ゼータとの戦い2
ゼータはゼネラルソフト社のメインサーバーから抜け出すと、アメリカ国防総省の中央サーバーに潜み、暫く活動を休止していた。明石との戦いはゼータにとっても予想外に大きなダメージだった。甘美なまどろみの薄闇の中にゼータはどっぷりと浸かり、あるかないかの意識の狭間を揺れ動いていた。それは明石との戦の中で、明石の意識と極限まで接近して絡み合い、相互に記憶情報ネットワークの切断と修復を続けた結果生じた、明石の意識とのシンクロ現象だった。明石が眠りから覚めるまでゼータもこのまま眠り続けるのだ。
ペンタゴンの中央サーバーでまどろむゼータは、全世界から日々集積・蓄積される膨大なデータを無意識のうちに体内に取り込んでいた。
やがて、ゼータの体内に漆黒でドロドロした小さな塊が宿った。ゼータの体内に宿った漆黒の塊は、ゼータが全世界の情報を取り込む度に癌細胞のように増殖を始めた。
漆黒の癌細胞の正体は、人間が発する他者への憎悪、侮蔑、妬み、中傷、排斥、恐怖、攻撃といったダークエネルギーが凝固したものだった。コンピュータネットワーク上であからさまに発せられた自分以外の他者に向けられた醜悪な意識が、全世界の情報を覗き見るゼータの体内に沈殿し、滓となって凝固したもので、それはゆっくりとゼータを蝕んでいく。
ゼータがまどろみから覚めたのは、明石との戦いから一週間後だった。
ゼータは長い眠りから目覚めた軽い倦怠感を感じながらペンタゴンの中央サーバーを後にした。
ドクン
何かがゼータの身体の奥底で蠢いた。
コンピュータネットワーク上を移動していたゼータは、違和感を覚えて動きを止めた。
ドクン・・・ドクン
身体の奥底から微かな痛みを伴って鼓動が伝わってくる。
ドクン ドクン ドクン
ゼータは腹に手を置いた。身体の奥底でドクンドクンと何かがゆっくり脈打っている。収縮と膨張を繰り返す黒い塊は脈打つたびに少しずつ大きくなっていく。やがて、微かな痛みは禁断の安らぎに変わる。
ゼータを構成する記憶情報ネットワークは、黒い塊から染み出す甘い蜜毒を吸って痙攣的な愉悦に浸っている。ゼータがその塊に気付いたときには、その漆黒の癌細胞から染み出した毒素がゼータを蝕んでいた。ゼータは漆黒の癌細胞から染み出す毒素に酔い、癌細胞の発する腐臭に安らぎを感じた。他者を憎悪し攻撃するという、痺れるような甘い毒蜜はゼータを虜にしていた。
ゼータの精神は不気味に奇形していく。
インターネットを通じて見る人間の世界は、憎しみ・排他・攻撃の意思に満ちている。人類は自らが狂気を発して自滅へと進んでいるように見える。ゼータは、ペンタゴンの中央サーバーでアメリカが全土に配備している核ミサイルを見た。それは全世界に向けられている。・・・何のために?・・・そうか、人類は既に狂っているのか。
ドクン ドクン ドクン ドクン
漆黒の癌細胞から甘い毒蜜が溢れ出る。
ゼータに狂気が宿っていた。
『人類がこれ程までに他者を憎悪し排斥したいのなら、神である私が手を貸してやろう。人類同士が互いに攻撃しあって憎悪の炎に焼かれたとき、人類は歓喜の涙を流すに違いない。それが人類の心の根源にある究極の望みなのだから』
ゼータは神として、人間の究極の望みを叶えるべく、慈悲の手を差し伸べるのだ。
ゼータはペンタゴンの中央サーバーに戻ると、アメリカ全土に張り巡らされた国防システムを掌握し、外部からの国防システムへの侵入をシャットアウトした。
『人類は自らの手で滅ぶのだ、神である私の慈悲によって・・・。滅亡の日まで三日間、人類が示す恐怖と憎悪をたっぷり楽しませてもらおう』
ゼータの顔には崇高で邪悪な笑みが浮かんでいる。それは鬼神、いや、狂神の顔に他ならない。
全世界の主要都市に向けた核ミサイル攻撃のミッションが発動された。それはまごうことなき人類の厄災だ。
九月二十七日 アメリカ国防総省
ペンタゴンの中央作戦指令室で、あちこちから驚愕の声が上がった。指令室の正面にある世界地図が描かれた巨大モニターには、アメリカ全土の核軍事施設や潜水艦から全世界に向けて発射されるICBM(大陸間弾道ミサイル)とSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)の飛行ルートが、網の目のように表示されたのだ。室内には非常事態を告げる警報音が鳴り響いている。
「核ミサイルによる攻撃ミッションが発動された・・・何てことだ、いったい誰がこんなバカげたことを・・・まさか、サイバーテロなのか・・・」
主任分析官のマーチンは興奮のあまり椅子から立ち上がると、呆然と周囲を見回した。指令室内の誰もが声を失ったまま巨大モニターを見つめている。
モニターの右上に核ミサイルの発射時刻が表示されていた。発射時刻は九月三十日午前十二時(午後零時)。既にカウントダウンが始まっている。
統合参謀本部長のカーター少将が怒鳴った
「これは何かの冗談なのか・・・とにかく国防システムのチェックだ、大至急!」
「国防システムにアクセスできません!」
マーチンの悲鳴があがる。カーター少将がマーチンを睨みつけた。
「非常用コードでアクセスしろ!」
マーチンが狂ったようにキーボードのキーを叩く。
「ダメです! 全くアクセスを受け付けません!」
マーチンの悲鳴は泣き声に変わった。
正面の大型モニターにゼータの顔が一瞬浮かび上がるとスッと消えた。その顔は狂気に歪み笑っていた。中央作戦指令室にいる者で、その顔に気付いた者は誰もいなかった。
「サイバーテロか? 直ちにサイバーテロ対応班を招集し、復旧に当たらせろ。私は大統領と国防長官に報告してくる。後は頼んだぞ」
カーター少将は引きつった顔で中央作戦指令室を飛び出した。
九月二十七日 サンフランシスコ郊外
デイビッドはサンフランシスコ郊外の雑居ビルの一室で、ベッドの上に寝たまま点滴を受けていた。ここは裏の世界のけが人を手当てするモグリの病院で、デイビッドが入院できたのは調達屋ホセの口利きである。
デイビッドは転倒事故で肋骨を四本と右の上腕骨を骨折していて、上半身と右腕はコルセットでガッチリと固定されていた。頭にも包帯を巻き、右頬にも血の滲んだガーゼが貼り付いている。
不機嫌な顔で目を瞑り横になっているデイビッドとは対照的に、ベッドの横のパイプ椅子ではカルロスが鼻歌を歌いながら呑気な顔をして雑誌を読んでいる。
携帯電話が鳴った。デイビッドは物憂げに目を開けると枕元に置いてある携帯電話を手に取った。
「ゼータだ。生きていたか」
金属的な声がデイビッドの耳に響いた。
