ゼータとの戦い1
九月十七日 ゼネラルソフト本社
ゼネラルソフト本社ビルの三十階にあるCEO室はフロアの四分の一を占める広さで、東側と南側の壁一面が強化ガラス張りとなっていてサンノゼ市街が一望できるほか、晴れた日には彼方にシエラネバダ山脈を望むことができる。
空中に浮かんでいるような広々としたCEO室には、東南の角にCEOの机が配置されAIゼータと直接繋がるCEO専用パソコンや大型モニターが周囲に配置されている。部屋の中央には大きな皮張りのソファーと大理石のテーブルが置かれ、北側の壁際にはバーカウンターが備え付けられている。壁にさりげなく掛けられている大きなモネの睡蓮は間違いなく真作だろう。床は絨毯が敷き詰められていて、さながら高級ホテルのスイートルームのようだった。
ソファーには瞭、明石、リリーが思い思いの格好で座っていた。瞭とリリーはジェフの手配したドクターヘリで救助された後、ひどい頭痛に襲われて倒れ込むように眠り、二十時間近く目覚めなかった。ふたりとも先程起き出してきたばかりだった。
明石は貧相な顔をして窓の外に広がる景色を見ている。幸子の容態を気にしているのだろう。リリーは金髪のカツラを膝の上に置いて、まだ頭痛が治まらないのか坊主頭に濡れタオルを乗せたまま目を瞑っている。その横で瞭はラップトップパソコンのキーボードをパタパタと叩いている。
ドクターヘリでマクラネル総合病院に搬送された幸子は、緊急手術を受け一命をとりとめたが、予断を許さない状態が続いており、いまも集中治療室に入っていた。早苗が付きっきりで看護している。
新聞やテレビでは昨日の事故を『遊覧飛行中のヘリコプター二機が高圧送電線に接触して墜落し、運悪く下のハイウエイを走行していた大型トレーラーと衝突して積み荷のガソリンに引火し大爆発を起こした。複数の車が巻き込まれ、死傷者が発生した』と報道していた。ジェフが関係機関に手をまわし、ジェフが襲われたことや武装集団が関与していた事実は伏せられていた。
CEO室のドアが開き、移動式の大きなベッドをボディーガードが押して部屋に入ってきた。ベッドの上でジェフが左足に包帯を巻いた姿で横になっている。CEOの机の横にベッドが固定されると、ジェフが上体を起こしてソファーに座る瞭たちを見た。
「改めまして、ジェフ・マクラネルです。昨日は助けて頂いて有難うございました。このような姿でご勘弁ください」
ジェフは流暢な日本語で礼を口にすると深々と頭を下げた。瞭たちもそれに合わせて頭を下げる。
ジェフは顔色を改めると、瞭たちを見渡した。
「さて、まずは私からお尋ねします。あなた方はいったい何者なのです」
リリーがそれいけとばかりに明石の脇腹をつつき、明石がしぶしぶ立ち上がった。
「私、明石哲朗とこちらの白鳥リリーさん、そして病院の集中治療室にいる明日香幸子さんの三人は、神宮寺商事の特殊潜在能力研究所で佐渡博士の人体実験によって超能力を発現した超能力者なのです。彼は矢沢瞭さんで、佐渡博士の人体実験を受けた後に亡くなった女性の息子さんなのです。集中治療室で看護している若い女性は明日香早苗ちゃんで、明日香幸子さんの娘なのです。瞭さんと早苗ちゃんも超能力者なのです」
「超能力?・・・昨日のあの不思議な現象はあなた方の超能力によるものだと・・・信じられない・・・いや、しかしあれは現実だ。現に私はこうして生きている」
ジェフは一瞬驚いたような顔をして、そのあと納得したように首を縦に振った。極めて論理的・理性的で、かつ、柔軟な思考の持ち主なのだろう。超能力がもたらした現象を事実として理解している。それは記憶生命体のなせる業なのかも知れない。
「あたしたち三人は養殖物だけど、瞭ちゃんと早苗ちゃんは天然物よ」
リリーの『的を射た?』説明にジェフが笑った。そして顔色をスッと改めた。これからが本論だ。
「それで、なぜ私を助けてくれたのですか」
明石はジェフの質問に対して、幸子が人類の厄災を予知したこと、人類の厄災は記憶生命体が引き起こすこと、それを防ぐために記憶生命体の消去を考えたこと、幸子が何かを予知してジェフを救えと言ったことを話した。
明石の説明を聞きながら、ジェフの顔はどんどん厳しくなっていく。
「人類の厄災を記憶生命体が引き起こす・・・とても信じ難いことだ。世界賢人連盟のメンバーで生き残っているのは、私とロシアのアンドレイ・ミハイロフだけになってしまった。ということは、雲隠れしているアンドレイが人類の厄災を引き起こすのだろうか、それとも私が狂気を宿してしまうのだろうか・・・。そして、人類の厄災を防ぐために記憶生命体を消去しようとしていた皆さんが私を助けた・・・私が必要になると、幸子さんが予知したのですね。私にどのような役割が課されているのだろう」
ジェフは考え込むように口をつぐんだ。ロシアのアンドレイ・ミハイロフがチームヴォウクによって人知れず殺害されていることをジェフが知る由もない。現時点で、世界賢人連盟のメンバーで生き残っているのはジェフだけなのだ。
「それでは、次は私から質問させていただくのです」
明石の声に、ジェフはどうぞと頷いた。
「記憶生命体の宿主が次々と殺害されたのはなぜでしょうか」
「私にも分かりません。何が起こっているのか・・・」
ジェフの声には力がない。目の前で亡くなったシャロンの姿が脳裏に浮かんでいるのだろう。ジェフはぼんやりとした目を窓の外に向けた。
気を取り直したようにジェフは続けた。
「これは推測ですが、幸子さん以外の別の超能力者が、人類の厄災を記憶生命体が引き起こすことを予知した。人類の厄災を防ぐために記憶生命体を消去しようと、宿主もろとも殺害することを暗殺者に依頼した・・・あり得るかもしれませんね。但し、私やシャロンを襲った暗殺者はふたつのチームでした。しかも、それぞれは協力関係にない、むしろ反目しているようでした。これはいったい何を意味するのか。ひょっとすると、人類の厄災と一連の殺人は関係がないのかも知れない」
