時の港
電話の相手は職場の同僚ダニーだった。
50歳の陽気なアメリカンは「早く帰ってこないとヤンクスの世界一を見逃すぞ」と教えてくれた。
アメリカでは今日からフォール・クラシック、MLBのワールド・シリーズが開幕だ。
われらがヤンキースは順調にリーグ・チャンピオンシップを勝ち残り、
アメリカン・リーグの代表として駒を進めた。
一方のナショナル・リーグはカリフォルニアの雄、サンディエゴ・パドレスだ。
僕は「サンディエゴには悪いけど、ニューヨークに戻らずにシリーズは終わるだろう」
と根拠のない予言をし、加えて
「月末公開の映画を見て帰国するから、ヤンキースタジアムには行けない」
と伝えて電話を切った。
彼女はしばらく僕の胸元に額を当てたまま動かなかった。
その小さな沈黙が、昨夜から続く“距離の変化”を静かに示していた。
「映画?」
彼女は顔を上げ、まだ僕の腕の中にいるまま訊いた。
「うん。どうしても観たいのがあって」
「ワールド・シリーズより?」
「……まぁ、今回はね」
彼女は呆れたように笑い、僕の肩に軽く頭を預けた。
その仕草があまりにも自然で、僕は何も言えなかった。僕は大きく頷いた。
この映画が後に社会現象になるとは、この時はまだ誰も知らなかった。
「ていうか、いつまで日本にいるの? 長くない?」
「来月の頭に母校の学祭に出てから帰ろうかな、って」
彼女がシャワーを浴びている間、僕は窓の外を眺めた。
晴れてはいるが、雨雲が張り出してきている。
天気予報では昼前から雨が降り、夕方には激しくなると言っていた。
初めて横浜で開催される日本シリーズなのに、今夜の第1戦は雨天順延になりそうだ。
シャワーを終えた彼女が戻ってくると、髪から微かに甘い香りがした。
タオルで髪を拭きながら僕の横を通ると、肩が軽く触れた。
わざとではない。
けれど、避けようともしない。
「こんな晴れた日は、海が見渡せるとこに行きたいけど、どう?」
「いいよ」
僕が答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔のまま、僕の腕にそっと触れた。
触れた指先は、離れる気配がなかった。
クロワッサンとカプチーノで朝食を済ませると、
彼女は自然と僕の隣に立った。
歩き出すと、肩が時々触れた。
そのたびに、彼女は少しだけ僕の方へ身体を寄せた。
ホテルを出て、港の見える丘公園に向かった。ベタな名前だ。
もう少しシンプルな名前はなかったのだろうか。それだけがいつも気にかかる。
港の見える丘公園へ向かう坂道は、思ったより急だった。
僕が少し息を切らすと、彼女は笑いながら僕の腕を軽く掴んだ。
「ほら、ちゃんと歩いて」
「歩いてるよ」
「じゃあ、こうしてあげる」
そう言って、彼女は自然に僕の腕を組んだ。
昨夜の距離が、そのまま朝にも続いている。
僕たちはもう、そういう距離だった。
「法律雑誌の編集者、なんて大学時代からは想像できないんだけど」
公園に向かう坂道で、彼女はからかうように言った。
僕は息を切らしながら笑った。それは僕自身も信じられない。
留学先の教授から紹介された雑誌のアルバイト。
そこでの良好な人間関係から、なし崩し的に僕の職場になってしまった。
元々はニューヨーカー向けのミニコミ誌を担当していた。
記事が足りなければ自分で書く、そんな適当な雰囲気が僕には合っていた。
マンハッタンで一番美味しいマンハッタンが飲めるのはどこか、
WTCで一番景色が良い部屋はどこか、
ヤンキースタジアムでもっともホームランボールをキャッチできるのはどの辺りか、