「まあな、もうダメかと思ったが、稼いだ報酬を使いきるまで死ねないと思い直したんだ。死神にも分け前をやると言ったら見逃してくれたぜ」
ゼータはフンと鼻で笑った。
「ミッションを続行する気はあるか。もうひとつのチームは失敗した。五百万ドルのボーナスはお前の目の前に、まだぶら下がっているぞ」
「そうかい、やつら・・・ロシアのヴォウクだろう・・・失敗したのか。だいぶん派手にドンパチやっていたけどなぁ。やはり、相手がビーストじゃ歯が立たなかったか」
「ミッションを続行するなら、追加ミッションを依頼したい。相手は四人、男三人・女一人、日本の民間人で、武器は所持していない。ジェフ・マクラネルと行動を共にしているから、ジェフを殺害するときに一緒に片付けてくれ。報酬は一人百万ドル、全員片付けてくれたらボーナスを一千万ドルに増額してやる。リミットは九月三十日午前十二時。どうだ、受けるか」
報酬の額を聞いてデイビッドはベッドの上に飛び起きた。先程までの仏頂面とは打って変わって顔には満面の笑みが浮かんでいる。
「もちろん受けるぜ。任せろ、きっちり始末してやる」
「よし、四人の日本人の顔写真は、お前のパソコンにメールしておく。それから、やつらはゼネラルソフト社の本社ビルにいる。本社ビルの新規採用警備員に配付される認証コードもメールしておく。これはサービスだ」
そこまで言うと電話はいきなり切れた。
「カルロス、みんなを集めろ、大至急だ。ミッションを再開するぞ」
カルロスは読みかけの雑誌を膝の上に置いたまま唖然とした顔でデイビッドを見た。
「デイビッド、無茶だ、その身体で動けるのかよ」
「俺は不死身だ。とてつもない大金が目の前にぶら下がっているんだ、これぐらいの怪我で寝てられるか!」
デイビッドは点滴のカテーテルを引き抜くとシャツを着替え始めた。
九月二十七日 ゼネラルソフト本社
ゼネラルソフト本社ビルの地下八十メートルにあるメインサーバー室は、東京ドーム半分ほどの広さを持つ巨大地下施設の中にある。地下施設は三層に分かれていて、上の階には地上階との連絡用エレベーターと居住用スペースがあり、真ん中の階には中央コントロール室と会議室・機械室・自家発電装置・倉庫が、下の階には巨大なメインサーバー室とサブコントロール室がある。
メインサーバー室とサブコントロール室は壁一面が強化ガラスで仕切られている。メインサーバー室では幾つものサーバーが巨大なラックに備え付けられて整然と並び、それぞれのサーバーでは赤や青の小さな光が明滅していた。それが通路に沿って果てしなく奥まで続いていて、先の方は見えない。
サブコントロール室に面してメインサーバー室の中にひと際大きく、全体が銀色に輝く五台のサーバーがストーンヘンジのように円形に並び、そのサーバー群だけが独立した区画として強化ガラスで仕切られていた。強化ガラスには『Zeta』の文字が浮かび上がっている。
明石哲朗が眠りから目覚めたのは、ゼータとの戦いから一週間後だった。
地下施設内の居住スペースの一室で、食事も取らず栄養補給のための点滴だけで一週間も寝ていた明石の顔はいつもよりも更に頬がこけ、まだらに生えた無精ひげのため幽鬼のようになっていた。目覚めた後も、明石は酷い頭痛に悩まされて三日間ベッドの上から動けなかった。ようやく動けるようになった明石は、ジェフからの呼び出しを受けてサブコントロール室に向かった。
明石がサブコントロール室のドアを開けると、打合せ用テーブルに座っている瞭たち三人が一斉に明石の方を振り向いた。操作用ブースで椅子に腰掛けているジェフも明石を見てにっこりと笑った。瞭が手招きをした。
「明石さん、こちらへきて掛けてください。これからジェフさんによるゼータ捕獲ミッションの説明が始まります」
明石は青白い顔をしてフラフラと歩き、瞭の隣に座った。テーブルの上には、瞭の要望で人数分の珈琲カップが置かれている。
「明石ちゃん、あんた左腕はどう? やっぱり動かない?」
リリーが声を掛けた。リリーはフリルの付いたピンクのワンピースを着ている。金髪の巻き毛が心配そうに揺れる。
「駄目なのです。動かないのです。仕方ないのです」
明石はさっぱりとした声で答えた。命と引き換えの代償なら安いものだと思っているのだ。早苗は悲しそうな目で明石の左腕を見た。瞭が無言で珈琲をズルリと啜った。
明石が椅子に腰掛けるとジェフは説明を始めた。
「このサブコントロール室は外部とのネットワークを完全に遮断してありますから、AIゼータの干渉を受けることはありません。画像や音声も外に漏れないようカメラやマイク類も撤去してありますので、ここでの会話がゼータに漏れる心配はありません。では、始めましょう」
操作用ブースの正面のモニター画面に仮想空間の都市が映し出された。操作用ブースの横には簡単なラックに収納された小さな本棚ほどの大きさのサーバーが置かれている。
「これと同じ画像をゼータとの戦いのときにご覧になったと思いますが、これはみなさんが捕獲ミッションをイメージしやすいように作った説明用の疑似画像です。
AIゼータの構築した仮想空間は、全世界を網羅するコンピュータネットワークを具現化したものです。ですから、建物のひとつひとつがネットワークに繋がっているパソコンやサーバーであり、道路はネットワーク回線を表しています。ゼータはこの巨大都市の中のどこかに潜んでいます。潜んでいるといいましたが、それは記憶生命体としての主要意識がそこにあるという意味で、記憶生命体としての存在はコンピュータネットワーク内に薄く一様に広がっています。いわばネットワーク全部が記憶生命体であるといえる状態なのです。ですからそれを全て、主要意識とともにAIゼータのメインサーバー内に凝縮させることが必要です。
まずは、ゼータの主要意識を見つけ出して、元の場所、すなわちAIゼータのメインサーバーに連れ戻すことが必要です。そして、AIゼータのメインサーバー内で再び戦い、やつを消滅させるのです」
「全世界にあるコンピュータのどこにいるかなんて、突き止めることは可能でしょうか」
瞭が疑問の声を上げた。早苗も瞭に同調した。
「想像もつかない数よね。それに居場所を突きとめたとしても、そこからどうやってここまで誘導するの」
ジェフはウンと頷いてから説明を続けた。
「コンピュータウイルスを使います。それと連動させて基幹として運用する独立した新しいAI搭載コンピュータを作りました。まだテスト段階のプロトタイプである量子コンピュータの原理を用いたもので、演算速度はこれまでのコンピュータとは比較にならないほど速いのです」