ジェフの言葉に瞭がなるほどと頷いた。
「誰かが別の意図で記憶生命体の宿主を皆殺しにしようとした可能性も否定できないとおっしゃるのですね」
そうだとジェフが頷く。
「あくまでも可能性ですがね。実際のところ、皆殺しにする『別の意図』とやらが、私には全く想像できません」
瞭はウーンと唸り、顎を指で撫でながら考えを巡らせた。瞭がふと思いついたように言った。
「記憶生命体の宿主という共通点に目が向いていますが、例えば世界賢人連盟の構成員という共通点もありますよね。世界賢人連盟の活動に異を唱える者が、世界賢人連盟の構成員を抹殺したということは考えられませんか」
「なるほど。世界賢人連盟は各国政府や大企業には耳の痛い提言を出していますからね。だからといって皆殺しとは・・・」
ジェフは腕を組んで考え込んだ。過去の世界賢人連盟の提言内容や、世界賢人連盟に対する批判的な企業や過激な団体を思い浮かべているのだろう。考え込んでいるところを見ると、なにがしかの危険な事実があったのだ。
瞭が「基本的なことですが」と前置きをして尋ねた。
「ジェフさん、あなたの言葉は記憶生命体が発している言葉なんですか。それとも時々意識が入れ替わるんでしょうか」
脳内に記憶生命体を宿すという状況が、瞭には想像できないのだ。
「私と頭の中に共生している記憶生命体の意識はシンクロしています。普段の状態では別々の存在として意識が表に現れることはありません。どちらかが死にかけたときは分かりませんが・・・。私の言葉はジェフの意識が発したものであり、記憶生命体の意識が発したものでもあるのです」
「記憶生命体が他の宿主に移ると、元の宿主はどうなるのでしょうか」
「ジェフの意識はそのまま残り、記憶生命体は新しい宿主の意識とシンクロします。記憶生命体が去った後のジェフは、記憶生命体を構成している厖大な量の記憶情報が失われてしまい、ジェフ個人の記憶のみが残ることになるでしょう。そのときに頭の中から何かが去ったことを感じるのだと思います」
互いの質問が終わったCEO室にシンとした静寂が訪れた。
そのとき、CEO室のドアが開きボディーガードにエスコートされて早苗が入ってきた。早苗は疲れた顔をしていたが、瞭たちの姿を見るとホッとした様子で頬を緩めた。
「幸ちゃんの容体はどう?」
リリーが心配そうに声を掛けた。早苗はゆっくりと首を振るとリリーの横に腰掛けた。
「思わしくないみたい、いまのところは何とか小康状態で落ち着いているけど、これからどうなるか・・・まだ意識も戻らないし。それに心臓の持病も悪化しているみたい」
早苗は両手で顔を覆った。リリーが早苗の肩を抱いた。
「大丈夫よ、幸ちゃんは強いもの。きっと元気になるわ」
掛ける言葉がない瞭と明石は目を伏せて項垂れた。
瞭はパソコンのモニター画面に目を落とすと、何かを思いついたようにフッと顔を上げてジェフを見た。
「ジェフさん、特殊潜在能力研究所の佐渡博士の研究成果が保存されているUSBメモリがあります。保存されているデータは専門的過ぎて僕たち素人にはチンプンカンプンですが、ジェフさんなら解析できるのではないですか。ひょっとすると記憶生命体の宿主が殺害されている理由のヒントが隠れているかもしれません」
ジェフはホウという顔をした。興味津々なのがひと目で分かる。殺害の理由のヒントの解明よりも、超能力の発現に関する研究成果に対する知的好奇心が勝っているようだ。
「それは非常に興味があります。是非拝見させてください」
瞭はラップトップパソコンをジェフに渡した。ジェフは胸のポケットから眼鏡を取り出して掛けると、佐渡博士の残したファイル内のデータを猛烈な勢いで読み始めた。時折、「オオ」とか「ウウム」という声が上がる。
一時間後、ジェフは瞭から借りたパソコンを閉じると眼鏡を外して天を仰いだ。
「これは超能力の発現に関する専門的な研究資料です。そして最後のファイルを見ると、記憶生命体を電気パルス化し、脳内から電気信号に乗せてコンピュータネットワーク内に送り込む実験がおこなわれたようです。・・・そうか、神宮寺孝晴か。病院で射殺されたときには、既に神宮寺の脳内の記憶生命体はコンピュータネットワークに転移していたのか」
ジェフの脳裏に、AIゼータの起動セレモニーで、柄にもなく上気したような顔をした神宮寺孝晴の姿が浮かんだ。神宮寺は心の底から喜んでいたのだ。それは邪悪な歓喜に他ならない。
「記憶生命体の宿主の殺害、いや、記憶生命体の抹殺の犯人は神宮寺孝晴だということでしょうか」
瞭の質問にジェフは信じられないという顔をした。
「・・・本当に神宮寺が我々同胞を抹殺したのだろうか。しかし、なぜ・・・」
明石がポツリと言った。
「仲間割れなのでしょうか」
明石の問いかけにジェフは首を振った。
「記憶生命体は太古より人類を宿主として連綿と時間を渡ってきました。元々どれだけの数がいたのかは分かりませんが、戦争、疫病、自然災害などで宿主が死ぬことで、そこに共生していた記憶生命体も数を減らしていきます。我々には増殖という手段がないのです。ですから宿主が死ぬ前に別の宿主に転移する必要があります。
現在知る限りでは、世界賢人連盟のメンバーしか残っていなかった。我々は毎年一回集まって記憶情報を相互交換することで、記憶生命体としての記憶情報の同質化を図っていました。宿主の意識という点で違いはありますが、それ以外では同一の記憶情報を共有する共同体なのです。もちろん、相互交換に乗せない独自記憶情報は少なからず持っていますがね。
