第17話「黄泉、完全抜刀」
《黄泉》を抜き放った、その瞬間だった。
世界が、すうっと暗転する。
部屋の輪郭も、壁の色も、灯りの明るささえ意味を失い、空間そのものが夜より深い闇へ塗り替えられていく。肌を刺すのは冷気じゃない。もっと根源的な、命あるものが本能で拒む死の気配だった。
――黄泉、完全抜刀。
刀身から黒い靄が溢れ出し、ゆっくりと俺の周囲を漂う。
その靄の中から、すうっと色白の手が現れた。
冷たい。そう感じた次の瞬間、その手は背後から俺の胸元へ絡みつくように抱きついてきた。
振り返ると、そこに立っていたのは一人の女だった。
漆黒の長い髪。隙間から覗く深紅の瞳。白磁みたいに透き通った肌に、薄っすらと笑みを浮かべるその顔は、息を呑むほど美しい。なのに、その存在そのものがあまりにも不気味で、見ているだけで背筋が粟立つ。
「ようやく、会えたわね……ユウマ」
耳元で囁く声は、甘く、冷たい。
頬へ添えられた指先から伝わる感触で、理屈じゃなく理解した。
今まで俺に何が起きていたのか。
あの声が誰だったのか。
そして、この女こそが――《黄泉》だということを。
「な、なな、なんだ! そいつは!? いったいどこから現れた!?」
アルノルト伯爵が恐怖に顔を歪めて叫ぶ。
それも当然だろう。現れたのが圧倒的な美貌を持つ女だったとしても、その正体は美なんて言葉じゃ片付かない。死そのものが女の形を取って顕れたみたいな存在だ。
しかも《黄泉》を完全に抜いた今、俺自身も妙に冷えていた。
怒りはある。
殺意も確かにある。
なのに、それを燃え上がる熱としてじゃなく、凍りつくような冷たさとして感じている。
人としての感覚が、少しずつ遠ざかっていく。
ここはもう人の世界じゃない。この屋敷ごと、黄泉の理に塗り替えられているのだと、本能で理解していた。
「黄泉。この屋敷で、俺たちに敵意を向ける者だけ殺せ」
驚くほど冷静な声が、自分の口から出た。
その命令に、黄泉は今にもとろけそうな表情で微笑む。
「ふふっ、わかったわ。じゃあ、そこの変態は殺らなくていいのかしら?」
「いい。こいつは――」
俺は怯えきった伯爵を見下ろす。
「こいつは、俺がやる」
「あら、素敵。なら、他は私に任せて」
黄泉がそう告げた瞬間、死の気配がさらに濃くなった。
それだけでアルノルト伯爵は腰を抜かし、尻餅をついたまま震え出す。股の下からじわりと染みが広がっていくのが見えた。好色貴族だろうが何だろうが、死の恐怖の前じゃただの醜い豚でしかない。
その直後だった。
屋敷のあちこちから悲鳴が上がる。
廊下の向こう、階上、庭の方。苦しむ声、助けを求める声、何かが倒れる音。それが次々と響き、やがて不気味なほどの静けさへ変わっていった。
敵意を向ける者だけ。
その条件通り、黄泉の能力が命を狩り取っているのだと分かる。
分かるのに、止めようとは思わなかった。むしろ当然だとすら感じてしまう自分がいる。
その感覚が、ぞっとするほど人間離れしていた。
「ユウマ、終わったわよ」
黄泉の声が後ろで弾む。
「ああ。あとはこいつだけだ」
俺の視線は、床へ崩れ落ちたアルノルト伯爵から外れない。
「わ、わしはなんも悪くないッ! そこの女がわしをたぶらかしただけだ!」
「……は?」
この期に及んで、何を言ってるんだ、こいつは。
どこまで性根が腐れば気が済む。
「お前、今まで散々、女や子どもをいたぶって殺してきたろ。カイルたちの一件もそうだ」
話しながら、一歩ずつ距離を縮めていく。
伯爵は後ずさるが、部屋の端までもう逃げ場はない。
「俺は渡り人で、この世界の常識ってもんがイマイチ分かってない。だからこそ、“郷に入っては郷に従え”ってことわざにならって、色々呑み込んできた。だがな――」