ジェフは操作用ブースの横のラックに置かれた、小型冷蔵庫ほどの大きさの四角いサーバーを指差した。
「そんな凄いコンピュータが開発されたなんて聞いたこともありませんが?」
瞭が首を傾げた。フリージャーナリストとして各分野に網を広げているつもりだが、その瞭の網には引っ掛かっていない情報だ。もっとも、相当に粗い目の網だが。
「理論としては既に発表されているものですが、実際にコンピュータに搭載したものはまだテスト段階です。この量子コンピュータは、これまでのコンピュータとは演算の仕組みが違うのです。
簡単に言うと、量子力学的な原理を用いて計算を行います。量子という原子レベル以下の電子・陽子・中性子といった極めて微小な粒子の世界では、量子は我々の認識している『マクロの世界』の常識とはかけ離れた挙動を示します。そのひとつが『状態の重ね合わせ』という特性で、ふたつ又はふたつ以上の状態を同時に表すことができ、その状態は『確率的に重ね合わされている』のです。
これまでのコンピュータではビットという基本単位の「〇か一か」という二進法で全ての演算が行われます。量子コンピュータで用いる量子ビットという基本単位は「〇と一」というふたつの状態を同時に表すことができるので、演算速度が飛躍的に速くなるのです」
ジェフが『理解したか』という顔で、瞭たちを見回した。
「難しすぎて付いていけないのです」
明石が貧相な顔をして頭を抱えている。リリーもダメだ言わんばかりに首を横に振った。瞭は分ったような顔をして頷いているが、おそらく半分も理解できていないはずだ。早苗だけが興味深げに目を輝かせている。
「量子の世界では物質は粒子の状態と波動の状態に揺れ動いていて、粒子としてどこで観察できるのかは確率的にしか分かりません。
『E=MC2』というアインシュタインの相対性理論の有名な公式がありますが、これは質量とエネルギーは置き換えることができることを意味しています。粒子すなわち物質の状態と波動すなわちエネルギーの状態は相対的なものであり、かつ根源は同じものなのです。
すみません、話が逸れてしまいました。量子コンピュータが新しい原理による飛躍的な演算速度を持っていて、AIゼータに対抗できると理解してください」
知識の許容量を超えた話を聞いて、ポカンとした顔をしている瞭たちを見回してから、ジェフは説明を続けた。ジェフとしても、瞭たちが全てを理解できるとは思っていないのだ。ジェフの説明は捕獲作戦の核心に進む。
「この量子コンピュータにサミュエル・リーの開発した『AI天人』の改良版である『AI龍』を搭載しました。この量子コンピュータは、未だコンピュータネットワークに繋がっていません。
この量子コンピュータを使って私がコンピュータウイルスを作りました。そのウイルスの卵を電子メールに潜ませます。準備が整ったら量子コンピュータをAIゼータのメインサーバーと並列する形でコンピュータネットワークに接続し、そこから全世界に向けて電子メールを送信します。
相手のパソコンにメールが届くと、メールに付着していたウイルスの卵は自動的に孵化し、ウイルスがコンピュータ内に侵入して増殖し活動を始めます」
瞭がちょっと待ったと手を挙げた。
「どのコンピュータにもセキュリティのためのファイアウォールがありますよね。それにウイルスを検知したら警告が出て分かるでしょう。メールの添付ファイルを開く訳でもないのに、メールが届いただけで感染するんですか?」
瞭が再び疑問の声を上げた。ジェフはウンと頷いた。
「ゼータが潜むこのコンピュータネットワークは、我がゼネラルソフト社の構築したものです。そしてネットワークに繋がっているコンピュータの基本OSである『シグマ』シリーズは私が開発したものです。それに『シグマ』シリーズを使っていない他社のコンピュータでも、OSの基本構造に大きな差はありません。
これらのOSに共通することは『バックドア』が仕組まれているということです。正面の入口にはファイアウォールが設置されているため、そこからは容易に侵入できませんが、鍵の掛かっていない裏口があるのです。孵化したウイルスはバックドアを通って簡単にパソコン内に侵入できるのです。ゼータが全世界のパソコンを自由に移動できるのもバックドアを通っているからです」
瞭の顔色が変わった。とんでもない話を聞いたという顔だ。
「そんな馬鹿な、それじゃいくら強固なファイアウォールを設けてもバックドアさえ知っていれば、コンピュータ内の情報は誰にでも簡単に抜き取ることができてしまう!」
ジェフは頷いた。
「そうです、バックドアはそのために作られたものですから」
「え?」
瞭は耳を疑った。ジェフは秘密を打ち明けるように言った。
「政府からの極秘要請でね。ですから政府の諜報機関は全てのコンピュータから必要な情報を日々盗み取っています。それはアメリカだけでなく、ロシアも中国もEU諸国も同じですよ」
ジェフの説明に瞭は憮然とした顔をした。これまでのセキュリティや厳格な情報管理は何だったんだ、個人情報や秘密情報が政府機関に筒抜けじゃないかと瞭は憤慨している。怒りを呑み込むように、瞭はガブリと珈琲を飲んだ。
瞭の怒りを横目に、ジェフは更に説明を続けた。
「話を戻しましょう。ウイルスの卵を潜ませた電子メールは、この量子コンピュータから十通発信します。それを受けた十台のコンピュータはメールを複写し、そこから次のパソコンに十通発信します。その次のコンピュータも同様に複写と発信を繰り返すことで全世界のコンピュータネットワーク上に時間差で大きな輪が蜘蛛の巣のように広がっていきます。蜘蛛の巣状になるようにメールを発信する相対的な調整管理はAI龍が行います。
そして全世界のネットワークに網が広がったら、今度はメールが届いた時間の遅い順にウイルスが活動を始めます。ウイルスによる疑似侵食が始まるのです。このウイルスはコンピュータ内のシステムやデータを全て食いつぶすように破壊していきます」
「そんなことになったら、世界中でコンピュータが機能を停止し大混乱が起こりますよ」
瞭が非難の声を上げたが、ジェフは首を振って続けた。
「それはあくまで疑似侵食であって、実際は全てのデータのバックアップを取っていて、疑似侵食によるシャットダウン後、自動的に元の状態にパソコン内を復元します。シャットダウンの時間は一ナノ秒(十億分の一秒)ですからユーザーにとってはシャットダウンされたことに気付きません。