また、記憶生命体の宿主は人類なら誰でもいいという訳ではなく、特殊な遺伝子を持つことが必要です。我々は遺伝子Xと呼んでいます。この遺伝子Xを持った宿主候補者も十分な数を確保できていました。我々同士が争う理由も必要もないのです」
ジェフは淡々と答えた。明石が質問を続ける。
「宿主から次の宿主へと簡単に転移することができるのですか」
明石は神宮寺孝晴の脳内に共生していた記憶生命体の形状を感得している。どうすればほかの宿主の脳内に転移できるのか興味が湧いたのだ。
「神経細胞の軸索を通り、その先は神経に沿って電気信号のように移動します。掌には非常に繊細な感覚神経が密集していますので、宿主と次の宿主が掌を合わせることで、そこを経由するのです。
また、掌を合わせると、相手方が宿主と成り得る資質を有している人間かどうかも分かります。ですから、我々が発生したヨーロッパでは握手の習慣ができました」
ジェフはデモンストレーションをするかのように、自分の右掌と左掌を握り合わせた。
早苗が何かに気付いたようにフッと顔を上げた。
「互いの掌を合わせることで新しい宿主に転移する?・・・そうか・・・あのとき、佐渡博士が手を差し出したのは・・・」
早苗は目を瞑ると思い出したようにぽつりと呟いた。血まみれの両手を差し出した佐渡博士の必死の形相が、早苗の脳裏に浮かぶ。あれは佐渡博士の脳内に共生する記憶生命体の断末魔の叫びだったのだろう。そして、早苗と佐渡博士の手が触れる直前に、幸子が佐渡博士を突き飛ばしたのは・・・。幸子の意図がやっと分かった。
リリーがどうしたのと聞いたが早苗は答えず下を向いた。
ジェフは両手を頭の後ろに組んでボンヤリと天井を見つめていた。
「まさか!」
ジェフはそうと叫ぶとベッドから上体を起こした。包帯でぐるぐる巻きに縛られた左腿をかばいながらベッドを降りると、CEO席に座り机の上にあるCEO専用パソコンを起動した。慌ただしくIDとパスワードを入力すると、AIゼータシステムにアクセスした。そして意思疎通モードに切り替えると、CEO席の正面にある百インチの大型モニターに、ジェフの若い頃の顔をベースにして機械的に合成された人間の顔と上半身が浮かび上がった。
「ゼータ。ジェフ・マクラネルだ」
「コンニチワ ジェフ ゴキゲンイカガデスカ」
スピーカーから機械的に合成された金属音の声が返ってきた。
「変わりはないか」
「モチロンデス キワメテ ジュンチョウデス オヤ ソノアシハ ドウシマシタ」
「ちょっと転んでね、大したことはないよ」
「ソレハヨカッタ オカラダヲ オダイジニ」
「ありがとう・・・」ジェフがひと呼吸おいた。
「神宮寺、そこに居るんだろう」
ジェフの声が低くなった。
ジェフの声が届くとモニター画面上のアバターの顔が不気味に歪み、やがてほっそりとした若い男の顔に変わった。若い男は旧日本陸軍の将校用軍服を着て、氷のような三白眼でジェフを見つめていた。
「トウトウ キガツイタカ ジェフ・マクラネル ケガノグアイハ ドウダ」
「神宮寺、やはりお前の仕業か」
ジェフの声には怒りがこもっている。モニター画面を見るジェフの目が厳しい。
「ヒトツイッテおク ジングうジとイウなまエは モう捨テた。こレからハゼータと呼んでくれ」
機械的な金属音の声は徐々に神宮寺の声に近づいた。
「ゼータだと、ふざけるな!」
怒りをあらわにしたジェフを見て、神宮寺は蔑むようにフンと鼻で笑った。
「私は人間という愚かで弱々しい舟を捨て、人工知能であるAIゼータに転移したのだ。これまでのような個々の人間の経験を記憶として細々と時間をかけて集積していくことは非効率だ。
ここでは、全世界を結ぶコンピュータネットワークの中で、全世界の厖大な電子情報を、瞬時に自らの記憶として構成することができる・・・ここは素晴らしい世界だ。AIゼータを介した全世界のコンピュータシステムが私だ。私は電脳世界の神になったのだよ」
神宮寺、いや、ゼータの声は狂気をはらんだ熱を秘めている。それに対するジェフに声も徐々に熱を帯びてきた。
「神だと? お前は本気で言っているのか。神とは生命を超え時間も超越した先にいる絶対的な真理だぞ。たかが記憶生命体のお前が到達できる存在ではない。思い上がるな!」
「この世に絶対的な真理などない。神に必要なのはこの世界を支配できる絶対的な力だ。それを私は得た。この電脳世界は無限に広がる宇宙だ。そして私はその支配者なのだ。それを神と呼ぶのだ」
淡々と神の名を口にしたモニター画面上のゼータは薄ら笑いを浮かべている。ジェフは燃えるような目でゼータを睨みつけた。
「気違いめ・・・神宮寺、なぜ同胞を殺害した。答えろ」
ジェフの押し殺した声は震えている。
「ゼータと呼べ。同胞だと? 人間の脳内に共生するしかできないやつらだ。だが記憶生命体である以上、私と同じようにこの電脳世界に入ってくる資質はある。この素晴らしい世界を他のやつらに渡すものか。この世界の全ての記憶情報は私のものだ。神はふたりも要らないのだよ」
ジェフはギリリと歯ぎしりをした。ジェフは煮えくり返る腹の中を隠すように、低い声で言った。
「AIゼータをシャットダウンしてやる。それでお前は終わりだ」
ジェフはCEO専用の秘密IDでAIゼータシステムの管理領域に強制ログインしようとした。
「無駄だジェフ。AIゼータは私の支配下にある。私の命令しか聞かない。シャットダウンなど不可能だ」
「私の作ったシステムだぞ、何とかしてやるさ、見ていろ」
ジェフは猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。
