第42話 港町グラハ
ガリア共和国を離れてから、数日が経った。
俺たちは山岳地帯を大きく迂回しながら東へ進み、その途中にあった小さな村で港町行きの荷馬車に乗せてもらっていた。
目的地は、港町グラハ。
そこから船に乗り、海を渡った先にあるファミート王国を目指す予定だ。
荷馬車は、がたごとと音を立てながら街道を進んでいる。道はガリア周辺ほど険しくはないが、それでも山裾を抜ける道らしく、時折大きく揺れるたびに積み荷の木箱が小さく跳ねた。
「むぅ……尻が痛くなってきたのう」
隣に座るティアが、不満そうに呟く。
「歩くよりは楽だろ」
「それはそうじゃが、妾ほどの者を乗せるなら、座布団の一つくらい用意せぬか」
「荷馬車に王族待遇を求めるな」
そんなやり取りをしながら、俺は幌の隙間から外を眺める。
ガリアの岩と火の空気は、もう遠い。
街道の左右には低い草地が広がり、その向こうに山並みが続いている。風は少し湿り気を帯びていて、ガリアの乾いた熱とは違う匂いがした。
しばらく揺られていると、ティアがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、おぬし」
「ん?」
「ゴーレムとの戦いの時、神楽の名を冠した技を使っておったの」
「ああ、《新月》のことか」
俺は腰に下げた黄泉へ視線を落とす。
鞘の中の刀は、今も静かに沈黙していた。あの戦い以降、何度か軽く確認はしたが、黄泉が勝手に何かを伝えてくることはない。
あの時だけだ。
あの魔力光線を前にした瞬間、黄泉が俺に使い方を教えてきた。
「あれ、不思議な感覚だったんだよ。技名も、動きも、黄泉から直接頭の中に流れ込んできたみたいでさ」
「ほう?」
ティアが興味深そうに目を細める。
「つまり、おぬし自身が考えたわけではないのじゃな」
「そうなるな。気づいたら、あの名前が浮かんでた。神楽流抜刀術、壱ノ型《新月》。……自分で言っておいてなんだけど、なんか仰々しいよな」
「神楽の名が出てきた以上、ただの偶然とは思えぬのう」
「だよな」
神楽の一族。
女神の加護を受け、世界の歴史に大きく影響を与えた存在。
その神楽の名を冠した技を教える黄泉。
考えれば考えるほど、ただの武器で済ませられる気がしない。
「もしかしたら、黄泉自身も神楽の一族と何かしらの縁があったのかもしれないな」
「あるいは、おぬしの中に眠っているものが、黄泉を通して表に出たのかもしれぬぞ?」
「俺の中に、ねぇ……」
正直、あまり実感はない。
俺は前世では普通の鍛冶師だった。
いや、普通と言うには少し偏っていたかもしれないが、少なくとも神だの一族だのとは無縁の人生だったはずだ。
それが今では、異世界で魔王の少女と旅をしている。
改めて考えると、なかなか無茶苦茶な状況だ。
「まあ、今すぐ答えが出る話でもないか」
「うむ。気になるが、焦っても仕方あるまい。黄泉がまた何かを伝えてくるなら、その時に考えればよい」
「そうだな」
荷馬車がまた大きく揺れ、俺は軽く体勢を直す。その時、ふと風の匂いが変わった。
湿った空気。
どこか懐かしい、塩の匂い。
「……潮風?」
俺が呟くと、ティアも鼻をひくつかせた。
「んむ。近いのう」
「近いって、何が?」
「海じゃ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は幌の隙間から身を乗り出した。
街道の先で、木々が途切れている。
その向こうに、青い光が見えた。
荷馬車が坂道を越え、視界が一気に開けた。
「おお……!」
遠くに、海が広がっていた。
青々とした水面が太陽の光を反射し、きらきらと眩しく輝いている。波はゆっくりとうねり、海鳥らしき白い影が空を滑っていた。
異世界に来て、初めて見る海。
元の世界で見た海と同じようで、でもどこか違う。
空の色も、風の匂いも、波の光り方も、すべてが少しだけ鮮やかに見えた。