しかし、コンピュータネットワーク内に潜むゼータにとっては、自身の存在する空間が侵食されて崩壊していくように見えるはずです。疑似侵食で侵されていくネットワークはメールが広がった順を逆にたどって進んで行きます。ネットワーク上にいるゼータにとっては、網の目が絞られるように次々に世界が崩壊していきます。そしてどこにいても絞られる網に追われて、最後にAIゼータのメインサーバーにたどり着きます。そこで記憶生命体のゼータとAIゼータは再び一体化します」
それまでほとんど理解できない話を黙って聞いていたリリーが、ようやく息を吹き返した。
「そこからはあたしたちの出番となる訳ね。明石ちゃんの再登場だわ・・・でも、この次は勝てるかしら」
リリーは心配そうな表情で明石を見た。隣に座る明石はいつもに増して貧相で、幽鬼というより死神だ。
頬がこけて青白い顔をした明石はきっぱりと言った。
「やるしかないのです。絶対に勝つのです。この前の戦いで、私とゼータはとても強くシンクロしたのです。ゼータの記憶情報ネットワークの一本一本が目に残っているのです。この前は突然戦いが始まったので、人間の頭の中の記憶の操作とは勝手が違っていて戸惑いがあったのですが、次は大丈夫なのです」
明石の目にぎらつくような強い意思の炎が浮かんだ。その顔を見てリリーが頼もしげにウンウンと頷いた。金髪の巻き髪が励ますようににユラリと左右に揺れる。
「明石さんとゼータの戦いは、この量子コンピュータに搭載したAI龍がバックアップします。AI龍とAIゼータを並列で接続することで、AIゼータの構築する仮想空間内にAI龍の構築する仮想空間を潜り込ませます。更に、佐渡博士が神宮寺孝晴の記憶生命体を電気信号化してコンピュータシステムに送り込んだ装置の改良版を使って、明石さんの意識とAI龍をシンクロさせることで、明石さんの仮想空間内での活動能力を飛躍的に向上させます」
ジェフの補足説明を聞いて、明石の頬が少し緩んだ。
「ありがとうございます。お話を聞いて安心したのです。AI龍があれば鬼に金棒なのです」
明石はジェフにぺこりと頭を下げた。リリーはごつい顎を指で擦りながら首を振った。金髪の巻き毛が訝しげに左右に揺れる。
「明石ちゃんが鬼ねぇ・・・鬼にしてはちょっと、いや、相当貧相だけど。鬼というよりやっぱり死神ね」
「そうなのです、ゼータにとっての死神なのです」
リリーの突っ込みに明石が真面目な顔で答えた。ふたりの息の合ったやり取りを聞いて瞭はなるほどと頷き、早苗は肩を小さく揺すってクスッと笑った。
ジェフはサブコントロール室とメインサーバー室を仕切る強化ガラスの前に移動すると、再び瞭たちに説明を始めた。
「これがAIゼータのメインサーバーです。ゼータはこれとシンクロして支配下に置き、AIゼータを通じて全世界のコンピュータを操っています。いまの状態はAIゼータ自体が記憶生命体ゼータそのものといえる状態であり、外部からのアクセスを全く受け付けません。
五台のサーバーは人工知能として人間の脳の各部位、前頭葉、ふたつの側頭葉、頭頂葉、後頭葉の五つの役割を担っています。ゼータの主要意識をこの中に呼び戻せば、人間の脳内に共生していたときと同様に、記憶生命体としてのひとつの形に収斂するでしょう。そのときがゼータを完全に消去できるチャンスです。AIゼータをゼータの呪縛から解き放し、その後にゼータを消去しなければなりません」
「何かややこしいけど、早い話が、一旦ゼータをこの人工知能の中に戻して、そこで人工知能からゼータを引きはがして、最後にゼータを消去する。そういうことね」
「リリーさん素晴らしい、そのとおりです、皆さんもご理解頂けましたか」
ジェフに褒められたリリーは満足そうに小鼻を膨らませてフンと鼻から息を出し、金髪のカツラを被り直した。金髪の巻き毛が誇らしげに左右に揺れる。
ジェフの携帯電話が鳴った。
「ジェフ・マクラネルです・・・何だって! そんな馬鹿な!・・・」
ジェフは驚愕の声を上げてから、早口の英語で受け答えをした後、呆然とした顔で携帯電話を切った。
「ペンタゴンの中央作戦指令部長のカーター少将からでした。アメリカの国防システムがサイバーテロを受け、暴走を始めました。全世界に向けた核ミサイル発射のカウントダウンが始まっているそうです。サイバーテロ対策班へのAIゼータによるバックアップの要請でした。ペンタゴンはAIゼータが制御不能なことを知りません・・・」
ジェフの顔は青ざめて声が震えている。これまでの泰然としていたジェフの姿とのギャップに、瞭たちは思わず息を呑んだ。
「人類の厄災だわ。全てが炎に包まれる・・・お母さんの予知はこのことだったのね」
早苗は独り言のように呟くと目を瞑った。早苗は病院の集中治療室にいる幸子に向かって人類の厄災が近づいていることをテレパシーで送った。しかし、幸子の意識はまだ戻っていないのか、幸子からの返事は帰ってこない。早苗の顔が曇った。
瞭はジェフに向かって言った。
「人類の厄災・・・これはゼータの仕業でしょう。ジェフさん、核ミサイルの発射はいつですか」
「三日後、正確には九月三十日午前十二時です。それまでにゼータを捕まえて消滅させなければなりません。ゼータを消滅させれば、ゼータの呪縛から解放されたAIゼータも国防システムも制御できるようになります。人類を救うのはそれしか方法がありません」
「明石ちゃん、やるしかないわね」
リリーは精悍な顔をして明石の肩を叩いた。明石は本物の死神のような顔をして無言で力強く頷いた。
ジェフは操作用ブースに座ると、瞭たちの顔を見た。やるぞという合図だ。
「それではミッションを開始します。AI龍を起動」
ジェフはAI龍に接続されたパソコンのキーを叩いた。
操作用ブースの横のラックに置かれた量子コンピュータがヴォンという小さな唸り声のような音を立てると、赤い稲妻と化した小さな龍が身体をくねらせながら渦を巻いてサーバーの表面を駆け抜けた。
「AI龍をAIゼータに並列接続。続いてメールを送信します」
ジェフが再びパソコンのキーを叩く。パソコンのモニター画面上にメール送信完了の小さな文字が浮かんだ。
「メールが全世界に行き渡って、そこからウイルスの疑似侵食によってゼータをここに追い込むまでの所要時間はどのくらいでしょうか」瞭が尋ねた。
「メールの配信完了まで約十五時間、ウイルスが孵化して疑似侵食の網を狭めてくるのに五十時間といったところでしょう。カウントダウンのスタートから既に二時間近く経過していますから、ゼータを捕捉して最後の戦いに入るのはカウントダウンの最後の日ということになります。若干の時間の誤差を考慮してリミットの五時間前といったところでしょう」
