第39話「戻らぬ者、残る者」
「ミラ……」
ガルドが小さく、亡き娘の名を呼んだ。
その声には、もう怒りの熱はなかった。何もかも燃え尽きた後に残る、冷えた灰のような響きだけがある。
坑道の中には、崩れ落ちた大型ゴーレムの残骸が転がっていた。
青白い光は消え、砕けた魔核の欠片が氷の粒をまとったまま地面に散らばっている。ついさっきまで暴れ回っていた怪物は、今やただの瓦礫でしかなかった。
勝った。
そのはずなのに、胸の奥に残っているのは、すっきりしたものではない。
復讐のために作られた怪物。
娘を失った父親。
さらわれたチャロ。
この場所には、あまりにも重たいものが積もりすぎていた。
「チャロ!」
最初に動いたのは、エイネシアさんだった。
白狼の精霊が消えた場所から駆け出し、ファウラーさんに支えられていたチャロへ駆け寄る。
「エイネ姉……」
「怪我は? 痛いところは? 気持ち悪くない? 変な薬とか飲まされてない?」
「一気に聞かないで……」
チャロは弱々しく苦笑した。
頬には汚れがつき、服もところどころ破れている。ひどく疲れているのは明らかだったが、その目にはちゃんと光が残っていた。
生きている。
それだけで、エイネシアさんの表情がわずかに緩む。
「遅くなってごめん」
「本当だよ。エイネ姉、昔から来るの遅いんだから」
「それ、今言う?」
「今だから言うの」
チャロが小さく笑う。
エイネシアさんも笑おうとしたが、うまく笑えなかったのか、代わりにチャロの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「生きててよかった」
「うん」
短い言葉だった。
けれど、その一言に全部が詰まっていた。
俺はその光景を見て、少しだけ息を吐く。隣ではティアも静かに二人を見守っていた。
いつものように茶化すことはしない。
今だけは、それが正しいと思ったのだろう。
「ガルド」
ファウラーさんが、低い声で名を呼んだ。
ガルドは膝をついたまま、瓦礫を見つめている。肩と額からは血が流れていた。さっきチャロとファウラーさんを庇った時の傷だ。
決して軽くはなさそうだが、本人は気にしていないようだった。
「あなたを拘束します」
ファウラーさんの声には迷いがなかった。
ガルドは顔を上げない。
「好きにしろ」
ただ、それだけを言った。
「魔鉱石の横流し、チャロ様の誘拐、魔鉱石ゴーレムの製造。あなたのしたことは、到底見過ごせるものではありません」
「分かってる」
「国を壊そうとした。その罪も問われることになります」
「分かってるって言ってんだろ」
ガルドは吐き捨てるように言った。
だが、その声にさっきまでの勢いはない。怒鳴る力すら、もう残っていないように見えた。
「なら、どうして……」
チャロが口を開いた。
ファウラーさんに支えられながら、ゆっくりとガルドへ近づく。
「チャロ様」
「大丈夫です」
チャロは短く答え、ガルドの前で足を止めた。
「どうして、さっき私たちを守ってくれたんですか」
ガルドの肩がわずかに揺れる。
「知るか」
「でも、守ってくれました」
「違う。勝手に体が動いただけだ」
「それでもです」
チャロはまっすぐにガルドを見た。さっきまで怯えていたはずなのに、今は逃げなかった。
「ガルドさんは、私を殺せたはずです。捕まえていた間も、殺そうと思えばできたはずです。でも、しませんでした」
「……黙れ」
「さっきも守ってくれました」
「黙れ」
「だから、ありがとうって言わせてください」
「黙れッ!」
ガルドの叫びが、坑道に響いた。
チャロは肩を震わせたが、それでも下がらない。
ガルドは苦しそうに顔を歪める。
「礼なんざ言うな。俺はお前をさらった。利用した。殺そうとした。お前の親父を苦しめるために、お前を使った」
「それでも、私は生きています」
「俺が殺せなかっただけだ!」
ガルドの声が震えた。
「お前が……ミラと同じ目をしていたからだ」
その名が出た瞬間、空気が変わった。
ミラ。
ガルドの娘。
第七坑道を任され、事故で命を落とした女坑夫。
「危ねぇと分かっていても、坑道の奥を見ようとする目だ。自分が見つけた違和感を放っておけねぇ目だ。あいつもそうだった」
ガルドは片手で顔を覆った。
指の隙間から、血と煤で汚れた顔が見える。
「俺は、止めればよかった。第七坑道を任されたって聞いた時、誇らしがるんじゃなかった。すごいじゃねぇかなんて、言うんじゃなかった」
声が掠れていく。
「あいつは笑ってた。ロダン様に認められたって。自分の目が役に立ったって。坑道の連中が喜んでくれたって」
ガルドの拳が震えた。
「俺も嬉しかった。娘が認められたことが、誇らしかった。だが、その仕事があいつを殺した」
誰も、言葉を挟まなかった。
ガルドは続ける。
「ロダンを恨んだ。この国を恨んだ。ガリアの槌音を聞くたびに、頭がおかしくなりそうだった。あの日からずっと、俺にはあの音が、ミラを奪った音にしか聞こえなかった」
その言葉に、胸が重くなる。
失ったものは戻らない。