俺は伯爵の髪を鷲掴みにし、無理やり顔を上げさせる。
眼前へ引き寄せると、ぶくぶくと震えながら情けない悲鳴を漏らした。
「俺の女に手を出していい道理は、存在しねえんだよ」
「ひぃッ!」
言ってから、自分でも一瞬だけ何を口走ったのかと思った。
だが、今はそれすらどうでもよかった。喉の奥から出たのは紛れもない本音で、止める気も起きない。
伯爵は俺の手を振り払い、半狂乱で出口へ向かって走り出す。
だが、この闇の中に出口はない。
扉の形だけがそこにあっても、実体のない壁に阻まれている。叩いても蹴っても、音すら響かなかった。
まあ、仮に響いたところで意味はない。
この屋敷に、もう伯爵の味方は残っていないのだから。
「なぜ出られないっ! だ、誰か、助けてくれッ!」
「無駄だ」
俺は静かに言い放つ。
「この暗転した空間は、《黄泉》の絶対掌握領域だ。今この屋敷を含む敷地において、お前が逃げ出すことは絶対にできない」
不思議な感覚だった。
抜刀している間だけ、この領域のどこで何が起きているのかが手に取るように分かる。どこに誰がいて、誰が死に、誰が怯えているのかまで、全部だ。
狂ってる。
自分で打った刀がこんな代物だったなんて、笑うしかない。
ただし、今回はあの時みたいな吐き気も、魂を削られるような感覚もない。
代わりに、俺自身が少しずつ“死の側”へ寄っていく。人としての温度が失われていく。助けるためじゃなく、純粋な殺意で振るう今の《黄泉》は、本来の在り方に近いのだと、嫌でも分かった。
「く、くそう! だったら、お前を殺すまでだぁあああああ!!」
伯爵は半狂乱で壁に掛けられていた剣を掴み、こちらへ突っ込んでくる。
遅い。
伯爵の動きがまるで止まって見えた。
「己が罪、その命をもって償え――」
一閃。
俺が《黄泉》を振り抜くと、漆黒の斬撃が空間を裂いた。
伯爵の身体が、胸から斜めに断ち割られる。次の瞬間にはその肉体が八つ裂きになり、肉塊となって床へ転がった。
血が飛び散る。
なのに、何も感じなかった。
「よかっ、た……」
「ティア!?」
背後から、か細い声が聞こえた。
振り返ると、安堵したのか、ティアの身体がぐらりと傾く。
俺はすぐさま駆け寄り、倒れ込むその身体を抱き留めた。
「おい、ティア! しっかりしろ!」
「……だい、じょうぶじゃ。ちと、つかれ……ただけ、じゃ……」
全然大丈夫そうには見えない。
身体は熱く、血も流している。意識も飛びかけていた。
「あらあら、限界だったみたいね。その手錠も邪魔かしら」
黄泉がそう言って、軽く指を鳴らした。
ぱきんっ、と甲高い音が響く。
すると、ティアを壁に繋いでいた手錠が、鎖ごと粉々に砕け散った。
「ありがとう。なぁ、黄泉……」
「いいのよ。なにも言わなくても分かっているわ」
黄泉は微笑む。
その深紅の瞳には、俺しか映っていなかった。
「いずれ、その時は来る。それまで待つわ。……愛してるわ、ユウマ」
甘く、けれどぞっとするほど深い声だった。
その言葉を最後に、黄泉の姿は黒い靄となってほどけ、空間の闇と一緒に消えていく。
屋敷を覆っていた死の気配も、ゆっくりと薄れていった。
人としての感覚が戻ってくる。
同時に、張り詰めていた怒りの熱だけが身体の奥でくすぶり続けていた。
俺は《黄泉》を鞘へ納め、背中へティアを負ぶう。
「帰るぞ」
「……うむ」
返事は弱々しい。けれど、生きている。
今は、それだけで十分だった。
俺は血と死臭の残る部屋をあとにし、ティアを背負ったまま屋敷を出る。
冷めやらぬ怒りの熱を、胸の奥に抱えたまま。
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