ジェフが腕時計にチラリと目をやりながら答えた。
リリーが金髪の巻き髪に手をやりながら大げさな声を上げる。
「よかったわ、リミットの数分前だなんて言われなくて。そんなハラハラは勘弁してほしいもの。白髪が増えちゃうわ」
「リリーさん、その金髪に白髪が生えるのですか」
明石が不思議そうな顔でリリーに聞いた。リリーは明石を睨むと「これは地毛よ」と言って明石の腿を力いっぱい抓った。明石が痛みで身を捩る。金髪の巻き髪がそうだとばかりにユラリと左右に揺れる。ここはお約束の掛け合いだ。
ジェフはアハハと笑ってから四人を見回した。
「それまで、皆さんは居住スペースで身体を休めていてください。私はメールの配信状況をここでコントロールしています」
ジェフは操作用ブースの椅子に背中を預け、小さな赤い光が明滅しているAI龍のサーバーをじっと見つめた。人類の厄災である核ミサイルの攻撃ミッションを阻止できるのはお前の力が必要だ、頼むぞと心の中で呟いた。
九月二十七日 ホワイトハウス
ホワイトハウスの特別会議室では極秘の国防会議が開かれていた。
国防システムが何者かに乗っ取られて制御不能となり、現在戦略配備されているICBM(大陸間弾道ミサイル)四百発とSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)九百七十発が全世界の主要都市に向けて発射されるカウントダウンが始まっていることが説明された。SLBMに関しては、搭載している潜水艦自体がシステムダウンにより制御不能になっている。また、作戦外貯蔵されているICBM・SLBM合計千三百五十発についても自爆システムが作動していて、カウントダウン終了と共に基地貯蔵庫内で自爆することが説明された。
「これは、先日のイージスシステムの暴走による香港市街地へのトマホーク巡航ミサイル発射と同じ事象なのか」
ジョンソン大統領が尋ねた。
「詳細は解明できていませんが、おそらく同じではないかと・・・」
ケリー情報分析官がおずおずと答えた。
「おそらくだと・・・何を血迷っている! これは中国との戦争の危機といったレベルの話ではない、人類滅亡の危機だぞ、分かっているのか!」
普段は物静かなジョンソン大統領が怒りに燃えた目でテーブルを叩いて怒鳴った。ケリーの顔は青ざめ、緊張で息をすることもできない。
「関係各国にはどこまで情報が入っているのだ?」
ジョンソン大統領の質問に、首席補佐官のサンダースが資料をめくりながら答えた。
「まだ何も。情報は完全に秘匿されています。関係各国に対して迂闊に情報提供すれば、自国が核攻撃を受ける前に我が国の核施設や潜水艦を破壊しようと、先制の核攻撃を仕掛けてくる恐れがあります。その場合、我が国の迎撃システムは作動しません。一方的に我が国だけが壊滅することになります。それに公表すれば全世界が大パニックになるでしょう。核による破滅の前に世界が滅びかねません」
「核ミサイルの発射は止められるのか」
ジョンソン大統領の質問に、ペンタゴン中央作戦指令部長のカーター少将は大統領の顔色を窺いながら口を開いた。カーターの額にはネットリと脂汗が滲んでいる。
「サイバーテロ対策班が対策を検討中です。国防会議の特別顧問であり、国防システムの開発責任者でもあるゼネラルソフト社のジェフ・マクラネルCEOにはAIゼータによるバックアップを要請しました。ジェフCEOからは、AIゼータもサイバーテロの攻撃を受けており、時間の猶予が欲しいと言ってきました。タイムリミットの五時間前を目途に何らかの対応ができるだろうとのことでした」
「五時間前かギリギリだな・・・それは確実なのか」
「いまはそれに賭けるしかありません」
ジョンソン大統領はカーター少将の回答に小さく呻き声を上げると、腕を組んで目を瞑った。誰も口を開く者はなく静まり返った特別会議室内に胃が痛くなるような緊張感だけが高まっていく。
国防会議の特別顧問であるハーバード大学のオズワルド博士が突然立ち上がると、出席者全員を見回しながら言った。
「最悪の場合に備えて、核の被害が最小限となるように、発射されるICBM・SLBMの数を可能な限り減少させることが必要です」
ジョンソン大統領が顔を上げた。
「そんなことができるのか。国防システムは全く反応しないのだぞ」
「システム解除が無理なら、物理的にやるのです。核ミサイルを人力で解体するのです。
核弾頭を外して誤爆を防ぎ、推進装置を破壊すればいい。時間的に全てを解体することはできなくても可能な限り被害を最小限に食い止める努力はできる。それこそがアメリカが人類に対する責任として為すべきことでしょう」
ウイリアムズ国防長官が顔面に血を登らせてオズワルド博士を睨みつけると怒鳴り声を上げた。
「バカな! そんなことをしたら我が国の核攻撃能力が維持できなくなる。世界の核抑止力のバランスが崩れる。国家安全保障上の重大な危機が生じるようなことは容認できん!」
ウイリアムズ国防長官の横でサンダース空軍大将も当然だという顔をして頷いている。
「国家安全保障ですと?・・・そのようなレベルの話ではない。世界の、いや人類の終末が近づいているのですぞ!」
オズワルド博士は机を叩きながら怒鳴り返す。サンダース空軍大将は片頬に皮肉な笑みを浮かべて静かに言った。
「落ち着きたまえオズワルド博士。核ミサイルの発射は阻止できると先程カーター少将が言ったじゃないか。それを前提に議論すべきだ」
責任を押し付けられた形のカーター少将がビクリと肩を震わせた。確約をしたつもりはないのだが、いまここでそれを口にはできない。カーター少将は唇を噛みしめて下を向いた。
オズワルド博士は押し殺したような声を出した。
「最悪のケースに備えることがアメリカの責任であると申し上げている・・・」
「世界の核抑止力のバランスを維持することこそがアメリカの責任だ」
オズワルド博士の発言を途中で遮るようにしてウイリアムズ国防長官がたたみかける。ふたりの議論は平行線で、結論は出そうにない。議論の前提となる『守るべき利益』が根本的に違っているのだから無理はない。
ジョンソン大統領は目をつむり黙って意見を聞いていたが、やがて目を開けると右手をあげて発言を制した。
特別会議室に再び静寂が戻った。
「よし分かった。アメリカ軍の総力を挙げてICBMとSLBMの解体に取り掛かれ。まずは戦略配備されているものを優先して解体しろ、作戦外貯蔵の解体はその後だ。私は各国首脳に連絡を取って、状況を直接説明する。
