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This is the "TIME"  作者: 御樹本 正輝


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9/16

距離と時差

現実は容赦なく、僕たちをそれぞれの生活へと引き戻した。

横浜で過ごしたあの甘い時間の中に、影は確実に落ち始めていた。

僕はニューヨークへ戻り、法律雑誌の編集作業と取材に追われる毎日が、また始まった。

彼女は横浜で英語の私塾を開き、自分の足で新しい生活を築き始めていた。



国際電話はまだ高価で、Eメールも言葉や生活のタイムラグを完全には埋めてくれなかった。

二人の間に落ちる影は、気づかないうちに少しずつ濃くなっていった。

電話で話す時間を増やそうとしても、時差は残酷だった。

彼女が仕事を終える頃、僕は編集部で取材の準備をしている。

僕が帰宅する頃、彼女は眠りにつこうとしている。


「時差って、思ってたより大きいね」

その夜の彼女の声は、どこか疲れていた。

「大丈夫だよ。慣れるよ」

その言葉は、自分自身にも届かなかった。



法律雑誌では新企画が次々に始まり、取材と締め切りが途切れることなく続いた。

深夜のオフィスでコーヒーを飲みながら彼女にメールを書こうとしても、言葉がうまく紡げずに寝落ちする日が増えていった。

彼女のメールはいつも丁寧で、優しく、温度があった。

しかし、その温度に応える余裕が僕にはなかった。



「最近、ちょっと距離を感じるよ」

ある夜、彼女が電話でそう言った。

「ごめん。仕事が立て込んでて」

自分でもわかるほど、言い訳めいた声だった。


沈黙が落ちた。横浜で感じた1秒の沈黙とは違い、どこまでも深く、底が見えなかった。


「私たち、ちゃんと続けられるかな」

その問いに、僕はすぐに答えられなかった。

答えられない自分に気づいた瞬間、胸の奥が冷たくなった。



彼女がニューヨークへ来る計画を立ててくれたこともあった。

チケットも取り、ホテルも手配し、久しぶりに直接会えるはずだった。

僕たちはその日を心の支えにして日々を過ごした。

しかし、急遽新雑誌の創刊が決まり、僕は中心メンバーに抜擢されてしまった。


「今回は無理だ」

その言葉を告げた僕の声は、どこか遠くの暗い場所から運ばれてきたようだった。



「あなたがどんどん遠くに行ってる気がするの」

彼女の言葉は、距離ではなく心の遠さを指していた。僕自身もそれを感じていた。

彼女の温度に応える余裕が、少しずつ削られていくのを自覚していた。



ニューヨークで生きる人間たちの、それぞれの孤独。

ビリー・ジョエルの「ニューヨークの想い」が流れていた。

邦題「想い」と訳されたstate of mind、このニューヨークで僕の心はどこにあるのだろうか。


挿絵(By みてみん)


季節が変わっても状況は好転しなかった。

彼女は英語教室を軌道に乗せ、横浜での生活が確かな形を持ち始めていた。

一方の僕は、ニューヨークの雑踏の中で、自分がどこに向かっているのか分からなくなっていた。


「仕事が落ち着いたら迎えに行く」

そう言うと、彼女は少し笑って

「また『落ち着いたら』なんだね」

と返した。



「あなたは、どこに向かってるの?」

「わからない」

その答えに、彼女は小さく息を呑んだ。

「そっか……」

その言葉は、静かな受け入れだった。


互いを縛りたくないという優しさが、皮肉にも僕たちを別れへと導いた。


電話を切った後、僕はしばらく受話器を見つめていた。

横浜の夜の気配も、彼女の声の温度も、もう僕の生活には触れない。


僕たちは喧嘩もなく、涙もなく、ただ静かに、潮が引くように離れていった。

遠距離恋愛には、努力では埋まらない距離がある。そのことを、僕たちは身をもって知った。



編集部のテレビではヤンキースタジアムの歓声が流れていた。

アトランタを破り、連覇を達成したというニュースに誰かが「すごい時代だな」とつぶやいた。

その歓声を聞きながら、僕は受話器を静かに置いた。


見逃したのは、ワールド・シリーズだけじゃなかった。

あの横浜で始まった時間も、いつの間にか、僕の手の中からこぼれ落ちていた。

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