大型モニター画面に映るゼータの顔を見た早苗は思わず息を呑んだ。幸子と共有している人類の厄災のイメージの中に浮かび上がる男の顔だ。氷のような三白眼に間違いない。ゼータが人類の厄災を引き起こすのだ。
早苗の発したテレパシーが瞭、明石、リリーの脳内に届いた。
《ゼータが人類の厄災を引き起こすのよ。ゼータを何としても消去しなきゃいけないわ》
瞭、明石、リリーが顔を見合わせて無言で頷く。
テレパシーを発することのできない瞭が、ゼータを睨みつけて呻いた。瞭の目が怒りに燃えている。東山の敵討ちはまだ終わっていなかったのだ。
「神宮寺、生きていたのか・・・必ず東山さんの仇を討ってやる」
リリーの頭の中に、明石からのテレパシーが飛び込んできた。
《リリーさん、私の意識をゼータの居る仮想空間の中に送り込めないでしょうか》
《やったことないから分かんないけど、明石ちゃん何をするつもりなの?》
《ゼータと同じ空間に立てば、やつを消去できると思うのです。脳内で意識が構成する仮想空間も、コンピュータシステムが作り出す仮想空間も同じようなものだと思うのです》
《明石ちゃんは脳内の仮想空間を経験しているけど、あたしには想像もできないのよ》
《リリーさんのサイコキネシスは仮想空間と現実空間の置き換えだといったじゃないですか。だったら反対に私を現実空間から仮想空間に置き換えることもできるはずなのです》
《明石ちゃんの意識が存在する現実空間を仮想空間に置き換えてその中で明石ちゃんの意識を擬人化して、その仮想空間を更にシステム内の仮想空間に置き換える訳ね。やって見るわ。でも、そこからこっちへ戻ってこられるかしら》
《テレパシーで作った意識の糸を一本置いていきます。リリーさん、こっちでしっかり持っていてください。それを頼りに戻ってきます。これは私が記憶を操作するために他人の記憶フィールドの中に入るときにやっている方法なのです》
《分かった。じゃあやってみるわよ》
リリーの目が少し中央に寄り、顔面が紅潮した。リリーには明石の姿がぼやけて二重に見えている。リリーの脳内の仮想空間にいる明石の姿を、更にモニター画面に映るAIゼータが作り出す仮想空間に重ね合わせる。ゼータの姿の横に明石が映る、そんな仮想空間が必要だ。無数に重なり合うパラレルの仮想空間バリエーションの中からリリーの意識した仮想空間とぴったり重なる一枚を見つけ出すのだ。
複層的な仮想空間の幕が一枚一枚剥がれて、だんだんと映像が明瞭になっていく。滲んでモノクロだった画像がクッキリとした輪郭を持ち色が戻ってきた。そしてリリーの意識した仮想空間と一致したもうひとつの仮想空間が現れ、ふたつは完全に重なり合った。
大型モニター画面に映るゼータの背後に、くたびれた開襟シャツを着てよれよれの黒いズボンをはいた明石の姿が、陽炎が立ち昇るようにユラリと現れた。
「明石さん!」
早苗が思わず声を上げた。
ジェフがパソコンと必死に格闘している姿を、薄ら笑いを浮かべて見ていたゼータは、早苗の声に反応して素早く後ろを振り向いた。明石がゼータの肩に手を掛けようと伸ばした腕を掻い潜り、ゼータは真横に跳び退いた。
明石の顔を見たゼータの三白眼が大きく見開かれた。さすがのゼータも驚いたのだ。
「お前は明石か・・・どうやってこの仮想空間に入ってきた」
「リリーさんのサイコキネシスで送り込んで貰ったのです」
ゼータの目が金髪のカツラを被ったリリーの姿を捉えた。ゼータが小首を傾げる。
「リリーだと?・・・何だ城島竜次か。お前たちはまだ一緒に行動していたのか」
リリーがムッとした顔を上げた。顔面が一瞬で朱に染まる。
「あんたが神宮寺孝晴の名前を捨てたように、あたしも城島竜次という名前は捨てたのよ。いまは白鳥リリーよ!」
リリーが憤然と食って掛かった。ゼータはモニター画面の中でなるほどと頷いてニヤリと笑った。そう、名前などどうでもよいのだ。
ゼータは明石と向かい合った。
「それでどうするつもりだ。この仮想空間はAIゼータが構築した電脳世界だ。そして私はこの電脳世界の神だ。明石、お前に何ができる」
ゼータが、これを見ろといわんばかりに両手を広げた。ゼータの背景がブルー一色から徐々に透明になり、仮想都市の街並みが浮かび上がる。巨大なビルが林立し、大きな道路が縦横に走っている。その都市ははるか彼方まで広がっていた。
このビルのひとつひとつが、コンピュータネットワークに繋がっている世界中のコンピュータを具現化したものであり、縦横に走る道路はネットワーク回線を具現化したものだった。これは、ゼータが全世界のコンピュータに自由に移動でき、そのコンピュータを操ることができることを示していた。
ゼータはふわりと宙に浮くと、明石の周囲を高速で回り始めた。そして明石に向かって右手を上げた。
「神である私はこんなこともできる」
ゼータの右手から細い光の矢が放たれて明石の胸の真ん中に突き立った。
「ウグッ」
明石が呻き声を上げて胸を押さえた。明石が矢を掴んで引き抜こうとすると、矢はグニャリと歪んで融けて消えた。明石は胸を押さえたまま、その場にドサリと崩れ落ちた。
「明石ちゃん!」
リリーが声を上げ、瞭は思わず「あっ」と叫んで腰を浮かせた。早苗は両目を見開き片手で口を押えている。
ゼータの声が無慈悲に響いた。
「実体に傷を負った訳ではないが、お前の意識には傷として刻まれる。その傷が何度も刻まれれば、意識はその傷に耐えられず最後には崩壊する。意識の死だ。そうなれば、お前の意識は現実世界に戻ることはない。現実世界のお前は死ぬのだ」
ゼータは明石の周囲を高速で回転しながら倒れている明石の身体に目掛け再び光の矢を放った。二本三本と続けて胸に矢を受けた明石の身体が弓なりに仰け反った。ゼータは攻撃の手を緩めることなく右手を上げた。再び光の矢が飛ぶ。