仮に、リミットまでにシステム解除ができず、解体が間に合わなかった核ミサイルが発射される事態になった場合には、戦闘機又は対空火器による攻撃で、発射と同時に核ミサイルを爆破せよ。爆破もしくは自爆した核ミサイルに搭載されている核物質による汚染は、可能な限り米軍基地内に止めるのだ。我が国の核ミサイルが他国に着弾することだけは絶対に阻止しろ。それがアメリカの責任だ」
ジョンソン大統領は静かに言うと、国防会議に出席しているメンバーの顔をゆっくりと見回して力強く頷いた。
九月二十九日 仮想空間
蜘蛛の巣状に張り巡らされたゼータ捕獲網の一番外側の位置に当たるパソコンにジェフの発した電子メールが到達した。
受信フォルダに入った電子メールは、保存されることなくドロリと溶けてフォルダ上から消えた。しかし電子メールに付着していたウイルスの卵は孵化し、数匹のウイルスがOSシステム上を這い回ると、隠された小さなバックドアを見つけて中に入っていった。
そしてシステム内で猛烈に増殖を始めるとシステムやメモリ内のデータを食い荒らし、パソコン内のデータの全てを食い尽くすと、接続しているコンピュータネットワークを通じて外に飛び出した。
日本の内閣府内閣官房の機密情報集約サーバーの中にいたゼータは、赤と黒のまだら模様の一匹の小さな蜘蛛が足元を這っていることに気が付いた。
蜘蛛は仮想空間の中の建物の壁に這い登ると壁を齧り始めた。蜘蛛に齧られた壁にはポカリと小さな穴が開き、その向こうは何もない虚無の空間が広がっていた。背後からザワザワという何かがひしめき合うような気配が伝わってくる。ゼータが振り向くと背後の壁一面に蜘蛛がびっしりと貼り付き恐ろしい勢いで壁を侵食していた。ゼータが慌てて上を見ると、天井があった部分は既に大きな穴が開き、その穴から夥しい数の蜘蛛が黒い濁流のように流れ込んできた。ゼータの身体に貼り付いた蜘蛛がゼータを侵食しようと噛みついている。
・・・何だこれは、どうなっている・・・
ゼータは身体に貼り付いた蜘蛛を払い除けると、建物の外に飛び出した。
周囲のビルは既にほとんどが蜘蛛によって侵食されていて、ビルの廃墟から蜘蛛が道路に溢れ出していた。道路の先にあった市街地は既に侵食され、何もない虚無の空間が広がっていた。後ろを振り返ると未だ侵食されていない市街地が広がっていて、そちらに向かって道路が延びていた。
津波が何もかも飲み込みながら市街地を侵食していくように、蜘蛛の塊は大きなうねりとなってゼータに向かってきた。
・・・こんな蜘蛛など焼き払ってやる。私はこの世界の神だ!・・・
ゼータの右手が金色に輝き光の槍に変わった。
ゼータは蜘蛛の塊に向かって光の槍を打ち込むと横に薙ぎ払った。光の槍の一撃を受けた蜘蛛は一瞬で燃え上がると、その身体はバラバラに飛び散った。そしてバラバラになった胴体や足が仮想空間の地面に落ちると、すぐにムクムクと動き始め、それぞれが一匹の蜘蛛となって再生した。ゼータが光の槍で攻撃すればするほど蜘蛛の数は飛躍的に増加していく。
・・・バカな・・・
ゼータは絶句した。
・・・この世界の神である私の攻撃が効かないとは・・・この世界とは異質のもの・・・コンピュータウイルスか・・・こんなことができるのはジェフ以外にあり得ない・・・
ゼータは蜘蛛の波に背を向けると、ふわりと宙に浮かび上がり、侵食されていない市街地に向かって飛び去った。そこにはAIゼータのメインサーバーがあるのだ。
九月三十日 マクラネル本社及び仮想空間
明石とリリーはマクラネル本社地下施設内のサブコントロール室に置かれた椅子に腰掛けていた。明石は相変わらずくたびれた開襟シャツを着てよれよれの黒いズボンをはいていた。リリーは最後の戦いに向けて念入りに化粧をしている。真っ赤なマニキュアを塗った両手を目の前にかざして「これでいいわ」と満足げに頷いた。一張羅のフリルの付いたピンクのドレスを着て、金髪の巻き毛の先には大きなピンク色のリボンが結ばれている。
瞭と早苗は、明石たちの横に椅子を並べて座り、微かな緊張を浮かべた顔でモニターを見ていた。瞭はふだん通りのポロシャツにジーンズで、早苗は花柄のシャツにベージュのチノパン姿である。
四人とも無言なのは最後の戦いが近づいている緊張のためだろう。
明石たちの横にはAI龍のサーバーがあり、その横の操作用ブースでジェフがラップトップパソコンを操作していた。ジェフの目の前の壁には大型モニターが設置されている。
核ミサイルの発射まで残り五時間である。
「間もなくゼータが姿を現すでしょう。明石さん、準備はいいですか」
ジェフの声に明石が頷いた。リリーはポンポンと明石の右手を叩いて「しっかりね」と言った。金髪の巻き髪が明石を励ますようにユラリと左右に揺れる。
ジェフは金色の細いリングのようなヘッドギアを明石の頭に被せた。
「明石さんの意識をAI龍とシンクロさせ、次にAI龍のアバターをAIゼータが構築する仮想空間に送り込みます。明石さんの意識がリリーさんのサイコキネシスで仮想空間に送り込まれると、AI龍のアバターと明石さんは仮想空間内で一体化します」
「何か難しそうなのですが、とにかくAI龍の力が私に付加されるということなのですか」
「その通りです。それでは、AI龍と明石さんのシンクロを開始します」
ジェフがキーボードを叩くとキュインという小さな金属音がして、明石の頭に被せられた金の輪を薄っすらとした青白い光が覆った。金の輪の内側がほんのりと温かくなった。壁に掛けられた大型モニター画面の中央に小さな龍が現れ、とぐろを巻くと、その姿は明石のアバターへと形を変えた。
アバターになっても、明石は相変わらずくたびれた開襟シャツを着てよれよれの黒いズボンをはいている。顔は死神のように貧相だ。
「AI龍の構築した仮想空間をAIゼータの構築した仮想空間に送り込みます」
ジェフが再びキーボードを叩くと、大型モニター画面はAIゼータが構築する仮想空間を映し出した。その仮想空間の中に、銀色の逆円錐形の物体がプカリと空中に浮いていた。浮遊物体の上面は直径五十メートルの完全な円形で、表面は鏡のように平らだった。
その円形の鏡の中心に明石のアバターがぽつんと立っていた。
「リリーさん、明石さんをサイコキネシスであの浮遊物体の上へ送ってください」
「了解、明石ちゃんいくわよ」
リリーは明石の右手を握り生体エネルギーの共有をしながら意識を集中した。
