちもすぐ乗れる」
「よし。なら日が高いうちに出るぞ。夜の海は余計に危ねぇ」
「海獣は夜に出やすいのか?」
「分からねぇ。けど、見えねぇ海ほど怖いもんはない」
その言葉は、妙に説得力があった。
海を知っている人間の言葉だ。
俺は改めて沖合へ視線を向ける。
港から見る海は穏やかだった。
青く、広く、眩しい。
けれど、そのどこかに海獣がいる。
天災と呼ばれる存在が。
「ユウマ」
ティアが隣に立つ。
「なんだ?」
「サシミへの道は険しいのう」
「そこに戻るのかよ」
「当然じゃ。大事なことじゃろう」
「まあ、たしかに大事だけど」
俺は苦笑した。
一時はどうなることかと思ったが、どうにかなりそうだ。
海獣の存在は気になる。
危険なのも分かっている。
けれど、この機会を逃せば、次にいつファミート王国へ渡れるか分からない。
それに、バロンの娘の薬もある。
行く理由は十分だった。
バロンが船の上から手招きする。
「おーい、乗ってくれ。出航の準備を始めるぞ」
「ああ、今行く」
「うむ!」
俺たちは荷物を抱え、《海燕》へと乗り込んだ。
木の甲板が、足元でかすかに揺れる。
潮風が吹き抜け、帆が小さく鳴った。
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