そんな下らないことを熱心に調べ、雑誌の中で紹介していた。
ある時、「身近な法律相談コーナーを設けて欲しい」という声が多く寄せられた。
ニューヨークでは、小さなトラブルが毎日のように起きる。
読者から届く手紙を読むたび、この雑誌が誰かの支えになっているのだと知った。
更に生活に突っ込んだニーズがあることには驚いたが、早急にコーナーをつくった。
3ヶ月のテスト期間は予想外の大反響で、独立した雑誌を発刊するに至った。
発刊に合わせて、僕は大学のカリキュラムを無事に終えた。
ニューヨークでの僕は社会人と学生の境目が不明確だったが、
昨年の夏にようやく正真正銘の社会人になったのだ。
「そんな泥臭くてタフな仕事は全然向いてないと思ってたのに」
「ニューヨークはタフじゃないと生きていけないんだよ」
僕は笑いながら言った。でもそれは真実ではない。
自分はタフだ、なんて思っている人ほどドロップアウトしていく。
4年の間に様々な人間模様を目の当たりにしてきた。
10月なのに蒸し暑かった。台風の影響で雨雲が発達しているせいだろう。
予報どおり午後からは雨になりそうだった。
公園への坂道を登っていくと汗が流れてきた。
坂を登り終えると眼前には横浜の港が広がっていた。
これだけ広大な港を見渡せる場所は多くないだろう。
坂を登り切ると、眼前に横浜の港が広がった。
青い空と紺碧の海が、ゆっくりと重なり合っている。
「カリフォルニアの空を思い出すね」
彼女が呟いた。
「確かに。ロスよりはサンフランシスコかな」
僕が言うと、彼女は僕の肩にそっと寄りかかった。
海風が吹くたびに、彼女の髪が僕の頬に触れた。
サンフランシスコを思い出した瞬間、僕たちはもう大学生ではないのだ、とようやく実感した。
僕たちはもう大学生ではないし、20歳の頃とは同じ価値観ではない、
そんな事が急に頭の中をめぐったのだ。
横浜の港を見渡して、サンフランシスコを思い出した途端に、
二つの時間軸のズレの大きさを感じただけでなく、僕自身の変化をも感じたのだ。
展望台の手すりに手を置くと、彼女は僕の隣に立ち、
肩を僕の肩に預けた。
その重さが、言葉よりも強く胸に響いた。
「こうしてると、なんか……落ち着くね」
「うん」
彼女は僕の手をギュッと握った。
その熱は“離れたくない”という気持ちを静かに伝えていた。
「昔より優しくなったよね」
「そう?」
「うん。なんか……ちゃんと隣にいてくれる感じ」
彼女はそう言いながら、僕の手を握った。
握る力は強くない。
けれど、離れる気配はまったくなかった。
しばらく港を眺めていると、彼女は小さく息を吸った。
「……もうすぐ、帰っちゃうんだよね」
その言葉は、海風よりも冷たく胸に触れた。
「うん。でも、またすぐ会えるよ」
僕が言うと、彼女は首を横に振った。
「すぐって言っても……距離は変わらないよ」
その声は、強がりではなく、ただの本音だった。
僕は自然と彼女の肩に手を回し、ゆっくり抱き寄せた。
彼女は驚いたように目を見開き、すぐに僕の胸に顔を埋めた。
「……離れたくないんだよ」
その言葉は、涙の手前で震えていた。
僕は彼女の背中をそっと撫でた。
彼女は僕の胸元を掴み、抱きしめ返した。
僕は彼女の髪をかき上げ、そっと唇を重ねた。
港の風が吹き抜ける。
空は高く、海は広い。
その中で、僕たちはただ静かに寄り添っていた。
時はゆっくりと、しかし確実に進み、思い出と悔恨を積み重ねていく。
その先に何が待っているのか、この時の僕たちはまだ知らなかった。
船はゆっくりと沖へと進んでいき、白い波をたてていた。
僕たちはその光景をただ見つめていた。