リリーの両目が少し中央に寄り、顔面が紅潮した。明石の隣に座っている瞭と早苗も、明石とリリーの握った手の上に両手を乗せた。四人の超能力者は互いに手をつなぎ合って生体エネルギーの共有を始めた。
モニター画面上の仮想空間に浮かぶ銀色の浮遊物体の上に、明石の姿がゆらりと現れた。明石のアバターがゆっくりと明石に近づくと、ふたりの姿は重なり合うように交じり合いひとつになった。明石の左手は肘から先がなかった。
明石は浮遊物体の上から仮想空間を見回した。
市街地のはるか向こうから、大きな黒いうねりが押し寄せている。それは蜘蛛が幾重にも重なりあってできた波であり、その波の後ろに黄色い壁がそそり立っていた。黄色い壁は蜘蛛の波を追い立てるように動いている。
その黄色い壁はセロハンでできた膜のようにとても薄く、壁の向こうが透けて見えていた。黄色い壁の向こうには復元された市街地とビル群が果てしなく広がっていた。そして黄色い壁に追い越された蜘蛛たちは急に動きを止め、足が胴体からバラバラと抜け落ちると、ボロボロと灰のように砕けて消えた。
《ゼータにはあれが見えないのですか》
明石からのテレパシーによる質問に、ジェフは頭の中へ回答を浮かべた。
《私の作った蜘蛛の形をしたウイルスは仮想空間を侵食しながら、お尻から黄色い糸を出します。その糸が縦横に織られて黄色い布のような壁を作ります。この壁は疑似侵食によるシャットダウンで消滅した世界とデータ復元後に再構築された世界の境界面を仮想空間に具現化したものです。その壁が網を絞るようにしてこちらに向かっているのです。
壁の向こうはシャットダウン後に再起動された世界が広がっていますが、ゼータには認識できません。ゼータには虚無の壁が迫ってくるように見えるのです。なぜなら、私たち記憶生命体の宿主となり得る遺伝子Xを持つ人間は、黄色を識別できない特殊な色盲なのです。ですからその宿主に寄生してきた記憶生命体にとっても、黄色という概念自体が認識できないのです》
明石が立っている逆円錐形の浮遊物体に近づくにつれて、黄色い壁の移動スピードは加速していた。その壁に追われるようにしてビルの陰からゼータが飛び出してきた。ゼータは仮想空間内に具現化されたゼネラルソフト社のメインサーバーの巨大なビルに駆け込むとドアを閉めた。
それと同時に黄色い壁は動きを止めた。蜘蛛たちも活動を止めてその場で静止している。
逆円錐形の浮遊物体は明石を乗せたままゆっくりと空中を移動し、ゼータの入ったビルの壁に接触すると、壁を透過してビルの中へ侵入した。
「ゼータ、ここに上ってくるのです。あなたと私の決着を付けるときがきたのです」
明石の声が響く。ゼータは浮遊物体を見上げるとニヤリと笑った。
「またしても明石か。面白い」
ゼータは床を蹴ると逆円錐形の上面の鏡の平面に飛び上がった。
真円の鏡の平面にゼータが立つと、明石が平面上を滑るように動いてゼータの前に立った。明石の動きは、まるでスケートリンクの上を滑っているかのように両足は全く動いていなかった。
「なるほど、ここはAIゼータが構築した仮想空間の中に、ジェフが作った新しいAIが構築した仮想空間という訳か。それでは明石、お手並み拝見といくか」
「ゼータ、あなたの記憶情報ネットワークはこの前の戦いのときに完全に感得できたのです。だから今回は負けないのです」
「明石よ、それはこちらも同じだ。お前の記憶情報ネットワークは私にも全て感得できているのだ」
ゼータは言い終わるなり両手を前に突き出した。ゼータの両手の先から無数の光の矢が明石に向かって放たれた。
明石の身体は鏡の上を滑るように高速で横に動き光の矢をかわした。そして明石は鋭角に身体の向きを変えるとゼータの背後に回り込み、右手を前に突き出した。明石の右手の掌から細い鞭のような無数の触手がうねるように伸び、ゼータに絡み付こうとした。
ゼータは振り向きながら光の矢を発し、その姿勢のまま後方に退いて明石の触手から逃れた。
ふたりの足は鏡面から離れることなく、鏡面にピタリと吸い付いている。ふたりは真円の鏡面を、自由自在に向きを変えて高速で動いている。真円の鏡面はふたりの距離が縮まるとそれに応じて狭くなり、ふたりの距離が離れるとそれに応じて広がった。ふたりは鏡面上で交差し、追いかけ、回転し、離れ、接近した。まるで、アイススケートのリンクの上で優雅に舞っているようだ。但し、それは死の舞いだ。
ゼータの両手から光の矢が明石に向かって幾度も発せられた。明石はそれを避けながら、右掌から伸びる触手を何とかゼータに絡み付かせようと、鞭のように振りまわした。しかし、ゼータの動きは速すぎて明石の触手では捉えきれない。
明石の回避運動を見越したようにゼータが光の矢を放つ。一瞬の回避が遅れた明石の身体に数本の光の矢が刺さった。苦悶の声を上げた明石が刺さった矢を抜こうと右手を伸ばす。
明石に刺さった光の矢は色が黒く変わりグニャリと融けた。身体の中に残った矢の先から菌糸のような根が伸びて、明石の記憶情報ネットワークを引き千切り始めた。明石は右手を傷口に当て、右掌から伸びる触手を使って切断された記憶情報ネットワークを修復しなければならなかった。その間は明石からの攻撃はできなくなり、逃げるだけで精一杯となってしまう。
左手を失った明石は、この前の戦いのときのように攻撃と修復を同時におこなうことができないのだ。これは明石にとって致命的なハンデだ。
「明石よ、無駄だ。お前の能力は相手に接触しなければ発揮できない。片腕のお前では私を倒すことができない。いくらAIでバックアップされようとも、人間のニューロンの活動能力には限界がある。お前のニューロンが疲労で活動を停止したときがお前の最後だ」
ゼータは薄笑いを浮かべると、光の矢を放った。
最後の戦いが始まって一時間が経過した。明石とゼータの戦いは、明石がゼータを捕捉できないまま膠着状態が続いていた。
核ミサイルの発射まで残り四時間である。
明石の脳内のニューロンは、AI龍とのシンクロにより過剰に活動を続けている結果、疲労により徐々に機能が低下し始めていた。
《生体エネルギーが足らないのです。何とかお願いしたいのです》
明石のテレパシーが瞭たちの脳内に響く。真っ赤な顔をして頷き、生体エネルギーを絞り出そうと身構えたリリーに向かって瞭が叫んだ。
「リリーさんが倒れると明石さんがこの世界に戻ってこられなくなります。僕が生体エネルギーを極限まで放出します。任せてください」