「おー! 海だ!」
思わず声が出た。
「んー、良い香りじゃのう!」
ティアも満足そうに目を細める。
ただし、こいつの場合は海そのものというより、その先にある魚料理を想像している顔だった。
「お前、もう刺身のこと考えてるだろ」
「当然じゃ。海の香りとは、すなわち魚の香り。魚の香りとは、すなわち美味の予感じゃ」
「詩人みたいに食欲を語るな」
「食は詩じゃぞ」
「初めて聞いたわ」
荷馬車は坂を下り、港町グラハへ向かっていく。
海が近づくにつれて、道を行き交う人の雰囲気も変わってきた。荷車には木箱や樽が積まれ、布で覆われた荷の隙間から魚の匂いがする。通り過ぎる人々の服装も、船乗りらしい丈夫な布地のものが増えていった。
しばらくして、荷馬車はグラハの入口へ到着した。
俺たちは御者に代金を払い、荷物を持って馬車を降りる。
「ありがとうございました」
「ああ、気をつけてな。港は人が多いから、荷物はしっかり持っとけよ」
「はい」
御者と別れ、俺とティアは町の中へ入った。
グラハは、ガリアとはまるで違う町だった。
石と木で作られた建物が坂道に沿って並び、通りには潮風が抜けている。魚を売る店、網を修理する職人、樽を運ぶ男たち、旅人向けの宿や酒場。あちこちから威勢のいい声が飛び交い、港町特有の活気が町全体を包んでいた。
そして、港には大小様々な船が並んでいる。
帆を畳んだ大型船。
荷を積み込む商船。
近海用らしい小舟。
船乗りたちが甲板から降りてきたり、逆に荷を担いで乗り込んだりしている。
「すごいな……」
思わず足が止まる。
ガリアの槌音も迫力があったが、ここにはまた別の熱気があった。
潮の匂い。
魚の匂い。
木材と油の匂い。
人の声と波の音。
町全体が、海へ向かって開いているような場所だった。
「ユウマ、まずはサシミじゃ」
「いや、まずは船の確認だろ」
「サシミは?」
「ファミート王国に着いてからだって言ってただろ」
「むぅ……」
ティアは不満そうに頬を膨らませた。
気持ちは分かる。
俺も刺身という単語を聞いてから、胃の奥に妙な期待が居座っている。
だが、先に船だ。
海を渡らなければ、刺身どころかファミート王国にも行けない。
「乗船場は……あっちか」
案内板を頼りに、俺たちは港の一角にある乗船受付へ向かった。
受付所は木造の大きな建物で、中には旅人や商人らしい人たちが何人も並んでいる。壁には行き先ごとの札が掛けられており、便の時間や料金らしきものが書かれていた。
俺は列に並び、順番を待つ。
ティアはそわそわと周囲を見回していた。
「落ち着けよ」
「妾は落ち着いておる」
「その割には、尻尾があったら振ってそうな顔してるぞ」
「失礼な。妾に尻尾はない」
「そういう問題じゃない」
しばらくして、俺たちの番が回ってきた。
受付に座っていたのは、日に焼けた肌の中年女性だった。慣れた手つきで書類を整理しながら、こちらを見る。
「行き先は?」
「ファミート王国まで行きたいんですが、次の便はいつですか?」
俺が尋ねた瞬間、受付の女性の手が止まった。
そして、少しだけ困ったような顔をする。
「ファミート王国行きかい。悪いね。今、ファミート王国行きの便は全部止まってるよ」
「……止まってる?」
俺は聞き返した。
ティアも横で目を瞬かせる。
「欠航中ってことですか?」
「そう。次の便も未定で再開の目処も立ってないんだ」
その言葉に、俺とティアは顔を見合わせた。
海。
刺身。
獣人の国。
ようやく次の目的地が見えてきたと思ったのに。
俺はもう一度、受付の女性を見る。
「一隻もない感じですか?」
「悪いね。早ければ数週間、悪ければ数か月は動かないって話だよ」
ティアの口が、ぽかんと開いた。
俺もたぶん、似たような顔をしていたと思う。
そして、ほとんど同時に声が漏れた。
「は?」
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