距離と時差
現実は容赦なく、僕たちをそれぞれの生活へと引き戻した。
横浜で過ごしたあの甘い時間の中に、影は確実に落ち始めていた。
僕はニューヨークへ戻り、法律雑誌の編集作業と取材に追われる毎日が、また始まった。
彼女は横浜で英語の私塾を開き、自分の足で新しい生活を築き始めていた。
国際電話はまだ高価で、Eメールも言葉や生活のタイムラグを完全には埋めてくれなかった。
二人の間に落ちる影は、気づかないうちに少しずつ濃くなっていった。
電話で話す時間を増やそうとしても、時差は残酷だった。
彼女が仕事を終える頃、僕は編集部で取材の準備をしている。
僕が帰宅する頃、彼女は眠りにつこうとしている。
「時差って、思ってたより大きいね」
その夜の彼女の声は、どこか疲れていた。
「大丈夫だよ。慣れるよ」
その言葉は、自分自身にも届かなかった。
法律雑誌では新企画が次々に始まり、取材と締め切りが途切れることなく続いた。
深夜のオフィスでコーヒーを飲みながら彼女にメールを書こうとしても、言葉がうまく紡げずに寝落ちする日が増えていった。
彼女のメールはいつも丁寧で、優しく、温度があった。
しかし、その温度に応える余裕が僕にはなかった。
「最近、ちょっと距離を感じるよ」
ある夜、彼女が電話でそう言った。
「ごめん。仕事が立て込んでて」
自分でもわかるほど、言い訳めいた声だった。
沈黙が落ちた。横浜で感じた1秒の沈黙とは違い、どこまでも深く、底が見えなかった。
「私たち、ちゃんと続けられるかな」
その問いに、僕はすぐに答えられなかった。
答えられない自分に気づいた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
彼女がニューヨークへ来る計画を立ててくれたこともあった。
チケットも取り、ホテルも手配し、久しぶりに直接会えるはずだった。
僕たちはその日を心の支えにして日々を過ごした。
しかし、急遽新雑誌の創刊が決まり、僕は中心メンバーに抜擢されてしまった。
「今回は無理だ」
その言葉を告げた僕の声は、どこか遠くの暗い場所から運ばれてきたようだった。
「あなたがどんどん遠くに行ってる気がするの」
彼女の言葉は、距離ではなく心の遠さを指していた。僕自身もそれを感じていた。
彼女の温度に応える余裕が、少しずつ削られていくのを自覚していた。
ニューヨークで生きる人間たちの、それぞれの孤独。
ビリー・ジョエルの「ニューヨークの想い」が流れていた。
邦題「想い」と訳されたstate of mind、このニューヨークで僕の心はどこにあるのだろうか。
季節が変わっても状況は好転しなかった。
彼女は英語教室を軌道に乗せ、横浜での生活が確かな形を持ち始めていた。
一方の僕は、ニューヨークの雑踏の中で、自分がどこに向かっているのか分からなくなっていた。
「仕事が落ち着いたら迎えに行く」
そう言うと、彼女は少し笑って
「また『落ち着いたら』なんだね」
と返した。
「あなたは、どこに向かってるの?」
「わからない」
その答えに、彼女は小さく息を呑んだ。
「そっか……」
その言葉は、静かな受け入れだった。
互いを縛りたくないという優しさが、皮肉にも僕たちを別れへと導いた。
電話を切った後、僕はしばらく受話器を見つめていた。
横浜の夜の気配も、彼女の声の温度も、もう僕の生活には触れない。
僕たちは喧嘩もなく、涙もなく、ただ静かに、潮が引くように離れていった。
遠距離恋愛には、努力では埋まらない距離がある。そのことを、僕たちは身をもって知った。
編集部のテレビではヤンキースタジアムの歓声が流れていた。
アトランタを破り、連覇を達成したというニュースに誰かが「すごい時代だな」とつぶやいた。
その歓声を聞きながら、僕は受話器を静かに置いた。
見逃したのは、ワールド・シリーズだけじゃなかった。
あの横浜で始まった時間も、いつの間にか、僕の手の中からこぼれ落ちていた。