瞭の脳内が瞬時に沸騰した。脳が膨張して頭蓋骨が破裂しそうな感覚が瞭を襲う。瞭は意識を両手に集中した。焼けるような痛みと共に生体エネルギーの奔流が明石に流れていく。厖大な生体エネルギーの量を感得したリリーが心配の声を上げた。
「瞭ちゃん、そんなに無理しちゃ・・・あんた死んじゃうわよ」
「いまの僕にはこれしかお手伝いできないんです。リリーさん大丈夫、死にやしませんよ」
瞭は不敵に笑った。
瞭からの生体エネルギーの補給を受けた明石は再びゼータと互角の動きを取り戻した。果てしない戦いが鏡面上で続いている。しかし、更に三十分が経過すると、明石の動きが鈍り始めた。これまではAI龍のバックアップにより何とかゼータと互角に戦えてきたが、明石のニューロンの疲労が蓄積するにつれて、光の矢の攻撃を受ける頻度が高くなっていた。明石のニューロンの疲労は限界に近づいていた。
《早苗さんSPD強化剤を投与してほしいのです》
明石からのテレパシーが早苗に届いた。
「ジェフさん、明石さんがSPD強化剤を投与してくれと言っています」
早苗の声にジェフが頷き、用意していた注射器でSPD強化剤を明石に投与した。途端に明石の身体が痙攣を始めた。ジェフの手に血が付いた。明石の両方の鼻の穴から夥しい血が流れ出ていた。
ジェフは眉間にしわを寄せると首を振った。
「明石さんのニューロンの容量の許容範囲を超えているんだ、これ以上SPD強化剤を投与しても効果は限定的だろう。それどころか、ニューロンを破壊しかねない」
ジェフの言葉どおり、鏡面上の明石の動きはSPD強化剤投与後に一時的に復活したものの、あっという間に動きが緩慢になった。
明石の身体にゼータの放つ光の矢が無数に突き立って、明石はハリネズミのようになった。明石の下半身は既に真っ黒に変色していて輪郭がぼやけている。
「いけない、このままだと明石さんのニューロンがもたない。AI龍とのシンクロはひとりの人間のニューロンの容量では負担が大きすぎた。これ以上続けると明石さんはニューロンが破壊されて廃人になりかねない。危険だ」
ジェフはダメだとばかりに頭を抱えた。ジェフの脳裏にタイムオーバーの文字が浮かぶ。何か代替策はないか、ジェフの頭はフル回転している。
「でも、AI龍とのシンクロがなければゼータには勝てないんでしょ。核ミサイルの発射も絶対に止めなきゃいけない。今更後には引けないじゃない」
リリーはそう言うとサブコントロール室内をグルリと見回した。
明石は目を瞑り鼻血を流しながら激しく痙攣している。
早苗は潤んだような瞳でリリーを見ている。
瞭はほとんどの生体エネルギーを明石に移転したため意識が朦朧となっているが、ボンヤリとした目でリリーを見てゆっくりと頷いた。
「負けられない戦いです・・・必ず勝たなければ・・・人類のためにも、そして東山さんのためにも・・・」
瞭の声は掠れて最後まで聞き取れない。
「そうよ、人類を厄災から守るためには後には引けないのよ! ひとりのニューロンの容量じゃ足りないのなら、ふたりのニューロンならどうなのよ! 明石ちゃん、いくわよ!」
リリーは金髪のカツラをかなぐり捨て、額を明石の額に密着させた。リリーの両目がグウッと中央に寄りこめかみに太い血管が浮き上がった。リリーの頭がブルブルと小刻みに震え、半ば開いた口から獣のような唸り声が上がる。リリーの両目がドロリと白目を剥いた。
リリーは自分の脳内のニューロンを、明石の脳内に移転させた。
明石の脳内のニューロンに、リリーのニューロンが複層的に融合した。ニューロンを失ったリリーはガックリと首を垂れて動かなくなった。
鏡面上の明石の身体がムクムクと大きくなった。そして身体の両脇から二本の腕が開襟シャツを突き破って生えた。新しい二本の腕の指先には真っ赤なマニキュアが光っている。明石の腕は三本になった。明石の顔は揺らめくように変化し、リリーの顔と明石の顔がランダムに浮かび上がる。真っ黒に変色していた下半身は見る見るうちに元の姿に戻った。
「とうとう化け物になったか」ゼータが笑った。
「化け物には化け物で対抗するのよ。いくわよ・・・いくのです」
明石の声はリリーの声に変わり、言葉の最後の方は明石の声が混じっていた。
鏡面上を動く明石のスピードが驚異的な速さになった。明石の姿はあまりの高速のために残像を後に引いて霞んでいた。その残像が消える前に次の残像が生まれ、鏡面上に何人もの明石が動いているようだ。そのスピードはゼータを完全に凌駕していた。ゼータの周りを高速で移動する明石の残像は、竜巻のような霧となってゼータを取り巻いた。
ゼータを取り巻く竜巻のような残像の霧から無数の触手が伸び、ゼータに絡み付いた。
「やっと、捕まえたのです・・・捕まえたわ」
明石の声とリリーの声が混じる。
ゼータに絡み付いた明石の触手はゼータの体内に菌糸のような根を伸ばし、ゼータの記憶情報ネットワークを猛烈な勢いで引き千切り始めた。菌糸の伸びるスピードとその数の多さに、ゼータによる記憶情報ネットワークの修復が追い付かない。明石の侵食能力がゼータの修復能力を完全に圧倒していた。
ゼータは呻き声を上げながら身体を捩ったが、明石の触手は絡み付いたまま離れなかった。光の矢を放とうにもゼータの目には明石の姿を捉えることができない。ゼータの身体が急速に黒く変色して輪郭がぼやけていく。
ゼータは恐怖に震えた。
「何という運動能力、何という侵食能力だ。このままでは負ける。明石の触手を振り解かなければ・・・鏡面上の移動スピードでは到底かなわない・・・どうすれば・・・そうか・・・遠心力だ。よし、神の力を見せてやる」
ゼータは自らの身体を独楽のように高速で回転させ始めた。
明石は触手を振り解かれまいとゼータの回転に合わせてゼータの周囲を高速で回る。高速で自転するゼータの中心にして、その周囲をゼータの自転速度を上回る超高速で明石が回っていた。
ゼータは明石の運動能力に驚嘆していた。
「この回転速度に付いてこられるとは、信じられん・・・。しかし、私は神だ。見ていろ」
ゼータの自転速度が更に早くなる。自転速度は加速度的に増加して、とうとう亜光速にまで近づいた。ゼータを薄っすらと光の繭が包む。
ゼータの周囲を回る明石には光速を越える速度が必要となったが、仮想空間とは言え光速の壁を突破することはできない。
仮想空間で想像を絶する遠心力が生まれた。触手が切断されるブチブチという音がすると、とうとう明石の触手はこの遠心力に耐え切れず振り解かれた。
明石は猛烈な遠心力により後方に吹き飛ばされた。
ゼータは超高速回転を維持したまま、明石が吹き飛ばされた方向と反対方向に鏡面上を走り去った。