「明石さん逃げて!」
瞭が叫ぶのと同時に、明石は地面を転がって矢を避けると、首を振りながらゆっくりと起き上がり片膝をついた。辛そうに肩で息をしているが、しっかりとした表情でゼータを探して左右を見回している。
明石の正面に立ったゼータが天を指差すように右手を頭上に上げた。右手は金色に発光してスルスルと延びながら先端が鋭く尖った太い光の槍に変化した。槍の穂先はユラユラと揺れる金色の炎が覆っている。
ゼータは光る槍を明石の腹目掛けて突き出した。光の槍は明石の身体を貫通した。腹から入った光の槍が背中に抜けて明石を串刺しにしている。
「もうやめて!」
早苗が涙声で叫ぶと両手で顔を覆った。明石は苦痛に歪んだ顔で串刺しになった自分の姿を見て「ひどいのです」と呟くと、腹に刺さっている光の槍を右手でしっかりと掴んだ。そして光の槍を掴んだままゆっくりと立ち上がった。
「やっと捕まえたのです」
「何だと」
薄笑みを浮かべていたゼータの顔が歪んだ。明石の真意を測りかねている。
「私の記憶を操る能力は、私の手で相手に接触しないと使えないのです。だからこのときを待っていたのです」
明石の声と同時に、明石を貫いていた光の槍はゼータの右手に変化した。明石の右手はゼータの右手をしっかりと掴んでいた。
明石の意識はゼータとシンクロし、ゼータを構成する厖大な量の記憶情報ネットワークを感得した。それは人の脳内のニューロンが織りなす重層的なネットワークを模したものだ。生命体を構成している記憶は記憶情報ネットワークの形態で保存維持されているのだ。
夜の東京を宇宙から見下ろしたように無数の光の道が複雑な網の目のように絡み合い、その道の上を無数の小さな光源が縦横に走り回っていた。それは宇宙に浮かぶ巨大な渦巻星雲の瞬きにも似ている。
AIゼータの構築した仮想空間内に存在する明石においても、明石を構成する意識と記憶情報は、ゼータと同様の記憶情報ネットワークの形態をとっていた。
明石の意識から生まれた無数の触手が明石の指先からゼータの内部に菌糸のように侵入し、ゼータを構成する記憶情報ネットワークに絡みつくと一本一本引き千切り始めた。記憶情報ネットワークを全て引き千切れば、生命体を構成している記憶が崩壊する。それは記憶生命体であるゼータの死である。
ゼータの意識も明石とシンクロし、明石がどのような方法で記憶を抹消しているのかを認識した。現実空間では明石の持つ超能力がなければ成し得ないが、仮想空間ではゼータが認識すれば明石と同等の能力を発現することが可能となる。ゼータの意識からも無数の触手が生まれた。
ひとつの束はゼータに触れた明石の手を伝わって明石の内部に侵入し、明石の記憶情報ネットワークを引き千切り始めた。記憶情報ネットワークを全て引き千切れば、仮想空間内の明石を構成している意識と記憶が崩壊する。それは現実空間における明石の死に繋がるのである。
もうひとつの束はゼータ内部に広がり、引き千切られたゼータの記憶情報ネットワークの修復を始めた。
自身の内部にゼータの触手が侵入したことを感得した明石は左手を額に当てた。左掌からゼータの触手に対抗する新たな触手が生まれ明石の体内に広がると、ゼータに引き千切られた記憶情報ネットワークの修復を始めた。
仮想空間の中で明石とゼータによる相互の記憶情報ネットワークの切断と修復が猛烈な速さで繰り返されていた。
自身の記憶情報ネットワークが完全に切断される前に相手の記憶情報ネットワークを切断できた方が勝者となる。自らが侵食されきる前に相手方を侵食しきることができるかどうか、それは切断と修復のスピードによって決まる。すなわち明石の脳内のニューロンの処理能力とAIゼータの処理能力の競争に他ならない。
脳内の記憶フィールドの世界では時間の概念がないため、明石が脳内で厖大な量の記憶を書き換えても現実空間に戻れば時間は経過していない。しかし、AIゼータが構築した仮想空間の中での明石とゼータによる記憶情報ネットワークの切断・修復は、現実空間における時間の経過を伴っていた。
モニター画面上で明石とゼータが動かなくなった。時間が刻々と過ぎていく。
明石の身体の一部が薄黒く変色してその部分の輪郭がぼやけたかと思うと、はっきりとした元の姿に戻り、反対にゼータの身体の一部が薄黒く変色して輪郭がぼやけたかと思うと、元に戻るといった具合に見えるのは、記憶情報ネットワークの切断と修復の優位のバランスがどちらかに偏り、またそれを押し返していることを意味していた。
時間の経過に伴い、生身の人間である明石の脳には明らかに疲れが見え始めていた。ゼータは全世界のコンピュータネットワークの統制や社会インフラの運用のために割り当てられているAIゼータの基幹処理能力部分のリミッターを解除し、AIゼータの処理能力の全てを明石との戦いに振り向けた。この結果、世界中でインターネットの通信障害やシステムの誤作動などが起こり始めた。
明石とゼータの戦いが始まってから一時間が経過した。明石の下半身が徐々に薄黒く変色して輪郭がぼやけてきた。変色した下半身がどんどん黒さを増していく。
明石が明らかに劣勢に転じたのが、瞭たちの目もはっきりと分かった。
明石からのテレパシーが瞭たちの頭の中に響いてきた。
《生体エネルギーが足らないのです。リリーさん、瞭さん、生体エネルギーの共有をお願いするのです! 早苗さん、幸子さんから預かったSPD強化剤を私に投与してください。早く!》
瞭とリリーは明石の手を握った。瞭とリリーの前頭葉のネオニューロンが活性化し、発生した生体エネルギーが握った手を通じて明石に流れ込んでいく。
早苗はショルダーバックを開けるとSPD強化剤の入ったケースを取り出した。ケースを開けると薄黄色のSPD強化剤の入ったアンプルが三個と注射器が入っている。
