第46話「海の雫」
荒れていたはずの海が、嘘みたいに静まり返っていた。
さっきまで壁のように立ち上がっていた波は力を失い、《海燕》の周囲だけが不自然なほど穏やかになっている。船を囲んでいたセイレーンたちも、歌うことすら忘れたように波間で身を潜めていた。
その中心に、リヴァイアサンがいる。
海面に膝をついたまま、彼女は俺を見上げていた。
いや、正確には見上げているのに、こちらが見下ろされているような妙な圧がある。敵意はない。むしろ、向けられているのは敬意に近いものだ。
けれど、だからこそ落ち着かない。
「貴方の力の一柱でございます」
さっき聞いた言葉が、まだ頭の中で引っかかっていた。
俺の力。
そんなことを言われても、俺にはまったく覚えがない。俺が持っているものといえば、《鍛冶》のスキルと、前世から一緒に来た黄泉くらいだ。どちらも普通ではないと分かっているが、海そのものみたいな存在に頭を下げられる理由にはならない気がする。
「……説明してもらえるか」
俺は黄泉の柄から手を離し、リヴァイアサンを見た。
「俺は自分がどういう存在なのか、正直ほとんど分かっていない。神楽の一族かもしれないとは聞いたが、それ以上のことは知らないんだ」
「承知いたしました」
リヴァイアサンは静かに頷くと、ゆっくりと立ち上がった。
水面が彼女の足元だけ床のように固まり、波紋一つ立てない。水色の髪が風もないのに揺れ、深海のような瞳がまっすぐ俺を捉える。
「かつて、歴史が大きく変わるような出来事の背後には、神楽の一族と呼ばれる存在がいたのはご存知でしょうか?」
「ああ。簡単にだが、ティアから聞いたことがある」
俺がそう答えると、リヴァイアサンは横目でティアを見た。
その視線は冷たい。
氷というより、深い海の底で光が届かなくなっていくような冷たさだった。
「随分と雑な伝え方をされたようですね」
「なんじゃ、その言い方は。妾とて、全部を知っておるわけではない」
ティアが不機嫌そうに眉を寄せる。
リヴァイアサンはそれ以上ティアに言葉を返さず、再び俺へ視線を戻した。
「世にはまとめて神楽の一族と伝わっておりますが、本来、神楽という名は、異世界より現れた運命を背負いし渡り人のことを指します」
「異世界より現れた、渡り人……」
「はい。そして、その神楽に忠誠を誓い、付き従う者たちこそが、神楽の一族と呼ばれる存在なのです」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中でいくつもの話が繋がっていった。
神楽の一族。
渡り人。
歴史を変えた存在。
千年以上前、この世界で魔族と戦い、今の世界の形を作ったとされる者たち。その中心にいた人物は、俺と同じように異世界から来た人間だったのかもしれない。
いや、リヴァイアサンの言い方からすると、それは一度きりの話ではない。
過去に何度も、神楽と呼ばれる存在が現れた。
現れては、運命とやらに巻き込まれたのか、自分から踏み込んだのかは分からないが、その時代に大きな影響を与えてきたのだろう。
そして、リヴァイアサンもまた。
「つまり、あんたもその神楽の一族なのか」
「はい。私は代々の神楽様に忠誠を誓い、力を貸してきた者の一柱です」
リヴァイアサンは迷いなく答えた。
その横で、バロンが小さく呻く。
「ちょ、ちょっと待て。神楽だの、魔王だの、リヴァイアサンだの……俺の船で何の話をしてやがるんだ……?」
気持ちは分かる。
海を走っていたらセイレーンに囲まれ、次にリヴァイアサンが現れ、同行者が魔王だと判明し、今度は俺が神楽様と呼ばれている。
普通なら、舵を握ったまま現実逃避してもおかしくない。
「バロンさん、俺も半分くらいしか分かってないです」
「半分分かってるだけで十分おかしいだろうが!」
バロンの悲鳴に近い声を聞いて、少しだけ現実感が戻ってきた。
そうだ。
俺もいきなり全部を受け入れられるわけがない。
「神楽様が現れるのは、何か世界で大きなことが起こる予兆なのです」
リヴァイアサンの声が、静かな海に落ちる。
「そして、神楽の一族は、過去に魔族たちと幾度となく戦ってきました。それはいつも、世界を巻き込むほど大きな出来事の中心に魔族が絡んでいたからなのです」
そこで、リヴァイアサンの視線がティアへ向いた。
先ほどまで俺に向けていた敬意は消え、代わりに鋭い警戒が浮かぶ。
「それが、何故か今回、魔王自らが神楽様に接触して同行している」
「……」
「どうやって神楽様を見つけたのかは知りません。ですが、邪魔になる前に消しにでも来たか。もしくは、自分側に取り込もうとしたか」