その痛みは、きっと外から見て分かるものではない。理屈で割り切れるものでもなければ、補償や謝罪で完全に埋まるものでもないのだろう。
けれど。
「失った者は戻らぬ」
ティアが静かに口を開いた。
その声は、不思議と坑道の奥まで通った。
「じゃが、残った者まで壊してよい理由にはならぬ」
ガルドは顔を上げる。
ティアは腕を組み、まっすぐに彼を見ていた。
「おぬしの悲しみは本物なのじゃろう。娘を失った痛みも、消えぬのじゃろう。じゃが、その痛みでチャロを傷つけ、ロダンを苦しめ、ガリアを壊そうとした。そこに正しさはない」
「他人に説教されるとはな……」
「他人だからこそ言えることもある。壊すのは簡単じゃ。怒りに任せて火を放てばよい。じゃが、一度燃えたものは戻らぬ。残るのは灰だけじゃ」
ガルドは何も言わなかった。
ただ、崩れたゴーレムの瓦礫を見つめる。復讐のために作った怪物は、今まさに灰のように沈黙していた。
「僕は、あなたを許さないよ」
エイネシアさんが言った。
その声は静かだった。怒鳴るわけでも、責め立てるわけでもない。
けれど、いつもの軽さはどこにもなかった。
「チャロをさらった。じっちゃんを苦しめた。この国を壊そうとした。そこは絶対に許せない」
ガルドは目を伏せる。
「……ああ」
「でも、チャロを殺さなかったことと、さっき守ったことは覚えておく」
エイネシアさんは、チャロの肩に手を置いた。
「それだけは、あんたの中にまだ残ってたものだと思うから」
ガルドの喉が小さく鳴った。
泣いているのか。
怒っているのか。
それとも、ただ息が詰まっただけなのか。
俺には分からなかった。
けれど、もう彼に抵抗する気はなさそうだった。
ファウラーさんが近づき、腰に下げた縄を取り出してガルドの手を縛る。
ガルドは黙ってそれを受け入れた。
「怪我の手当ても必要です」
「いらねぇ」
「必要です。あなたには、まだ話してもらわなければならないことがある」
「……好きにしろ」
ファウラーは短く頷いた。
その表情は厳しい。けれど、ただの怒りだけではなかった。
長としての責任。
国を守る者としての覚悟。
そして、目の前の男を裁かなければならない苦さ。
それらが混ざっているように見えた。
「チャロ様。歩けますか」
「少しなら」
「無理はしないで。僕が背負うよ」
エイネシアさんが当然のようにしゃがみ込む。
「えっ、でも」
「でもじゃない。妹は姉に甘えるものです」
「エイネ姉、そういう時だけ姉ぶる」
「こういう時に姉ぶらずに、いつぶるの」
チャロは少しだけ困った顔をしたあと、素直にエイネシアさんの背に身を預けた。
エイネシアさんは軽々と立ち上がる。
「軽いね。ちゃんと食べてる?」
「監禁されてた人に言うこと?」
「帰ったらご飯食べよう。じっちゃんにも顔見せないと」
「……うん」
チャロの返事は小さかった。
けれど、その声には安堵がある。
俺たちは坑道を出る準備を始めた。
瓦礫の中には、砕けた魔鉱石の欠片や、見慣れない金属部品が混じっている。ファウラーさんはそれを確認し、眉をひそめた。
「これは……ガリアの技術だけではありませんね」
「他国の錬金術師と繋がってたって話、本当みたいですね」
「ええ。後で詳しく調べます。おそらく、協力者はまだ外にいる」
問題は終わっていない。
魔鉱石ゴーレムを作る技術を持ち込んだ者。ガルドを利用した者。
そいつはまだ、どこかにいる。
だが、今はまずチャロを連れて帰るべきだ。そして、ガルドをロダンの前に連れていかなければならない。
旧搬出路を戻る道中、誰もあまり喋らなかった。
足音だけが、坑道の中に響いている。
ガルドはファウラーさんに縄を持たれ、黙って歩いていた。その背中は、以前見た時よりもずっと小さく見える。
やがて第七坑道の外へ出ると、冷たい坑道の空気から一転して、ガリアの街の熱が肌に触れた。
遠くから、槌音が聞こえる。
カン、カン、カン。
いつもと同じ音。
この街を支えてきた音。
そして、ガルドが長い間、憎み続けてきた音だ。
ガルドが足を止める。
「まだ、鳴ってやがるんだな」
誰に言うでもなく、彼は呟いた。
「……あの日からずっと、俺には恨めしい音だった」
チャロがエイネシアさんの背中から、静かに顔を上げる。
「でも、あの音があるから、ガリアは生きています」
ガルドは何も答えなかった。
ただ唇を噛み、槌音のする方へ目を向けている。その顔に浮かんでいたのは、怒りでも憎しみでもない。長い時間、見ないようにしていたものを、ようやく見つめ直しているような表情だった。
ファウラーが静かに言う。
「ロダン様のもとへ行きましょう」
その名に、ガルドの肩がわずかに揺れた。
けれど、彼は逃げなかった。
俺たちはガリアの街へ戻る。
槌音が響く道を、ゆっくりと進んでいく。
失った者は戻らない。
けれど、残った者まで壊していい理由にはならない。
その言葉が、胸の奥にずっと残っていた。
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