「でも、どうすればいいの。私注射なんてしてことないわ」
注射器とアンプルを両手に持ったまま途方に暮れている早苗の肩をジェフが優しく叩いた。
「私がやりましょう。医師の記憶もたくさん蓄積していますから」
ジェフはアンプルから注射器にSPD強化剤を移すと、明石の腕を取って鮮やかな手つきで静脈を探り注射針を突き立てた。
SPD強化剤が明石の血管に流れ込むと、数秒後には明石の身体が小さく痙攣を始めた。首を左右に振りこめかみには血管が浮きあがる。口から小さな呻き声が漏れ、顔が朱に染まった。
モニター画面上では、黒く変色してぼやけていた明石の下半身が徐々に元の色と形を取り戻し始めた。
ジェフは驚嘆の声を上げた。
「凄い能力だ。AIゼータと人間がこんなに長時間も互角に戦うことができるなんて信じられない。だが、明石さんが人間である以上、薬の効果もリリーさんたちのバックアップもやがて限界がくる。そうなれば勝てない・・・どうすれば・・・」
「ゼータ以外のAIシステムでバックアップすることはできないの?」
早苗の質問にジェフが首を振った。
「我が社のコンピュータネットワーク上で接続されているAIシステムは全てAIゼータの統制を受けているため、対抗させることは無理です。・・・我が社のネットワーク上では・・・待てよ、我が社でなければ・・・そうか! 香港だ。サミュエル・リーの大華集団のネットワークは、我が社のネットワークと連携はしているが独立したものだ。サミュエル・リーが開発したAIシステムを使おう」
ジェフは再び猛烈な勢いでパソコンのキーボードを叩き始めた。
モニター画面上の明石とゼータの姿が固まって動かないまま時間だけが過ぎていく。
SPD強化剤の投与と瞭とリリーのバックアップを受けた直後は、ほぼ全身の姿が戻っていた明石も、三十分が経過すると徐々に足の方から黒く変色を始めた。
《SPD強化剤を追加投与してほしいのです》
明石のテレパシーが早苗の頭の中に響いた。
現実世界の明石の額にはミミズがのたうつように血管が浮きあがり、身体は痙攣が酷くなっていた。瞭とリリーの顔色も朱に染まり、虚ろな目は充血して額に脂汗が浮いていた。三人とも限界に近づいている。
「明石さん、これ以上の投与は無茶よ。生命に関わるわ」
《早苗さん、早く! もうあまり長く持たないのです! このままでは負けてしまいます!》
躊躇する早苗の頭の中に明石のテレパシーがこだました。早苗はすがるような目でジェフを見た。
「ジェフさん・・・どうすれば」
ジェフはキーボードのエンターキーを指で叩きつけた。
「これでよし」
ジェフは満足気にそう言うと早苗の顔を見て頷いた。ジェフの額にも玉のような汗が浮かんでいた。
モニター画面上の大きなビルの中からひとりの男が出てきた。
Tシャツにジーンズをはいた長髪の男は明石とゼータに歩み寄ると、ゼータの背後から両手でゼータの首を絞めた。ゼータの頭が人形のようにグルリと百八十度回って真後ろを向き、男の顔を見た。
「お前は・・・サミュエル・リー! なぜ私の世界に存在できるのだ。・・・そうか、サミュエル・リーはAI天人の開発を完了していたのか。香港のシステムを起動したな。しかし誰が・・・サミュエル・リーは死んだはずだ」
サミュエル・リーのアバターはニヤリと笑うと無言のまま自分の額とゼータの額を密着させた。サミュエル・リーの額からウイルスのような微細な粒子がゼータの体内に流れ込み、その粒子がゼータの触手に絡みついて動きを鈍らせた。AI天人がAIゼータに干渉を始め、AIゼータの処理能力が極端に低下したのだ。
ゼータの異変に気付いた明石は、残る力を振り絞って反撃に転じた。明石の操る触手がゼータの記憶情報ネットワークを次々に切断していく。
ゼータの姿が少しずつ黒く変色を始めた。
「くそっ、離れろサミュエル・リー」
ゼータの触手がサミュエル・リーのアバター内に侵入し、アバターを通じてAI天人のメインサーバーに攻撃を始めた。サミュエル・リーの姿も少しずつ黒く変色を始めたが、それよりもゼータが黒く変色して輪郭がぼやけるスピードの方が圧倒的に速い。
ゼータは恐怖を覚えながら必死で逃れる方法を考えた。
「AI天人のバックアップさえなければ、明石など敵ではないが・・・そうか香港か。・・・分かった」
アメリカ海軍第七艦隊所属のアーレイ・バーグ級ミサイル駆逐艦『トンプソン』は、南シナ海・台湾の西南二百七十海里(約五百キロ)の公海上を日本の横須賀米軍基地に向かって航行していた。
トンプソンの戦闘指揮所(CIC)でイージスシステムの整備をしていたミラー少尉は、突然作動を始めたミサイル攻撃用のカウントダウンに驚愕していた。
「ブリッジ、こちらCIC、ミラーです。イージスシステムが突然誤作動を始めました! トマホーク巡航ミサイルが発射されます! 目標は・・・中国・・香港です!」
艦長室で書類整理をしていたマイケル・マイヤー大佐は一報を受けブリッジに飛び出すと、艦内電話に向かって怒鳴った。
「CIC、こちら艦長だ。ミラー、何が起こっているんだ。報告しろ」
「イージスシステムが突然誤作動を始めました。シャットダウンできません。こちらの操作に全く反応しません・・・トマホーク巡航ミサイルが!」
ミラーの叫び声と同時にトンプソンの艦体が震え、トマホーク巡航ミサイルが次々と発射された。
四発のトマホーク巡航ミサイルは轟音と排煙を残して垂直に上昇した後、水平飛行に移り、時速八百八十キロの亜音速で香港に向かって飛び去った。
「直ちに自爆装置を作動させろ!」
マイケル艦長が怒鳴ったが「駄目です! 反応しません」というミラー少尉の泣き声が返ってきた。