空気が冷える。
海が静かだからこそ、リヴァイアサンの言葉は嫌になるほどはっきり響いた。
ティアはしばらく黙って聞いていたが、やがて明らかに不機嫌そうに口を開いた。
「父上がどうじゃったかは知らぬが、妾は野望もなければ戦いも望んでおらんわ」
その声には、いつもの軽さがなかった。
「ユウマと出会ったのも偶然でしかない。そもそも妾がこやつを利用するつもりなら、もっと上手くやっておる」
「それは自慢するところなのか?」
「黙っておれ。今いいところじゃ」
ティアは俺を睨んでから、改めてリヴァイアサンを見た。
「妾は旅をしておるだけじゃ。魔族も人族も、この世界が今どうなっておるのかを知るためにな。その途中でユウマと出会い、何となく面白そうだったから同行しておる。それ以上でも以下でもない」
「何となくで神楽様に近づいたと?」
「そうじゃ」
「……貴様」
リヴァイアサンの目が細くなる。
これはまずい。
なんというか、種族間の歴史とか宿敵とか、そういう重たい話の上に、ティアの「何となく」が油を注いでいる気がする。
俺はため息を吐いて、一歩前に出た。
「それに関しては、俺からも言わせてもらう」
リヴァイアサンが俺を見る。
「本当に偶然だったんだ。ティアと会ったのは、俺がこっちの世界に来てすぐのことだった。あいつが俺を探していたとか、利用しようとしていたとか、そういう感じじゃない」
「ですが、魔王であれば神楽様に害をなすことも可能です」
「まあ、ティアが本気で俺を殺そうと思えば、たぶん俺なんかすぐに殺せたと思う」
俺がそう言った瞬間、リヴァイアサンの表情が止まった。
次の瞬間。
「あっはははは!」
静かな海に、リヴァイアサンの笑い声が響いた。
上品、というには少し豪快すぎる笑い方だった。バロンがぎょっとし、ティアも「なんじゃ急に」と眉をひそめる。
「神楽様も面白いことをおっしゃる」
「いや、こっちはわりと真面目に言ったんだが」
「ええ。だからこそ、面白いのです」
リヴァイアサンは笑みを残したまま、俺を見つめた。
「代々、先代の神楽様は例外なく絶大な力を持っていました。それは貴方様も例外ではありません」
「俺が?」
「はい。貴方様はまだ、自分の中に眠る本当の力を理解していないだけなのです」
俺の中に眠る本当の力。
そんなものが、本当にあるのだろうか。
確かに黄泉は異常だ。《鍛冶》も普通のスキルとは思えない。けれど、それは今の俺が自由自在に扱えている力ではない。
むしろ、黄泉に関しては扱えているというより、振り回されているに近い時すらある。
仮に凄い力があったとしても、現状それが使えないなら意味がない。ティアからすれば、やっぱり俺なんて瞬殺できる相手だと思う。
それでも。
「もし、俺にそんな凄い力があったとしても」
俺はリヴァイアサンを見返した。
「あるいは、何かしらの運命を背負っているとしても、俺は自由に生きるって決めてるんだ」
前世の俺は、最後まで鉄と炉の前にいた。
やりたいことも、見たい景色も、食べたいものも、きっとたくさんあったはずなのに、気づけば全部が仕事と病に削られていた。
だから、今世では自由に生きると決めた。
美味いものを食って、見たい景色を見て、いつか自分の工房を持つ。
それだけは譲れない。
「それは、ティアが俺を利用しようとしてようが、あんたたちが俺を神楽様と呼ぼうが変わらない」
黄泉の柄に、軽く指を添える。
「俺は俺の思うように生きるだけだ」
リヴァイアサンは何も言わなかった。
深い海のような瞳で、ただ俺を見つめている。
怒っているのか、呆れているのか、それとも失望したのか。判断できない沈黙が続き、甲板の上に妙な緊張が広がっていく。
やがて、リヴァイアサンは小さく息を吐いた。
そして、穏やかに笑った。
「……なるほど」
その声には、先ほどまでの警戒とは違う響きがあった。
「歴代の神楽様も、皆そうでした」
「え?」
「世界に、あるいは運命に選ばれながら、最後に選ぶのはいつもご自身の意志だった。誰かに命じられたからではなく、誰かに祈られたからでもなく、自らの足で進む道を決められた」
リヴァイアサンは、再び俺の前で膝をつく。
「私は神楽様に忠誠を誓う身。貴方様の生き様に文句を言うつもりは毛頭ありません」
その姿を見て、周囲のセイレーンたちが一斉に身を沈めていく。
波間から覗いていた青白い顔が、一つ、また一つと海中へ消えていった。まるで、舞台の幕が静かに下りていくみたいに。
「貴方様の往く道に、力として共にありましょう」
リヴァイアサンがそう告げると、その胸元から淡い光が浮かび上がった。
水の雫のような形をした宝石だった。
透明な青。
けれど、ただの宝石ではない。中で小さな海が揺れているような、不思議な光を宿している。
「どうぞ、これを」
リヴァイアサンが差し出した雫の宝石は、ふわりと空中を漂った。
俺が手を伸ばすより早く、それは吸い込まれるように俺の胸へ向かってくる。
「え、ちょっと待て」
止める間もなかった。
雫は俺の身体に触れた瞬間、音もなく溶け込んだ。
次の瞬間。
「っ……!」
身体の奥から、冷たい魔力が湧き上がった。
寒いわけじゃない。
むしろ心地いい。澄んだ水が血管の中を流れていくような感覚。熱を奪うのではなく、余分なざわつきを洗い流していくような、不思議な感覚だった。
同時に、海の気配が分かる。
波の揺れ。
船底を撫でる潮の流れ。
遠くで身を潜めるセイレーンの気配。
それらが、ぼんやりとだが肌で分かる。
「今のは……?」
「私の魂の欠片です」
リヴァイアサンは静かに答えた。
「これで離れていても、海や水に関わる場であれば、私の魔力の一端を借り受けることができるようになります」
「そんなことが……」
俺は自分の胸元に手を当てた。
そこに宝石が埋まっている感覚はない。けれど、確かに何かが俺の内側へ増えていた。
「いいのか? 魂の欠片なんて、簡単に渡すようなものじゃないだろ」
「もちろんです」
リヴァイアサンは迷いなく言った。
「先ほども申し上げました。私は貴方様の力の一柱なのです」
重い。
正直、とても重い。
神楽様と呼ばれるだけでも落ち着かないのに、今度は魂の欠片まで渡されてしまった。これで「ではさようなら」と軽く流せるほど、俺の神経は図太くない。
だが、リヴァイアサンは当然のことのように続ける。
「それに、この航路……。貴方様方は、ファミート王国へ向かわれていたと推察します」
「ああ。そのつもりだ」
「ならば、どうかお気をつけください」
リヴァイアサンの表情が少しだけ曇った。
それは、これまでティアへ向けていた敵意とは違う。
警戒。
いや、懸念に近いものだった。
「現在、ファミート王国がある大陸では、妙な気配がします」
「妙な気配?」
「はい。海を隔ててなお、こちらまで届くほどの歪みです。まだ正体までは掴めておりませんが、ただの魔物の群れや天候異常ではありません」
ただの魔物ではない。
天候異常でもない。
リヴァイアサンがそう言うなら、間違いなく厄介な何かだ。
「もしかして、さっき航路を阻んでいたのは……」
「無関係な者たちが巻き込まれぬよう、この周辺の航路を閉じておりました。セイレーンたちはそのために配置していたのですが……」
リヴァイアサンはちらりとセイレーンたちが消えた海面を見る。
「貴方様に牙を向けたこと、深くお詫び申し上げます」
「いや、まあ、こっちも事情を知らなかったからな」
危うく船ごと沈められそうになった気もするが、今さらそこを突っ込んでも話がややこしくなるだけだ。
バロンは全然納得していない顔をしているけど。
「航路は開きます。ですが、この先へ進むのであれば、どうかお気をつけください」
リヴァイアサンの身体が、少しずつ水へ溶けていく。
足元から透明になり、衣が波と混ざり、長い水色の髪が潮風に揺れる。
「神楽様。貴方様の道に、海の加護があらんことを」
そう言い残し、リヴァイアサンは海の中へ沈んでいった。
彼女の姿が完全に消えた瞬間、空を覆っていた雲が割れた。
風が変わる。
重く湿った空気が流され、夕暮れの空が顔を出す。荒れていた波は穏やかになり、《海燕》の船体を揺らす音もずっと優しくなった。
まるで、今までの出来事が全部嘘だったみたいだ。
「……おい」
しばらくして、バロンが低い声を出した。
「俺は今、どういう顔をして舵を握ればいい?」
「いつも通りでお願いします」
「できるか!」
そりゃそうだ。
俺だって、いつも通りではいられない。
ファミート王国がある大陸で、妙な気配がする。
リヴァイアサンは、それに人々が巻き込まれないよう航路を阻んでいた。つまり、それほどの何かがこの先で起きているということだ。
俺は胸元に手を当てる。
身体の奥で、冷たい水のような魔力が静かに揺れていた。
神楽。
リヴァイアサン。
俺の中に眠る本当の力。
また分からないことが増えた。
けれど、一つだけ分かることがある。
俺たちが向かう海の先で、何かが起きている。
それも、リヴァイアサンが航路を塞ぐほどの何かが。
俺は穏やかになった海の向こうを見つめる。
一体、この先で何が起こっているんだ。
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