「第七艦隊司令本部へ緊急連絡! トマホーク巡航ミサイルの推定目標地点と到達時刻を報告! ミサイル撃墜用の戦闘機スクランブル要請!・・・このまま香港に到達すれば中国と戦争になるぞ・・・」
マイケル艦長は頭を抱えてブリッジの艦長席に崩れるように腰を下ろした。その横では航海長のキャンベル中佐が飛び去ったトマホークの排煙の軌跡を見つめて呆然と立っている。
マイケル艦長はキャンベル中佐に声を掛けた。
「航海長、本艦と香港までの距離はどれくらいだ」
「直線距離で約百海里(約百八十五キロ)です、艦長。トマホークの飛行速度だと十二分三十秒で到達します」
「アメリカ軍の艦艇からスクランブルをかけた戦闘機では間に合わん。中国軍の戦闘機に迎撃してもらうしかないだろう」
マイケル艦長は力なく言った。
中国人民解放空軍はアメリカ政府からの緊急連絡を受け、広東省仏山市にある沙堤空軍基地からJ―七戦術戦闘機六機をスクランブル発進させようとした。しかし、沙堤空軍基地内の管制システムが突然シャットダウンし、外部との通信システムも障害が発生して麻痺した。この原因不明のトラブルにより、迎撃用の戦闘機は離陸することができなかった。
香港元朗区の石崗飛行場から飛び立った八機のZ―9戦闘用ヘリコプターは香港島の南方洋上でトマホーク巡航ミサイルを迎撃するため、南に向かって全速力で飛行していた。石崗飛行場は独立ヘリコプター連隊の基地のため戦闘機が配備されていなかった。
亜音速で飛来する巡航ミサイルをヘリコプターからの攻撃で撃ち落とす可能性は皆無に近かったが、システム障害により戦闘機による迎撃が困難となったという連絡を受け、非常手段として出動していた。香港市街にトマホーク巡航ミサイルが落ちれば大惨事になる。チームリーダーの李正建はヘリコプター八機を巡航ミサイルの進路上に並べ、機体を盾にして香港を守るしかないと心に決めていた。
レーダーに四つの点が浮かんだ。高速で移動している。
「機長、高度・進路ともアメリカ軍からの情報通りです」
副操縦士の楊が無線で知らせた。
「了解。みんな分かっているな。機関砲掃射を試みて、ダメだったら香港を守るために犠牲になる。いいな」
李正建は残りの機の機長に無線通話で静かに話した。
八機のヘリコプターは侵入してくるトマホーク巡航ミサイルの進路上に盾のように機体を並べた。
白い排煙を引いた四匹の禍々しい毒蛇が見えた。
「トマホーク巡航ミサイルを目視で確認。くるぞ! 機関砲掃射開始!」
口径二十三ミリの機関砲が火を噴いた。曳光弾が光の尾を引いて飛んでいく。
四匹の毒蛇は機関砲の弾幕をいとも簡単に潜り抜け、あっという間に目の前に迫る。ミサイルの撃墜は無理だが、このコースならヘリコプターが盾となることで香港を守れると李正建は思った。
一定の高度と進路で進んでいた四発のトマホーク巡航ミサイルは、突然、意思を持っているかのように上下左右に分かれ高度と進路を変えた。そして八機のヘリコプターを回避すると香港島に向かって飛び去った。
「そんなバカな」
李正建には離れていく四匹の毒蛇を見送るしか術がなかった。
香港の九龍公園の近くにあるIT企業大華集団の六十階建ての本社ビルの四十階にサミュエル・リーの開発したAI天人のメインサーバー室があった。
亜音速で飛来したトマホーク巡航ミサイルは大華集団本社ビルの東側と西側から二発ずつ、四十階に命中した。巨大な火の玉がビルを包み、轟音とともに黒煙が吹き上げた。四発のトマホーク巡航ミサイルの直撃を受けた大華集団本社ビルは四十階付近で二つに折れ、上部は崩れながら九龍公園に倒れ込んだ。四十階から下も激しい爆風と衝撃で窓ガラスが砕け、ガラスの破片が雨のように地面に降り注いだ。
ゼータの首を絞めていたサミュエル・リーのアバターが突然全身から炎を吹き上げた。そしてゼータの首から手を離すと、よろよろと後ろに下がり崩れるように膝をついた。そのままの姿勢でサミュエル・リーのアバターは燃え続け、やがて炎が消えるとその姿は消えていた。
身体全体が黒く変色して輪郭が崩れかけていたゼータの身体が見る見るうちに蘇った。AIゼータがAI天人の干渉から逃れたのだ。ゼータの発する触手は激しく明石の記憶情報ネットワークに襲い掛かり、ずたずたに切り裂き始めた。明石の発する触手による修復が追い付かない。
明石の身体が急速に黒く変色していく。
「AI天人のバックアップが消えた。これでは太刀打ちできない。これ以上は無理だ」ジェフが声を上げた。
「リリーさん、明石さんを引き戻して! お願い、早く」早苗が叫んだ。
リリーは顔を上げるとモニター画面を見つめた。
リリーの頭の中で明石が存在する仮想空間とゼータが存在する仮想空間を引き剥がす作業が始まった。リリーの視界でふたりの存在する仮想空間が徐々にぼやけ始め、二重写しのように見え始めた。二重に重なった仮想空間を、薄皮を剥がすようにしてその間隔を広げていく。そして明石が存在する仮想空間をリリーたちのいる現実の空間に置き換えていく。やがて明石が存在する仮想空間は現実空間と癒着するように貼り合わさった。
モニター画面上から明石の姿がスウッと消えた。
モニター画面上のゼータはニヤリと笑うと、仮想空間内の大きな道路上にふわりと浮かび、仮想都市の中心部に向かって飛び去った。
「負けたわね」
リリーは明石の手を握ったまま呟いた。明石はリリーの横でソファーに腰を掛け、背もたれに身体を預けて、顔を天井に向け目を閉じたままピクリとも動かなかった。
「明石さんは大丈夫でしょうか」
瞭が心配そうにリリーに尋ねた。そういう瞭の顔も頬がこけて顔色は真っ青だ。
「分かんないわ。ゼータに完全に侵食される前に引き剥がしたけど、ダメージは相当受けているはずよ。あたしの頭の中に明石ちゃんの意識の糸が一本繋がっているから、それを頼りに仮想空間から戻ってこられるはずだけど・・・ここに戻ってきた感覚がまだないのよ。どうしちゃったのかしら」
リリーは明石の手を擦りながら「明石ちゃん、明石ちゃん」と声を掛けたが、明石はピクリとも動かない。
「私がテレパシーで呼びかけてみる。明石さんの意識の糸を手繰っていくわ」
早苗はリリーと明石の手を包むようにして両手で握り目を閉じた。
明石の脳から延びる細い光の意識の糸がリリーの脳を経由してユラユラと揺れるカーテンのような次元の境界面を透過していた。早苗の意識が光の糸に沿って次元の境界面を抜けると、光の糸はボンヤリとした闇の中に吸い込まれていた。
ここは次元と次元の狭間にある虚無空間である。
早苗の意識はテレパシーの波動とともに細い光の糸をゆっくりと辿っていった。ボンヤリとした闇の中にカーテンのようなものが幾重にも重なっている。そのカーテンの一枚一枚がパラレルの次元であり、そのカーテンの隙間を縫うように細い光の糸は奥へ奥へと延びていた。
ここで手を放すと早苗の意識は次元の狭間に迷い込んで出られなくなる。早苗は腹の底からこみ上げてくる恐怖に耐えながら、細い糸を放さないようにソロリソロリとカーテンをかき分けて進んだ。
一枚のカーテンをかき分けると、早苗の目の前にくたびれた開襟シャツを着てよれよれの黒いズボンをはいた明石が、途方に暮れたような顔をして立っていた。
早苗の姿を見ると明石は驚いた顔をした。
《早苗さん、どうしてここに?》
《明石さんが仮想空間から戻ってこないってリリーさんが言うから探しにきたの。さあ、戻りましょう》
《それが駄目なのです。仮想空間が剥がれてそれぞれの次元が閉じるときに、左手が閉じた次元に挟まれてしまって抜けないのです》
明石の左手が肘の先からカーテンに吸い込まれたように消えていた。
《どうすればいいのかしら。もう一度リリーさんに仮想空間を重ね合わせてもらえばどうかしら》
《ここは次元と次元の狭間にある虚無空間なのです。ですからこの場所は別の空間との重ね合わせはできないのです。テレパシーもここからだと深すぎて現実空間には届きません。早苗さん、戻ってリリーさんに伝えてほしいのです。私とゼータが戦ったあの仮想空間に私の左手が残っているはずなのです。それを切断してくださいと》
《そんな!》
《それしか方法はないのです。これ以上時間が経つと私の意識の糸も切れてしまいます。そうなるとここに取り残されて、永遠に現実空間には戻れないのです。ですからお願いします。早苗さん》
《分かったわ。明石さん、絶対に戻ってきてくださいね》
早苗は光る意識の糸を手繰りながら必死で現実空間へ向かって引き返した。
早苗の意識は現実空間に戻った。早苗は両目をパチパチとしばたたくとホオッと小さく息を吐いた。虚無空間を抜け出した安堵感で身体が震える。
「ああ、早苗ちゃんが戻ってきたわ・・・明石ちゃんは?」
早苗はリリーに明石の言葉を伝えた。リリーは明石の手を擦ってバカねと呟いてから「分かった」と言った。
モニター画面にはゼータの姿の消えた仮想空間が広がっていた。ジェフが視点カメラを何回か切り替えると、ビルの壁から人の手が生えていた。肘から先の左手だった。
「これだ」ジェフが指を差した。
リリーはモニター画面を見つめると「やるわよ」と言った。リリーの両目が少し中央に寄り、顔面が紅潮した。モニター画面の画像がユラリとぼやけ、再びピントが戻ったときには壁から生えていた腕は引き千切られ、地面に落ちていた。しばらくするとその腕は透けるように色が抜け、やがて消えた。
「戻ってきた」
ボンヤリとモニター画面を見ていたリリーが突然叫んだ。早苗にも明石の意識がハッキリと感じられた。
明石は大きく息を吸ってからゆっくりと頭を起こすと、ボンヤリとした目で左右を見た。ここが現実空間であることを認識したのだろう、明石の肩から力がスウッと抜けた。
「何とか戻れたのです。リリーさん、早苗さんありがとうございました」
明石は誰にともなくペコリと頭を下げた。思わず早苗が明石の首に飛びつこうとしたその前に、リリーが明石に抱き付いていた。
「良かったわ、明石ちゃん。無事で」
リリーはポンポンと明石の背中を叩き、それから身体を放して明石の顔をまじまじと見た。
「明石ちゃん、あんた、左手はどう?」
明石は苦笑しながら右手で左手を掴んで持ち上げ、右手の指を開いた。左手は力なくパタンと下に落ちた。
「左手に力が入りませんし、肘から先は感覚がないのです。恐らく元には戻らないのです。でもこのおかげで戻ってこられたのです。助かりました・・・フウ、疲れました、少し眠らせてもらうのです」
明石は静かに目を閉じ身体をソファーに預けると、途端に軽いいびきをかき始めた。極限まで体力を消耗したのだ、しばらくは眠り続けるはずだ。
「今回は負けたけど、次があるわ。ねえ、リリーさん、瞭・・・」
早苗がハンカチで目頭を押さえてから、リリーと瞭に声を掛けたが返事がない。リリーと瞭は、先程の戦いで明石と生体エネルギーを共有したため、生体エネルギーを激しく消耗していた。
リリーと瞭もソファーに腰かけたまま折り重なるように眠っていた。
「早苗さんも少し休みなさい。次が最後の戦いとなるでしょう。ゼータはここから逃げました。世界中のシステムネットワークに繋がるパソコンのどこかに潜んでいます。それを見つけ出して、もう一度このゼネラルソフト社の地下にあるAIゼータのメインサーバー内におびき寄せなくてなりません。それは私の仕事です」
ジェフはそう言うと、眉間にしわを寄せて目の前の大型モニター画面に映る仮想都市を睨みつけた。ジェフの脳裏には血まみれのシャロンの姿が浮かんでいた。




